句あれば楽あり ?

石田波郷の俳句 二

至遊(しゆう)



 最初に、前回の稿の最後に書いたニコライ堂の鐘の件で、17.comというHomepageの中の掲示板で質問を出していたら、三宅さんという方から情報を頂いた。あの鐘は供出は免れたらしい。ただ戦時中は鳴らしてはいなかったそうだ。ここからは私の推定だが、鐘があり、しかも自由を謳歌できる時代に入ったのだから、戦後は早めに鐘を鳴らし始めたのではないかと思う。ただ別の先輩に聞くと、あの鐘はそれ程遠くまで聞こえるものではないとのこと。当時波郷がどこに住んでいたかは寡聞にして知らない(昭和21年に砂町に越している)が、久し振りにあの鐘を聞いて、戦の終ったことを実感したのであろう。

 時代は戦後に入ってくる。波郷32歳から37歳までの「雨覆」「惜命」時代を今回は記す。本来なら壮年期の句である。しかし結核に冒されて何度も入院・手術を繰り返す日々だった。残念だったかも知れないが、受けいれざるを得ない運命だった。56歳で他界するまで、常に不安に付き纏われた生涯だだったであろう。俳句としては当然病気や、せいぜい病室から眺められる範囲の句材が多くなる。

 戦後は江東区砂町に住んでいた。とは言え清瀬の東京療養所で三回に亘る手術を受け、ようやく退所できたのが37歳のときである。従ってこの間が一番病と闘った時期である。そのことを承知で読まないと、暗さばかりが目に付くかも知れない。

   牡丹雪その夜の妻のにほふかな

 冬である。だから何か劇的なことがあった訳でもなさそうである。でも波郷は雪が好きだったとみえる。後にも雪の句がいくつか出てくる。松山の出身だから、雪が懐かしいのではなく、むしろ珍しいのであろう。多分その牡丹雪が波郷にとっては特別のことだったのだろう。「妻が匂う」という言葉で、見事に「その夜」を表現した。波郷にしては珍しく「艶」な句である。

   細雪妻に言葉を待たれおり

 また雪である。ただし今度は必ずしも楽しんでいる雪ではない。じっくりと考えて答えなければと思うことは度々ある。それが外目には優柔不断に見えてしまうこともあるかも知れない。しかしここは決断とは無縁のような気がする。多分奥さんが言葉を掛けて、それにしばらく反応できなかったとか。多分病身であり、かつまだ戦後の混乱期であることも影響していると思う。例えば「子供が出来たの」と言われて、喜びと心配が交差している状態かも知れない。

   三月の産屋障子を継貼りす

 「長女温子出生」という前書きがある。三月と言っても始めらしい。「春の夜の子を踏むまじく疲れけり」という句もある。まだ寒い時期に妻と子を思って、できる限りのことをしたのであろう。何しろ母親の大変さに較べれば、父親は無力である。

   はこべらや焦土の色の雀ども

 はこべらと言えば春の七種の一つであるが、どこにでもある雑草である。その雑草は焦土の中でも、力強く育ったのであろう。そして雀も。確かに雀の色は焦土の色に似ている。その中で元気に動き回る雀が、波郷には非常な生命力をもったものとして映ったのであろう。なおはこべらは鳥の餌にもする。

   六月の女すわれる荒筵

 戦後の混乱期は続いている。「焼け跡情景。一戸を構えた人の屋内である。壁も天井もない。片隅に、空き缶に活けた沢瀉(おもだか)がわずかに女を飾っていた(波郷百句)」とある。ここに書いてあるようなことは、句には何一つでて来ない。壁も天井もなくて一戸とか屋内とか言えるか?と、今の我々なら思ってしまう。わずかな潤いだった沢瀉さえも捨て、貧困の凄まじさを出そうとしている。「女」だから成功しているのだと思う。

   勿忘草わかものの墓標ばかりなり

 多くの若者が戦争で死んで行った。それらの若者に対する鎮魂歌であると同時に、生きて帰った自分の義務の再確認ではないか。勿忘草を持ってくることにより、これらのことは忘れてはならないことと、自戒の念を込めて詠んでいる。

   雁の束の間に蕎麦刈られけり

 「束の間に」が「雁」についているのか、「蕎麦刈られけり」についているのか、ちょっと迷う句だ。
鷹羽狩行氏は「雁の」で段落があるとされる。「雁が鳴きながら渡っているほんの少しの間に」という意味ではあるが、「手早く蕎麦は刈られてしまった」とすると、狩行氏の言われるように「雁の」で一呼吸置いた方が正解だろう。ちょっと戦後風景とも病とも関係ないほっとする句である。

   鶏頭よ子よわれ咳をとゞめ得ず

 いよいよ病との戦いが本番になってくる。波郷に師事された石田勝彦氏は、この時期の句集を、波郷の生涯の中で最も重きをなすものと位置付けられている。一方、小西甚一氏の「俳句の世界」では「凄まじい迫力に充ちた句集である」とは言いながら句としては、一部しか紹介されていない。
ともあれ「鶏頭」はここでは何故引き合いに出されたのであろうか。先ず秋の句であり、徐々に冷え込んで行く時期の咳である。また鶏頭の赤さから喀血までも思い起こさせる。やはり鶏頭が必要なのであろう。

   霜の墓抱き起されしとき見たり

 よく問題にされる句である。「抱き起され」たのは「墓」か、それを「見た」自分かという問いである。文章構成からみると、確かに「墓」とも取れる。しかし墓を抱き起こすという行為は先ず無いだろう。また波郷は抱き起こされないと起き上がれない病状だったのである。それを知らずとも、意味の上から「自分が」抱き起こされたのでないと、自分の行為は「見たり」だけになってしまい、何とも感動薄い句になってしまう。「抱き起され」てやっと動ける自分の先に「霜の墓」を見たのである。間もなくかも知れない自分の行く先を見つけたように。

   夜半の雛肋剖きても吾死なじ

 肺結核の手術なので肋骨を裂く。勿論、客観的には、いくら戦後すぐのこととはいえ、それだけで死ぬものではない。しかし自分としてはこの大手術でも生きているのが不思議なほどなのであろう。雛は可愛いものだが、「夜半の雛」となると恐ろしさがある。

   桔梗や男も汚れてはならず

 これも自戒を込めた句と言える。何があったかは知らないが、汚いことをして信用を落とした男の例が身近にあったのであろう。喩え病床にあっても誠心誠意、自分の主宰する俳誌とそれに拠る同人のため、また俳句界全体のため決して手を抜いてはいない。自己の主張も精力的に発表している。

   麻薬うてば十三夜月遁走す

 麻薬を打ったことは、歯医者での部分麻酔程度しかないので、体感することはできないが、何となくわかる。待ち望んでいた十三夜ではあるが、麻酔を打った後はそれを見続けるような集中力は無かったのであろう。何時の間にか十三夜は視界の外に消えていたのである。

   冬暁のわが細声の妻起せず

 今、頼りになるのは安嬉子(あきこ)夫人一人である。その人に助けを求めようとしたが、何しろ肺の手術を繰り返していて、大声の出せる体ではない。それに一晩の看病に疲れて夫人も明け方になってまどろんでいる。とうとう起こせなかった。そのことを悔んでいるのではなく、自分の力の衰えを記録しておきたかったのではないか。日記の替りのようでもある。

   煤掃のすめば寂しきやまひかな

 うっかり病院の煤掃きの情景かと思って、ここに持ってきた。しかし小西氏によれば軍の病院で年を越す日の作とある。どちらにしても、煤掃きの間はうるさいと思っても、それが済んで静かになった時には、森閑とした寂しさが襲ってくる。人の気配が懐かしい。戦地での作と判れば、さらに日本が恋しくなるということにも敷衍できる。

   離れて遠き吾子の形に毛糸編む

 毛糸を編んでいるのは奥さん。奥さんも子供と離れて暮らさざるを得ない。当時の肺結核は死の病だったし、体力のない者にはすぐ感染したからである。それでも子供のことは片時も忘れられない。離れているからこそ、会いたい気持や、何かしてあげたい気持は強くなることは容易に推察できる。

   雪はしづかにゆたかにはやし屍室

 この句は小西氏が「凄まじい迫力に充ちた句集である」と言う中で、絶賛している句である。最初は「はやし」ではなく「はげし」だったらしい。「しづかにゆたかに」との調和を考えると「はやし」でなければならない。自解で波郷は「屍室」が本当にこれでいいだろうか、と自分の作に疑問を投げている。嫌味になりはしないか。他の炊事小屋でも車庫でもいいのではないか、等々。しかし、山本健吉氏は「屍室」にしたからこそ、自分のイメージを存分に広げた解釈をされている。また穿った見方をする人は、これは自分が「屍室」に居ることの想定だとまで言う。

   力なく降る雪なればなぐさまず

 またまた雪である。この句で波郷は雪が好きなんだという印象を確かなものにする。私も北九州出身なので、結構雪は降ったが、殆んど積らなかった。子供の頃にはいつも何か物足りなさを感じていたものだ。ただこれも病床からの句であることを理解する必要がある。子規に「いくたびも雪の深さをたずねけり」の句があるように、視界の中に動くものが捕らえられるのは嬉しいことなのである。ただこの日の雪は余りにも少量だたったのだろう。