句あれば楽あり ?

桂 信子の句 二

至遊(しゆう)


 前回まで分らなかったことで1つ新しく分かったことがある。石寒太氏によれば、桂信子氏は結婚2年目にして夫と死別、爾後自活ということである。前回の号で女の艶を表に出した句が沢山あったが、この辺の影響があるかも知れない。

 前回の最後の方ではその傾向はなくなっていた。あのままでは大成できなかったかも知れない。とは言えほんのりとした色香は今でも漂う。女を否定しないで生きてきた人と言える。今回は「晩春」「新緑」「初夏」という、昭和30年から52年までの句を見ていく。

   
菜の花に日月淡し師の歿後

 師は日野草城の筈である。実際には春の日はきらきらと見えるのが普通である。明るい菜の花に注ぐ月はともかく日が淡いというのは、心理状態がそう思わせたとしか考えられない。または殆んど菜の花も見てはいても眼中に無かった、すなわち観てはいなかったと言うべきかも知れない。「日月淡し」の日月は「月日」と同じで、単なる時間の経過かも知れない。その時間さえ「淡い」のである。尊敬していた師であればあるほど、そこに空いた穴は大きいだろう。

   
薔薇挿せども空瓶になほ洋酒の香

 洋酒の瓶はどこから持ってきたかは言っていない。もしかすると生前のご主人の愛用のものだったかも知れない。薔薇の香は強いが、それでもなお洋酒の香を消せないでいる。すなわち忘れようとしても忘れられないでいる。もっともその記憶の残りを慈しんでいる風情も見え、この洋酒の瓶はしばらくは手許にあることだろうと、勝手に推測する。

   
香水の香の内側に安眠す

 その薔薇からも香水はよく作られる。好きな香りに包まれている間は、緊張もなく安心して生活できるのであろう。香水の匂う範囲があり、その内側で眠るという実際には確認し難い情景を、まるで布団の中にいるのと同じように信じきっている。女性ならではか。

   
睡蓮の一花のために水に寄る

 「うん、分かる」と言いたくなる句である。それだけに川柳の「うがち」の手法を利用したとも言える。睡蓮の花は意外に小さい。モネの絵のような見方をしようと思えば、出来る限り近づかねばならない。だから水際まで寄ってくるということになってしまう。それが分かるから「うがち」である。

   
枯山の奥なまなまと滝一筋

 冬の滝である。多分しかもかなり遠景で、水の動きがようやく確認できる程度の距離である。その水の動く様を「なまなまと」とまるで生き物のように表現した。その滝を「一筋」と認識できるのは、多分かなり離れたところだろうというのが「遠景」と決め付けた所以である。しかも冬の枯れ山。従って夏と較べれば水量も少ない。その細い一筋が「なまなま」と動いているのである。

   
燈台の白染める陽よ多佳子の忌

 多佳子は橋本多佳子。女流俳人の草分け的な存在である。燈台に夕陽が当たって、本来の白い壁面がピンクに変る様は、誰もが見れば句にしてみたいと思う場面だろう。多佳子という才色兼備の人は、時には激しく、時には色っぽく人の心理を詠みこんだ句を詠んだ。その人をあしらったのだが、取り合わせる人(物)によって句は生きもするし、死にもする。この美しい情景は多佳子忌で生かされたケースだろう。多佳子忌は5月25日、初夏。

   
橙のころがるを待つ青畳

 青畳にそんな意志のあろう筈がない。しかし作者はそう感じたのである。というより願望に近いかも知れない。自分が青畳で、何かを待っている。相手が何かを仕掛けてくるのを待っている。それも素知らぬ顔をして、というところか。

   
わかさぎを薄味に煮て暮色くる

 公魚は佃煮にもあるくらいだから、好み次第でどう煮ても美味しいのだろう。私はどちらかというと佃煮的な味を思い出す。だが公魚は春の魚である。その春の暮、ピリッとした感じはしない時期である。だから薄味でないと合わないのかも知れない。ただわざわざ薄味と断るところを見ると、いつもの自分の味付けではないかもしれない。誰のためか、それは分からない。

   
紅梅の隙間からくる悪寒かな

 紅梅の咲く時期はまだ寒い。また紅梅の紅は時として悪魔的な色にも見える。その点白梅の純粋さと較べると損をすることがある。悪寒を感じたのを紅梅の、しかもその「隙間から」来ると表現した発想は独特のものであろう。

   
夜の町は紺しぼりつつ牡丹雪

 山本健吉氏が「俳句鑑賞歳時記」の中で、信子の句を3句紹介している。この句もその1つである。牡丹雪を春の淡雪と見立てて、その美しさを「紺しぼりつつ」という表現で、色感とうるおいを微妙に捉えていると評している。夜の暗い空から次々と花びらのような雪片が現れるのを、不思議な気持で見ていたことがある。窓の灯りに照らされると暗闇から急に出て来て、また暗闇に消える。これを句にしたくて成功しなかった記憶がある。脱帽である。

   
大津絵の鬼が手を拍つ紅葉山

 大津絵とは、元は三井寺周辺で売り出された、庶民の礼拝用の仏画である。主な画題の中に、鬼の念仏がある。だからこの紅葉山も琵琶湖の周辺の山と見たい。「鬼が手を拍つ」とは仏画だからそんな絵もあったかも知れない。しかし「手を拍つ」図柄の鬼でなくても、手を拍ちたくなるような紅葉山だと言いたいのだろう。戯画的である。

   
紫蘇しげるなかを女のはかりごと

 一般に言われる謀とは全く違うレベルの話である。先ず紫蘇が茂っているという勝手口的な場所の設定がある。しかも「女の」とわざわざ断ってある。女を馬鹿にするなという声が聞こえて来そうだが、歴史を動かすような謀は、やはり男の側から仕掛けたことが断然多い。もっと違うレベルで、例えば近所付き合いなどに関して憤慨し「絶対あの人とは口も利かないでねっ!」なんていうことはしょっちゅうだろう。そんなことと考えたい。

   
花の咲く一日前のさくらの樹

 「一日前の」というところがいい。大好きな句の一つである。咲き誇っている桜を詠んだ句は多い。そして花に負けて仲々うまく行かない。桜がいくら「パッと咲いてパッと散る」と言っても、1日で急に満開になる訳ではない。だから作者は、明日は多分見頃になる日だと確信しているだけである。ただその自信と、明日咲くべき桜に愛おしい眼を向けているのが、明日に対する期待と同時に桜の樹に対する愛情になっている。