句あれば楽あり ?

自分の俳句から 五

至遊(しゆう)


 次の第5集が出るのは2003年末の予定なので、取りあえずこのシリーズはこれで一応一休みとなる。前の第4回が少し重い俳句が多かったのに対し、今回は身の回りを詠んだ句が多い。

   
小正月夢のほころび見えてくる

 初夢もあるが、年初に当たって何らかの一年の計を立てるものである。小正月は本来は旧暦の正月15日のことだが、現在では新暦の1月15日の意にも使われている。色々と欲張った計画を立ててはみたが、はや15日で目算が狂い始める。夢は本来楽観的なものであり、何か一つ手順が狂うと、雪だるま式に狂う怖れが頭をかすめる。まだ具体的にマイナス要因が出てきた訳ではないが、何かその予兆みたいなものが出てくる。毎年のことなので特に悲観的にはなっていないが。

   
小走りのビニール袋葱の首

 年末の情景。人物を出さないで人の動きを出そうとしてみた。年末には人の動きも慌しくなる、というのはかなり常套的な発想。「小走り」でそれを表わしている。正月の準備なんてそんな大きな買い物がある訳ではないことを「葱」が表現している。ただ何やかやとやることが多いのだ。「ビニール袋」はスーパーの象徴。年末は非日常の生活なので、つい買い忘れが生じ、また同じスーパーに走る羽目になる。それでも何となく新しい年を迎えるという華やぎめいたものはある。「葱の首」ってどっち?ということが話題になってしまった程度の、小市民の生活の一こまである。

   
春炬燵賞味期限の切れた菓子

 もう炬燵としての役割はあまり必要でない季節になっている。時々冷える日があるので、片付けるのを遅らせているだけである。むしろ今までの延長で、こまごましたものを乗せておくのに重宝している。食べ残した菓子もその一つ。もうあまり人が寄り付かなくなっているので、いつの間にか賞味期限を過ぎている。でも誰も処分しようともしない。春らしく人の心ものんびりしてしまうのである。本当は菓子は炬燵の上ではなくても、どこにあってもいい。ただ季語は「春炬燵」でないと以下が生きてこない。

   
寒き夜信号すぐに赤になる

 句会で聞かれた。これは歩いていた時の句ですか?それとも車に乗っての句ですか?と。実際にはタクシーで走っているときに、やたらと赤信号に引っかかるので出来た句である。でも「寒き夜」とあるからには、歩いている方が実感がある。大抵何らかの理由で急いでいるときに、赤信号に邪魔されることが多い。と言っても心理的にそう感じるだけだろうが、寒い夜には、早く暖かい家に帰りつきたいと思う焦りはある。それが共有されるから一応皆「解る、解る」と首を縦に振ってくれたものである。

   
老いるには一夜で足りる公孫樹かな

 昨日までまだ黄色い葉を多く残していた公孫樹が、夜に吹いた強風のためか、今見ると全く葉を落としてしまっている。一夜にして老木の趣を持ってしまった。人の寿命も伸びたとはいえ、急激に老いていった人を周りに何人か見ている。そういう環境に置かれれば、人も簡単に老いる。老いることは仕方が無いが、少しでも遅らせたいし、また老いても元気ではいたい。ちょっとした風には負けない、しなやかな老人になりたいものである(もうなってる?)。少年老い易く成長は遅いものである。

   
静謐を浪費する贅枇杷の花

 静かな時間を何もしないで過ごす。都会の人間にとっては大いなる贅沢の一つであろう。たった一瞬だがそんな時間を持ち、その贅沢さを味わった。いつもこうだと有難味はないだろうが、少年時代を静かさに包まれた田舎で育った私には、久し振りに味わうものだった。そこで「静かさを浪費する贅」というフレーズはすぐ出てきた。座五に何を持ってくるか、この時は季寄せのお世話になった。多くの初冬の季語がある中で、「枇杷の花」しかこれに合うものがない。そんな風にかなり人為的に組み合わせられた句である。「静かさ」を「静謐」に変えて頂いたのは先生である。「静謐」という言葉を知ってはいても、こんな時にこんなぴったりの言葉が頭に浮かばない。これも語彙の貧弱さの一種だろう。この時点で「静謐」は私にとって非常に重要な言葉になった。だが俳句ではもう簡単には使えない。

   
椅子の背にセーター投げて軽き酔い

 私は自分では殆んど酔った姿は家族には見せていないと思っていた。でも家族はお見通しで、やはり少し饒舌になるらしい。でもそれ程迷惑を掛けている訳ではない。自分でも気分は良い。家に着いてセーターを脱ぐにも、そっと置くような雰囲気ではなく、椅子の背に投げかけるような気分である。勿論、投げると言っても「投げつける」とは全く違う。酔いと同じで「軽い」投げである。「椅子の背」は私の場合にはこれでなくてはならない。部屋に入ると一番置き易いところに、私の椅子の背があるからだ。

 今回は偶然ながら、殆んどが冬の句になった。前回が秋とまだ寒い春だったことを思うと、どうも夏の句が最近苦手なのかも知れない。今からが私の季節である(なんて楽観的になる悪癖がある)。