句あれば楽あり ?

石田波郷の俳句 三

至遊(しゆう)


 いよいよ波郷の最終回である。ここでは「春嵐」以降、すなわち37歳以降の句を取り上げる。
波郷は昭和33年、45歳のとき練馬区谷原に新居を持ち、翌年から朝日新聞の俳句欄の選者となったが、昭和38年に病再発、以後清瀬の療養所の入退院を繰り返すことになる。

 昭和44年、「酒中花」によって芸術選奨文部大臣賞を受賞するが、一方あき子夫人の「見舞籠」という句集の校了まで済ませる優しさ(感謝もあったであろう)を見せたが、その刊行を見ないうちに、その年の11月21日、56歳で急逝してしまう。何より、あき子夫人の方に心残りがあっただろう。「酒中花以後」という句集はそのあき子夫人によって編まれたものである。そこまでを今回の範囲とする。

   あかあかと雛栄ゆれども咳地獄

 ぼんぼりの光に、雛人形の衣装が赤々と映えているのであろう。この赤は前回紹介した「鶏頭」にも通じているし、「雛」は「夜半の雛」に通じているのかも知れない。いずれにしても波郷にとって、赤も雛も天敵だったのかも知れない。

   手花火を命継ぐ如燃やすなり

 線香花火は余りにもはかなくて、次々に燃やしていかないと却って寂しさや暗さを呼ぶ。第一、その都度マッチを擦っていたら手間がかかるから、前の花火の火を次の花火に移す。それが波郷の目には、命をつないでいると映ったのである。こんな発想になるのも、自分の命に不安を抱えているからこそであろう。

   喪の妻に螢籠はやかすかなり

 誰の喪かは記していない。ただ命が一つ消えたことは確かだろう。そして螢籠の中の螢の光ももう「かすか」になっている。まるで間もなく妻が自分の喪に服すような、心細さを感じさせる。

   胸許に鶏頭の紅わかわかし

 また鶏頭と紅である。ただ今回は前書きによりX線写真を撮って異常がなかったときの句である。だから「わかわかし」という希望に繋がる言葉との取り合わせになったのだろう。でもこれだけの長い闘病生活をしていて、異常なしという方が変である。せいぜい進んでいないという程度だったのかも知れない。

   妻病めり傾き減りし炭俵

 自分を看病し続けていてくれた妻が、看病疲れからだろうか、とうとう病に臥してしまった。頼れるものが無くなったような心細さを感じたはずである。それを頼りない、もう傾いている炭俵で表現しようとした。谷野予志という人の句に「粉ばかりになりてなほ立つ炭俵」という句がある。こちらは倒れていいところなのに頑張って立っている炭俵である。そこまで頑張らなくてもいいよ、とつい声を掛けたくなる。どうしても比較してしまう炭俵2態である。

   風花やをどりて鳴れる四つの鐘

 「ニコライ堂」という前書きがある。四つの鐘だから教会であることは判る。風花の舞う寒い日に、わざわざ行ったのであろうか。前後の句を見ていると風景描写が多い。多分この頃少し快方に向っていて、色々と出歩いたのかも知れない。「をどりて鳴れる」等という表現は、やはり頭の中でではなく、実際に見て詠んだと考えたい。それだけの躍動感がある。

   楪(ゆずりは)や厭うべきものはひた厭へ

 ここからは自分で編んだ最後の句集となった「酒中花」である。最初の方は西銀座卯浪(鈴木真砂女氏の店が当時は西銀座にあったのか)に行ったり、葉山を訪ねたりしている。しかしこの句のあたりからは、また心象俳句が増えてくる。ゆずりははご存知のように、新しい葉が出てくる一方で古い葉を落す。この句は何となく、譲るのが嫌なら譲らなくて頑張っていいんだよ、と聞こえる。でも多分言いたいことは逆で、波郷の潔癖さから考えると「汚いことはするんじゃないよ」と先輩が後輩に言い聞かせている雰囲気もある。

   母亡くて寧き心や霜のこゑ

 十一月だから冬に入って、波郷は母を亡くす。自分より先に行ってくれたという安堵感めいたものが、どこかにあっただろう。儒教でも親より先に死ぬことは最大の親不孝とされる。だから心安らかになれたし、「霜のこゑ」まで聞こえてくる。「霜のこゑ」とは「霜の降りた時のしんしんとした感じ(広辞苑)」であり、その意味では殆んど音らしいものもないはずである。

   春雪三日祭の如く過ぎにけり

 思いがけないプレゼントの春雪である。前回にも述べたように、波郷は雪が好きである。まして春雪は積もりはしないが、牡丹雪として大きな花びらのようなものが賑やかに降る。波郷にとっては本当に慰められ、また少年の日の祭を思い起こさせるほど、華やいだ3日だったに違いない。読者としてもほっとする一瞬である。
 なお「祭」は夏の季語である。ただこの場合は「祭の如く」であり、決して強くはない。それに対して「春雪」はそのものずばりの強い季語性を持っている。従って「季ずれ」等のそしりを受けることは先ず無い。

   朴の花今年見ざりし命かな

 朴の花は見事な白い花である。朴の花は散らないでしぼんで行くという話を読んだことがある。だから見落とし易いかも知れない。多分「朴散華即ちしれぬ行方かな(川端茅舎)」は頭の中にあったはずである。今年見ることが出来なかったということで、「命かな」と自分の運命を予感していたような句である。

   息吐けと立春の咽喉(のど)切られけり

 ここからは「酒中花」にも収録されなかった、奥さんの手になる「酒中花以後」である。これはまた壮絶な句である。「酒中花」の中でも呼吸をする力に衰えが出ていることは述べている。それがいよいよ何らかのトラブルで喉も切る破目になってしまった。そんな時こんな句を詠めるほど頭がはっきりしていると、却って辛いかも知れない。しかしまだ立春である。亡くなった年の作かどうかは定かでないが、それにしても亡くなったのは11月であるから、まだまだ生かされるのである。

   遺書未だ寸伸ばしきて花八つ手

 遺書と言っても、いわゆる資産の配分だけとは限らない。波郷の場合は「鶴」という俳誌およびその同人をどうするかも、言い遺しおくべき気がかりなことだったに違いない。今は「鶴」は星野麥丘人という人に受け継がれているようだが、どんないきさつだったかは知らない。遺書は確かについ寸伸ばしにしがちである。しっかりしている時にはまだ大丈夫だと思うからである。喩え傍目にはしっかりしていなくても、自分ではしっかりしていると思い込みたいものである。
 もう花八手だから冬である。急逝したと書いてあるから、この句はもしかすると亡くなる直前かもしれない。奥さんのあき子さんが編んだ句集から、石田勝彦氏が選んだ中では、最後の句になっている。

 前にも書いたが、亀戸で
藤の会 という句会を開いている。当然江東区の方も混じる。彼等には、石田波郷が住んでいたというだけで誇りに近いものを感じさせる人である。その意味では未だに影響を与え続けている俳人の1人であろう。