句あれば楽あり ?

桂 信子の句 一

至遊(しゆう)


 従妹が本当はこの人の弟子になりたかったという。だけどその勇気はないともいう。それだけこの人の句は姿がいい。むしろきちんとし過ぎていて、従妹のように近寄り難いイメージを持ってしまうのかも知れない。本人の個人的なことは、普通の本から入手出来る情報以外には、全く知らない。だから漱石の時のように多くは書けない。むしろシンプルに俳句を通してのみの鑑賞となる。生れは大正三年(1914)で、日野草城に師事、「草苑」主宰。先ず昭和十三年から昭和三十年までの「月光抄」「女身」という初期の句集から拾う。

   朝光(かげ)に紅薔薇愛(かな)し妻となりぬ
 「朝光」と「愛し」で、何らかの喜びを控え目に表現している。そして「妻となりぬ」と直截に言って、その喜びをもたらした原因を明かす。上五中七が、どちらかというと和歌的な抒情を醸し出しているのに対し、座五は大胆である。こう叫びたかったのかも知れない。

   
ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ
 平仮名を並べたところが、技巧的であるとともに、一種の恥らいを感じさせる。「人妻」と言えば表意文字だから意味が一遍に分かる。そこを「ひとづま」とすると、一瞬なに?と思ってしまう。何か隠しておきたいことのような印象を与える。ここまでくると「えんどう」も当然平仮名になるだろう。これで本当に柔らかく煮えた雰囲気が出る。しかも「ひとづまに」であり、主語は「えんどう」である。だから何となく豌豆が勝手に柔らかく煮えてくれたような錯覚になる。まだ自己主張なんてしなくても、立派に幸せなのである。

   
日ざかりの黄の花にくみ熱に耐ふ
 「病中」という前書きがある。私も前に「黄のかんな」を使って病中の句を詠んだことがある。句会では「黄色でなければならないのか」と聞かれたが、そうなのである。何故か絶対に黄色である必要があった。そこにこの句を見つけて、わが意を得たりという感じだった。ここでは「かんな」とは書いてないが、夏の黄の花とするとかんなの確率はかなり高い。まさか向日葵ではないと思うが、それはどっちでもいい。黄色と病気の取り合わせで満足である。

   
海が香やひと来て坐る青畳
 ある意味で不思議な句である。海の香と青畳に違和感がある。折角の青畳が急にべとべととして来そうである。しかも青畳の上に居るのは自分ではない。第三者として観察している風情である。「ひと」という表現からは、親密な関係は浮かんで来ない。何となく冷たい句と言える。

   
りんご掌にこの情念を如何せむ
 この辺から急に色っぽくなる。身体は火照っている。それを冷たい林檎を手に持つことによって抑えている。でもその程度では、内側から燃え上がる火は消せない。どんな状態だったかは分からないが、どうしようもなく身悶える女を「如何せむ」だけで言い切っている。

   
すすき野に肌あつきわれ昏れむとす
 これも何か謎めいている。「すすき野」だから晩秋、もう朝夕は寒くさえある時期。上の句の「林檎」と同じ役回りである。「肌あつきわれ」は「この情念を」に対応する。少し情の世界から肉感的な世界での表現になっているとは言え、言わんとすることは同じだろう。そしてまた「昏れむとす」が見事に「如何せむ」に対応する。上の句にはまだ迷いがあったが、「昏れむとす」は割り切った諦めとも取れるし、夜に向っての決意とも取れる。勢いから言って後者だと考えたい。

   
ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜
 夏だから浴衣姿だろう。安心して逢える人であろう。だから浴衣でさえも「ゆるやかに」着る気分になれる。半ば浮き立つような気持と同時に、一方では螢に託してある覚悟もしている。何しろ螢の命は短い。それでもいいのである。

   
やはらかき身を月光の中に容れ
 月光は必ずしも柔らかくはないであろう。秋のやや冷えた空気の中を通ってくる光だから。その中に自分の「やはらかき身」を押し出したのである。柔らかい身が固い月光を押しのけて行く。だが月光との張り合いではなく、月光に包まれている幸せを、身体中で感じているのである。

   
窓の雪女体にて湯をあふれしむ
 外は寒い雪。そこに満々と湯舟に湛えられた湯があり、だから身体を入れれば湯はあふれ出る。当たり前といえばそうだが、ある意味で贅沢の極みであり、「極楽、極楽」とつい口に出したくなる情景である。湯に入るのが女体であることが、遠くない昔まで女性は男より後に風呂に入り、そんなに満々とした湯は体験出来なかったことを考えると、ある意味が出てくる。もしそうでなければ「女体」は単に男への媚びになってしまう。

 季節も異なり、全く関係なく詠まれた「りんご掌に」からこの句までが、読み方によっては、まるで繋がった連作のようなストーリーになる。どんなストーリーになるかは各自思い描いて頂きたい。

   
ふところに乳房ある憂さ梅雨ながき
 これは女性にしか詠めない句である。乳房は確かにふところのあたりにある。でもふところにまるで仕舞い込んだような表現は、男には浮かんでこない。というより実感がないから無理である。何となく作者は女であることを恨めしく思っているようでもある。それが「梅雨ながき」という言葉でより確からしくなる。

   
平らかに畳に居るや春のくれ
 ここへ来ると女を表に出さなくなって来る。のんびりした春の暮、暖かくなるということは意外に体力を使うものらしい。私はその時期になると大抵歯茎が腫れてくる。こんな季節だから、ただ静かに畳の上に坐っているこのひと時が心地よいのである。「平らかに」という言葉だけで、静かな姿とともに静かな気持まで見えてくる。

   
ひとりひとりこころにありて除夜を過ぐ
 除夜を過ぎたのだから、年が明けたのだろう。年末には年賀状書きに追いまくられる。日頃疎遠になっている人の顔も浮かんでくる。そのイメージをそのまま引きずって除夜になってしまって、まだそれらの顔を心に浮かべている。「去年今年」という新年の季語があるが、その二年に跨って人を思っている、この季の特殊性が詠ませた句であろう。