句あれば楽あり ?

自分の俳句から 三

至遊(しゆう)


 合同句集「葦」第3集は平成11年11月の発行である。第2集から2年の間隔である。この間に「ゆっくり生きて」いた筈の父を失った。どうしてもその影が大きく出てしまっている。ただ個人的には大きな事件でも、他人から見れば人の世の定めの具現にほかならない。自分のセンチメンタリズムに酔うのは止めたいが、一方で2年おきに発行するこの句集は、自分の日記代わりの書き置きでもある。従って選句に際して、必ず父を詠んだ句をいくつか入れようと、むしろ積極的に選んだ憶えがある。

   錆つきし鉄路の果ての大枯野

 年末に名古屋から鳥羽へ向うときに詠んだ句である。四日市付近だったろうか。工場群に向っているとばかり思っていた引込み線が途中で途切れて、車輌止めの砂利が積んである。だから何も通らない線路は錆び付いている。途切れた線路の先は、遠くに臨海工業地帯を望む以外は、すべて枯野だ。「錆ついた線路」もその先にある「臨海工業地帯」も、過去の栄光を表わす記念碑に過ぎなくなってきた。その淋しさの中に「大枯野」を持って来たのだから付き過ぎかも知れない。しかし実景である。

   柚子の香や昨夜とずれし皿の位置

 「だから何なの?」と言われそうな、私の句としては異色である、と自分では思っている。寝る前に、柚子が食卓の上に置いてあったのは確認しておいた。翌朝起きてみると、昨夜の柚子の位置と周りの皿の位置が、微妙に変わっているような気がした。妻はもう起きて台所仕事をしている。だからその辺に触っても何らおかしくはない。でもまだ食卓に触らなければならないほど、準備は進んではいない。妻がうっかり触ったのか、私の勘違いなのか、それとも夜中に怪しいものが・・・?大雑把な人間なのでこんな微妙な差を気にすることは先ずない。柚子の香は昨夜と同じに漂っている。

   道元の怒り静かに初氷

 これは仲々理解して貰えない句である。しかも実景ではなく、司馬遼太郎の「街道をゆく」シリーズの中で、道元に触れた部分に触発されて詠んだ句である。道元の思想は難解で弟子の中でも、中国の僧である寂円が辛うじて近い風骨を持っていたと言われる。孤高の思想家と言える。従ってその後の曹洞宗(という名前さえも道元は嫌っていた)は紆余曲折を経ることになる。「正法眼蔵」の激しさだけでは今の永平寺の繁栄は無かったことは確かであろう。それでも途中で寂円系の人が永平寺を継ぎ、戦後の一時期までは修行の場としてのたたずまいも見せていたらしい。その後大衆化の波に乗って、全く違った方向に行った弟子たちに、道元は怒っているだろう。ただしあの世からでは静かに怒るしかないが。

   還暦の年明け定期券切れる

 還暦の意識は昔と今では全く違ってきている。今では還暦は体力的には立派な現役だからである。だが制度的には必ずしもそうではない。サラリーマンにとっては定年を迎え、厚生年金の給付を受け始める人生の転機でもある。現役の時には当然通勤定期で会社に通う。還暦の年に入ってからその定期が切れたのである。勿論、まだ満60歳にはなっていないので、もう1回は買い直すことになる。それでも最後かと思うと、そこに感慨と寂しさが混じり合った心境になる。実際には私の場合は62歳まで勤めたが、それでも意識の底に普段の年とは違うものがある。

   舌先に切手の糊や夏に入る

 1枚や2枚の切手を貼るには舌先で舐めるのが一番早い。ただその感覚は乾いた冬と湿った夏では違う。夏の糊は何となく舌先にいつまでも残っている気がする。句としては「夏に入る」の前で切れているので、それほど関連させて考えない方が広がりが出るが、自分としてはその感覚が発見だったのだ。

   黍飯の美味し戦中過去になる

 「葦の会」の吟行句会で吾妻渓谷の「むささびの宿」と言われるところに一泊したことがある。そこで黍飯が出た。意外に美味い。戦中・戦後の食糧難の時代には、真白いご飯を食べられることが夢であった。実際には芋、麦などが半分以上を占めていた。黍は当時それ程口にした記憶はないが、昔から貧しい地域ではこれらのものを混ぜないと1年が過ごせなかった。この贅沢な時代になってサツマイモがスイートポテトなどと名前を変えて高級品の如く売られている。同じようにこの黍飯を食べて美味いと思った瞬間、あの時代を「過去」の出来事として捉えてしまった。今はこれが宿で供される贅沢品なのである。

   朝顔の蔓宙に舞う小間物屋

 朝顔の蔓の伸びは早い。何か巻きつくものを添えてやっても、翌朝にはもうその上に蔓が出ている。捕まるもののない蔓は風に揺れながら捕まるものを探して宙を彷徨っている。たまたま商店街でこのような朝顔を見た。そこが小間物屋だったかどうかはよく覚えていない。しかしこの情景には小間物屋が一番似合うと思って小間物屋を持って来た。近くに小間物屋があったことは確かなので、ここまで白状する必要はないかも知れないが、「虚」の類に入るだろう。

   改札を出てハンカチの疲れかな

 夏、満員電車に揺られて帰ってくるころには、身体も衣類も汗にまみれ、また疲れも溜まって来ている。当時私としては珍しく営業廻りをすることが多かった。特にコンクリートの上は、覚悟を決めて踏み出さないと気力が萎えてしまいそうな暑さである。流れ出る汗を一日拭いてくれていたハンカチも、帰途の改札を出るころには、よれよれになっている。原句は「ハンカチの知る疲れ」だったが、先生のアドバイスでハンカチそのものが疲れているように擬人化した。暑さが十分に伝わるかどうかは疑問だが、一日の疲れは見えると思う。季語はハンカチで夏。

   梅香る会葬の列みな老いし

 父の葬儀で久し振りに田舎の近所の人にも会った。親類を除けば、これが誰々と紹介されないと思い出せない人ばかりだ。家を出てから40年以上を経過しているので当然だが、葬列には父と同世代の者が多い。だから皆老人である。お世話になった人も、よく喧嘩をした人も、横柄極まりなかった人も皆老いた。それだけ父も長生きしたということだ。ちなみにその前年に少し早めの米寿の祝いを兄弟の主催でしてあげた。そして満年齢で言えばその米寿を目前にして亡くなった。良かったと思っている。

   寒菊も入れつくしなお父軽し

 漱石の「ある程の菊抛げ入れよ棺の中」の類想と言われても仕方が無い。父の死は3月の始め、葬儀の当日は雪が舞った。父が小さくなっていることは、生前見舞いに来ていたときに分かってはいたが、菊だけではなく全ての花を入れて、兄弟で棺を担ぎ上げたときの実感である。特に経済力があった訳ではなく、だから何かをして貰ったという記憶も殆んどない。しかし居るだけで精神的な支柱になっていた。その父が軽いというのはやはり悲しいものである。

 前回同様、真樹先生の同じ第3集の句を数句。今回は季にはこだわらない。

   
鶴帰る母系家族の予定表

   いろいろな事情があって蕗伽羅煮

   濁世見て見ぬふりをする瑠璃蜥蜴

   白鳥に逢う日大地も空も澄み