句あれば楽あり ?

真樹俳句鑑賞 一

至遊(しゆう)



 前回の文に真樹先生の句を入れたら、「解説が必要です」という反応がありました。ただ他人の句は鑑賞は出来ても、解説は出来ません。このように「解釈」した責任はすべて私にあることを前提に、鑑賞文を書いてみます。

   たかんなの皮ぬぐ音の紺がすり

 「たかんな(筍)」が皮を脱ぐ音が聞こえるかどうかは定かではない。ただ脱いだ皮が落ちるときの音はかすかにする筈である。乾いたような軽い音。「紺がすり」というと駒場の民芸博物館に思いが行く。私がここで「紺がすり」の句を詠んだことがあるからだということははっきりしている。「紺がすり」も落せば、乾いた軽い音がするに違いない。この句の魅力は、単にその類似性を見つけたことにあるだけではない。

 俳句としては「音の」で一度軽く切れている。それまでの五・七が全部集約されて「紺がすり」の中に入り込んでいる。「たかんなの皮ぬぐ音の」という長い文が「紺がすり」という短い文に吸い取られてしまっている。だから主役は「紺がすり」である。

 ただここで終らない。「紺がすり」のイメージがまた「たかんな」に逆流する。もう一度「皮ぬぐ音」が聞こえてくる。その意味ではこの句は非常に技巧的に構成されていると言える。その分、生活感は消えてしまい、ある意味できれいに纏まっているのが、功罪両面を持っていると言える。私にこのセンスが欠けているので、私にとっては「功」の方が多い。

   半日は汗半日を薄味に

 季語は「汗」で当然夏である。1日を24時間として12時間を一生懸命に働き、残りの12時間は「薄味」、すなわち、ゆったり自分の身体と心を労わる時間に充てる。勿論、睡眠時間も「薄味」の側に入っている。

 このような生活を毎日送っている自分が、作者としては何ともいとおしく思えている。何よりも「薄味」の時間が持てる生活がいい。作者はこれが毎日のリズムだとは全く言っていない。もしかすると、特定の日にこんな感想を持ったのかも知れない。この句を詠まれた日には、これで大満足だったという気分にさせてくれる。しかし私としては、作者が基本的にこのリズムを守って生活をし、その生活が気に入っていると解釈したい。

 句会の後には大抵反省会じみた飲み会をやる。先生は最低私と月に5回は飲んでいることになる。先生は殆んど飲めない人だが、その席で忌憚の無い話がでてくるので、ちゃんと付き合ってくださる。そんな日は「薄味」の時間が12時間を切ってしまうかも知れない。何しろ飲み会の席でも先生は気が抜けないからである。意見を求めてくる人に、丁寧に答えて下さっているから。でもどこかでその分は取り返すべく努力されているのだと思う。

   名月や常の時刻に火を落す

 「名月」という年に一度の非日常の世界、それと全く日常の生活とを組み合わせた句である。名月だからと言って、生活のリズムは崩さない。そんなこだわりが垣間見える。名月が霞んで見えてしまう。やはり日常の方が重要なのであろう。

 一方で「名月や」という非日常が、最初にいきなり出てくるところに、作者の真骨頂がある。喩え結果的には日常に重きを置くことになっても、非日常を点景として置くことにより、日常の世界がむしろ強調されている。全体が日常であれば「常の時間に火を落す」のは当たり前であり、何の感興も催さない。

 「火を落す」という行為はガスが生活の中に入り込んできて、昔のような重大なことではなくなった。昔は本当に夜になると種火が消えたことを確認し、逆に日中はその種火の保管には気を使ったものだ。ただ今でもマンションでは、リモコンではあるが寝る前に種火を消すのが、私の日課である。種火が点いているとファンも廻っている。二重の無駄になってしまうからである。別に地球温暖化防止などという大きな理念はない。

   言いわけのせりふ咥えてかいつぶり

 言いわけがしたいのである。言いたいことは山ほどある。しかしここで言うと波風が大きくなる。だからそれをじっと堪えている。「かいつぶり」は一年中居るが、俳句では冬の季語。いわゆる「鳰」である。ご存知の通り水に潜るのが得意である。作者は言いたいことは言わないまま、身を隠してしまうという手をとったのだろう。

 「もの言わぬは腹ふくるるわざ」というから、作者もかなりお腹に溜まったものはあったのだろう。そのちょっとしたはけ口が、この句を詠むことだったのだと思う。俳句にはそんな効能もある、なんて言うのはPRのし過ぎか?作者の無念さとそれを多少なりとガス抜きできた安堵感という心の動きが混ざり合っている、それを無念とも何とも言わないで表現しおえたところに、却ってその気分が現れている。作者の力量が偲ばれる句である。

 鑑賞は所詮鑑賞者の力の範囲でしかできない。「そんな単純なことじゃないよ」と作者には言われそうだし、逆に読んで頂いている方の中には、そこまで読むの?という人も居るかもしれない。また最初の「たかんな」の句などは、却って分からなくなったという意見もあるかも知れない。こんな文を書いてみるのも私の勉強の一環なのである。