句あれば楽あり ?

桂 信子の句 三

至遊(しゆう)



 桂信子の最終回である。最初の頃とはかなり句風が違って来ているのが判ると思う。むしろ面白味は減って来ているかも知れない。ただこの人のきちんとした姿勢は変らない。また有る物をあるがままに詠んだ句が多く、特に自分の意見めいたことは言っていない。かと言って自然にそこから感じられるメッセージめいたものも少ない。新興俳句系には珍しい、寡黙な俳句である。

   傘さして闇に花蘂降る気配
 花蘂が降る季節である。ただ今夜は雨が降っている。和傘をさして歩いているとその雨が当たってパラパラと音がする。それがまるで桜蘂の下を歩いている気分にさせてくれるのである。夜だからその錯覚を錯覚と感じないで、本当に桜蘂だと思える。

   野の果をずいと見渡す更衣
 春から夏への更衣。身も軽やかになり心も軽くなる。何となく心も大きくなる。特に背広というワンパターンに縋り易い男と違って、女は新しい気に入ったものが着られるということ自体で、まるで女王様になった気分に浸れるのかも知れない。「野の果を」「ずいと見渡す」という視点と行動が、その偉くなった気分を上手く出している。他人から見ればただの着替えなのに。

   初午や結び疲れの赤い紐
 初午は2月の最初の午の日であり、まだ寒いが春の句になる。「結び疲れの赤い紐」を、本当に何度も結んで古くなった紐と取ることも出来るが、「赤い紐」からはいわゆる男女の結びつきが連想される。結ばれる運命の男女は赤い紐で結ばれているというが、長すぎた春と同じで、余りにも長い間結ばれていると、紐の方が草臥れてくる。結局男女としては結ばれなかったことを暗示しているように見える。深読みのし過ぎか?

   涅槃像の肉色の足伏しをがむ
 涅槃像とは釈迦入滅の姿を表わした絵または彫り物である。これには季語性はない。ただ涅槃会は旧暦2月15日だから春である。釈迦の姿は寝た形で描かれる。いわゆる「寝釈迦」である。東南アジアではよく寝釈迦の像を見かけるが、日本ではあまり見たことがない。「肉色」でまるでまだ生きているお釈迦様のような像を拝んでいる。句としては切れがはっきりしない。「肉色の足」で軽く切れているのだろうが、必ずしも訴えてくるものは強くはない。吟行句的。

   日は空を月にゆづりて女郎花
 蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」をどうしても思い起こしてしまう。これは蕪村より時間的にもう少し遅い。もう完全に月の世界になって、そこに頼りなげな女郎花がほのかに見えている時刻である。蕪村が大景で押し通したのと違って、大空という大景から女郎花という小景に焦点を絞っていく。これはこれで変化に富んでいて面白い。何故女郎花なのか。夜の街での女郎を連想させてしまうが、作者に本当にそんな意図があったのだろうか。

   水の上に炎のひとひらや花篝
 耽美的な句である。桜の木の傍に池でもあるのであろう。そこに花びらは散っている。その上に夜桜見物のための篝火がチラと映る。それも映りっぱなしではなく、風の関係だろうかチラチラとしか映らない。その映された炎をも花びらに見立てているのである。炎を「ひとひら」と表現したところが成功であろう。

   鉄鉢や施米にまじるさくら蘂
 この修行僧は花の終わった桜の木の下を通ってきたのであろう。手に持った鉄鉢の中に盛られているわずかばかりの施米、そこに桜蘂が混じっているのを、多分自分も施米を入れようとして気づいたのである。何ということもない発見だが、僧と桜蘂の取り合わせが、風流と無風流との取り合わせの典型のような気がして、何となく面白い。

   板の間の漆黒を踏む冬の宿
 漆黒は板の間が本当に黒いのか、それとももう短い日は暮れて宿全体が黒いのか、どちらとも取れる。多分両方であろう。句そのものからは「板の間が黒い」ことになるが、感覚的に両方なのである。作者は暗くなってから宿に到着した。だから今案内されて自分の部屋への板の間を「踏んで」いるのである。何となく先行きの不安めいたものも感じ取れる作品である。

   まつしろな猫に睨まれ春の風邪
 早春は猫にとっては求愛の時期である。ただここではそんな様子は全く描かれていないが、猫が睨んだあたり、多少気が立っている様子を窺わせている。まだ多分かなり寒い春であろう。白い猫はその寒さを増幅させているようである。別に因果関係はないので、そのせいで風邪をひいたとは言わない。ただそんな気分にさせられてしまうのである。

   白菊に加ふるものを探し居り
 「白菊の目に立てて見る塵もなし」という芭蕉の句が思い浮かぶ。その白菊に何を加えようかと探しているという。どう見てもそれは見つかりそうにない。白菊は白菊として、それだけで十分鑑賞に耐えるから、何も余分なものは要らないのである。だから本気で探している訳ではなく、釣り合うものが無いことを確認しているだけである。

   枯芦へ落日は金放ちたる
 九十九里の近くの駅の周りがすべて枯芦野だったことを思い出している。枯芦の拡がる野は壮観であると同時に寂しいものである。その寂しい枯芦への光のプレゼントである。上の白菊の句が加える必要のないものを探しているとすれば、この金色の夕日の光はこの風景に加えるべきものである。弱きものへの優しい目が感じられる。

   壺の口ひろきを移る秋の翳
 この「秋の翳」は実際には何だろう。秋の鰯雲か秋の風か、色々と自分が今まで体感したことと重ねて考えることが出来る。壺がその外の空気を汲み取るには、やはり口は広くなければならない。その壺には水が満たされていなければならない。その水は多くの秋を映してくれる。つなぎに「移る」という言葉が入っている。動かない壺の周りで、秋の翳は動いているのである。

   時計師に微塵の秋日身のまはり
 この句は、手持ちの句集には載っていなかったので、どの句集のものか知らない。細かい作業をする職人。本当は塵は禁物のはずである。ただ半導体工場のような無塵室を持つことは出来ない。秋日が斜めに作業場に射してくると、否が応でも普通の空気の中に浮かんでいる小さな塵が浮き出されてくる。秋日は多分職人の身辺だけに今射しているのであろう。だから「身のまはり」にだけ「微塵」が見えるのである。黙々と仕事を続けている時計師の姿が、くっきりと浮かんでくる句である。