句あれば楽あり ?

久保田万太郎の俳句 一

至遊(しゆう)



 久保田万太郎は浅草生まれの浅草育ちである。従って浅草神社境内に

   竹馬やいろはにほへとちりぢりに

の句碑が残っている。その裏には小泉信三氏の撰文があり、それだけで彼の人となりが分るという名文である。ここでは長くなるので略す。万太郎は戯曲作家であり小説家でもあった。俳句のことは自分では余技、または「かくし妻」だと言っていたらしい。だとすれば本業よりここに本音が書きやすかったのかも知れない。だから今後は、本業よりも俳句作家として名を残すに違いないとは成瀬櫻桃子氏の言である。

 俳句の本流が子規から碧梧桐、虚子という流れだとしたら、万太郎は決して本流に居た人ではない。籾山梓月、松根東洋城に学び、芥川龍之介と親しくしてきた。気取ったところがなく、また「上手い!」としかいいようのない、独自の表現力を持っている。

 彼の句の中で好きな句を抜き出してみたら、いくつかの特徴はあった。まず「けり」「かな」の多用である。だから途中での切れは弱く、一挙に詠み切るという感じのする句が多い。またひらがなの多用も目立つ。技法というより、ひらがなの柔らかさが好きだったのだろう。また「さびしさ」と言えば「寂しさ」なのか「淋しさ」なのかと、読者に任せることもできる。戯曲は声で意味を分って貰う台本だから、戯曲作家としては自然だったのかも知れない。もう一つの特徴はその「さびしさ」を主体に詠んでいることである。これはかなり若いうちからそうである。

   神田川祭の中をながれけり

   もち古りし夫婦の箸や冷奴

   さびしさは木をつむあそびつもる雪

 最初の句は以前にも出したので省くが、この3句とも20歳から34歳の間に詠んだ浅草時代の句である。たしかに夫婦箸なんかは、数年持つと「もち古り」た感覚にはなる。しかしこの句全体が醸し出している味は、平均年齢の低かった頃の作とはいえ、還暦を越えた人を思わせる。「冷奴」が私の主食なのは、俳句の座の仲間は皆さんご存知だが、だからこの句を挙げたのではない。古びた箸で「冷奴」をつついているのが、私の歳に合っているからである。

 「さびしさは」の句も「さびしさ」が主役であり、「木をつむあそび」も「つもる雪」もそれを増幅させるための脇役である。「さびしさ」という風に心情を直接的に持ってくるのも、一般的に俳句では避けたがるものである。答が最初に来ているからである。しかしこの句では「雪」まで読むと、また「さびしさ」に戻って行く、さびしさスパイラルのようなものがある。

   夕端居一人に堪へてゐたりけり

   夜光蟲闇をおそれてひかりけり

 これでやっと昭和である。明治二十二年の生まれだから、昭和九年というとやっと四十台半ばまでの句である。戦争の匂いもしてくる。若い者は段々居なくなる。昭和3年に龍之介も自ら命を絶った。本当に話のできる相手が、どんどん居なくなる。「一人に堪え」る必要のあった時期なのだろう。また何物か恐ろしいものが、常に自分を見張っているような緊張感もあっただろう。「闇をおそれて」光ってみたところで、闇を消すだけの力はないが、それでも光らずにはいられないのである。

   正直にものいひて秋ふかきかな

 これは何時の作か知らない。しかし楸邨の「鰯雲人に告ぐべきことならず」に近い印象を持つ。何となく言論の不自由な時代の作かと推定してここに置いた。逆に正直さの足りなかったのが

   うすもののみえすく嘘をつきにけり

という句になって来たのであろう。自己嫌悪に苛まれている姿が浮かぶ。ただそんな句にも「うすもの」と「みえすく」を合わせるなど、遊びごころは捨てていない。

   借りて着る浴衣のなまじ似合いけり

 戦災に遭い、焼け出されて鎌倉に越したときの作かもしれない。俳味の中に「さびしさ」を隠し持っている句である。自分を持つことが出来なかった時代に、新劇運動という自分を持たなければ出来ない仕事をしていた。借り物の浴衣が似合うというのが悲しかったのかもしれない。

   何もかもあっけらかんと西日中

 これが終戦日、敗戦日に詠んだ句である。今までの張りつめた心が嘘のように軽くなったのだろう。「あっけらかん」という言葉で「ほっ」とした気分と、あっけなさを同時に表わしている。戦争が生活のすべてにのしかかっていたので、「何もかも」であり、あの真夏の午後に始まった価値観の大混乱も本能的に感じ取っていたのかも知れない。

 終戦で切りがいいので今回はここで止める。すべてに作句の時期が分っている訳ではないが、次回はこの後の句を中心に取り上げてみたい。