句あれば楽あり

俳句の効能

至遊(しゆう)


 俳句を始めてから10年程になる。まだ初心者の部類だろう。初心者は初心者なりに、意見や悩みを持つものである。青木さんからの励ましもあったので、恥を忍んで数点の原稿を出してみることにした。

 私の本名は福山秀雄というありふれた名前である。至遊という俳号を5年前につけた。別に遊び人ではない。堅く言えば「遊」は学問の最終段階でその下が「楽」である。「楽しむ」境地から「遊ぶ」境地に至りたい、のである。などと理屈はつけるが、名前の「秀」を「しゅう」と音読みしたものと思って頂ければいい。

 今回は、私が俳句を始めてから良かったと思うことをいくつか挙げてみたい。まずかったと思ったことは一つもないので書きようがない。


1.物の名前を覚える

  特に植物で花に限らず若葉、落葉、紅葉とすべての時期が美しい。それを句にしようとするとき、ただ「名も知らぬ・・・」では能がない。だから詳しい人に聞く。半分は忘れるが、脳味噌の在庫も多少は増えている。こまかく動いて姿を仲々確認できない小鳥は苦手であるが、動植物に限らず暦や事象にも敏感になる。仲秋の名月は芒や団子とともに眺め、8月には原爆忌と詠みたくなる。下は八が岳に住むある画伯の家を訪ねたときの挨拶句。

   とらの尾の一輪挿しに迎えられ     至遊


2.漢字を覚える

  パソコン全盛になって、私もパソコン無しでは生活できないほどになっている。それに関連して良く言われることが、漢字が書けなくなるということである。ところが、俳句を詠むのに薔薇や憂鬱が書けないでは気分が出ないときがある。勿論「ばら」「ゆううつ」と書いてもいい場合もある。しかし詩として、見た目も大切である。幸いパソコンは文字を出してくれる。それを写せば済むことである。老眼の眼には厳しいこともあるが。

   人間(ジンカン)にまだ未練あり冬薔薇(ソウビ) 至遊


3.物に注意を払うようになる

  例えば花水木の花だと思っていたのが、実は萼であることに気付く。楓の実も意外に美しい。増してや萩が咲き始めたり、木犀が散り始めたりというのは嫌でも目に入る。帰り花という季節外れに咲いた花もいとおしくなると同時に、温暖化現象の現われかと社会問題にまで広げて考える。ただ妻のヘアスタイルの変化にだけは何故か気が付かない。

   柚子の香や昨夜とずれし皿の位置    至遊


4.退屈する暇がない

  そんなこんなで、退屈という文字を知らない。今、月に3つの句会に顔を出している。機関紙も編集している。何だかんだで月に30句は詠まないと追いつかない。不思議と句の題材は忙しいときに浮かぶもので、それをブラッシュアップすなわち推敲するのは、仕事のないときである。従って空きの時間はなくなる。

   汗のシャツと今日の不満を脱ぎ捨てり  至遊


5.ボケない

  これは自分で経験していないので、断言は出来ない。ただ高名な俳人を見ていると、ひどく病弱で惜しまれて早逝するか、えっまだ生きてたの?というくらい長生きかのどちらかである。もう早逝の時期は過ぎている。とすれば長生きしかない。しかもこの人達は、いつも脳味噌を働かせているせいか、亡くなる直前に雑誌にちゃんと投稿したりしている。別に長生きの願望はないが、最期まで元気でいるのにはあやかりたい。

   冬耕や錆びずに生きてゆきたいと    至遊


6.続けられる

  体力はあるに越したことはないが、衰えても何とかなる趣味である。それなりの境地というものがある。金は殆んどかからない。年金生活でも何の支障もない。寿命が延びたせいで、簡単に子規の生涯に年数だけでは勝つことができる。芭蕉だって50を過ぎたばかりで「夢は枯野を駆けめぐ」った。実質35年程度の句作なら頑張れば何とか。

   湯豆腐やゆっくり生きる術を知り    至遊