句あれば楽あり ?

真樹俳句鑑賞 二

至遊(しゆう)



   飼い慣らされた怒り立夏の海青し

 私の好きなタイプの句である。自分は一生懸命抵抗して来た積りでいても、何時の間にか世に合わせた生き方、自分の意にはそぐわない生き方をしていることに気づき、愕然とすることがある。実際にはそうであってこそ、世渡りは出来るのだろうが、自分の一部を殺してきた生活に悔いも感じてしまう。怒りは自分に向けてのものであり、不甲斐なさへの怒りである。だけどまた次の瞬間から、さっき悔いた筈の生活に戻っていく。極めて自然に。
 この海は青いと言っても、少し黒ずんだ青だろう。春の海のぼんやりした色から、夏に向かい、少しずつ強烈な色に転じて行くが、その黒さを湛えていないと面白くない。これは勝手な読み方だが、やはりそうであって欲しい。

   満天星紅葉地に硬質の水流れ

 これは吾妻渓谷への吟行の時に生まれた句である。川原湯温泉の中の「むささびの宿」と呼ばれる宿に泊った。夕食後、「むささびが来た!」という声とともに窓にへばりついて、仲々全身を見せないムササビを眼で追ったものである。その時このあたりは間もなくダムの底に沈むという話を聞いた。硬質の水は温泉であるとともに、この地にへばりついて生きている硬質の人たちへの応援歌とも取れる。地下に硬質の水が流れているせいかどうかは分からないが、満天星(どうだん)が真赤に紅葉していた。ダムの見直しがあちこちで叫ばれ始め、ここも生き残ればと思う。

   渺渺と枯れ野がつづく方眼紙

 不思議な句である。「渺渺と枯れ野がつづく」と「方眼紙」の完全な2物衝撃である。しかも大きな拡がりのあるものと、机の片隅を占めるだけの小さなものの対比である。発想の原点がどちらにあるか分からない。枯野を見て方眼紙が頭に浮かんだのか、はたまた原稿用紙に向っていて、心の中に渺渺たる枯野が映ったのか、どちらとも取れる。ただ方眼紙に向ってはいるが、原稿ははかどっていないようだ。原稿用紙の上も、まだ渺渺たる枯野の状態であろう。また作者が「枯れ野」と「れ」を入れた理由も分からない。枯野では静的だが「枯れ野」になると、今枯れて行っている野のような動きを感じる。もしそれを意識していたなら、この句の主眼は「枯れ野」になる。

   山茶花の死角に棲みて雪錆びる

 山茶花の垣根でもあろうか、陽の当たらない場所がその中にある。いわゆる太陽からみて死角になっている。そこに降り積った雪は、心ならずも棲みついたようにいつまでも溶けない。東京のように滅多に雪の降らないところでは、その上に更に雪が積るという現象がないだけに、棲みついた雪も錆びるように汚れて色が変ってくる。情景としてはそんなところだろう。ただ「棲む」という言葉を使うと、人か動物である。この場合はもしかすると、山茶花の死角に棲んでいるのは作者かも知れない。何か嫌なことがあってつい隠れたくなったのかも知れない。「死角」という言葉がどうしても、楽しくない連想を誘ってしまう。でもこう読んだ方が、作者の心理をあれこれ詮索できて面白い。

   老い不意に天道虫が腕に来て

 「老い」が不意に来たのか、「天道虫」が不意に来たのか、それとも両方なのかどうとも取れる。形から言えば「老い不意に」で切って読むところだろう。確かに老いは段階的にやってくるので、ある時に強く感じることがある。ただ天道虫というのは明るさをもたらす虫のような気が私にはする。だから作者はこの老いを落ち込んではいない。天道虫と遊ぶ余裕がある。ただ作者が昆虫が好きだったかどうかは、余りそんな場面に遭遇していないので何とも言えない。
 上は普通の解釈だが、家庭の事情を聞かされている私には、お母さんの老いのような気がする。自分のこと以上に、高齢の肉親の老いを感じるのは、ドキッとすることだろう。

   水甕に水なき秋思めはりずし

 熊野吟行の折に詠まれた句である。名物ということで、めはりずしは確かに食べたが、その近くに大きな水甕が置いてあったということは、句会の席で聞くまで、全く気づかなかった。水も湛えていないとすれば、この水甕は何のための甕なのか。いわば無視された存在で、人目につかないところに置かれていたのであろう。そこに「秋思」という言葉を嵌めた。春愁には何か甘ったるいものもあるが、秋思には寒さに向う淋しさと、厳しさに立ち向かう凛々しさが混在している。喩え無視されようが、人間の役に立っていようがいまいが、ちゃんとした己を持っている。めはりずしの高菜の少し辛味のある味と上手くマッチしている。