句あれば楽あり ?

石田波郷の俳句 一

至遊(しゆう)



 石田波郷のファンが増えていると聞く。ただ彼の句には初期と晩年では大きな違いがある。どちらかというと初期の作品に人気が集まっているようである。波郷は水原秋櫻子に師事している。従って初期の俳句にはその影響がありありと見える。「馬酔木」の編集を加藤楸邨と一緒にやっていたというから、凄い顔合わせである。やがて昭和12年、わずか24歳で「鶴」を創刊し主宰となる。

   バスを待ち大路の春をうたがはず

 郷里の松山から東京へ出て来て、秋櫻子の指導を直接受けるようになると、その影響はもろに出る。小西甚一氏はこれは良い意味での影響を受けた句だという。都会を肯定した青年の感慨が素直に出ているという。「春をうたがはず」が良いので、これが「春となりにけり」だったら、ありきたりになってしまう。だから秋櫻子の影響があると言っても、句材の処理の上手さには天才的なものを感じる。18歳から26歳までの句を集めた「鶴の眼」収録。

   あえかなる薔薇撰りをれば春の雷

 秋櫻子の影響と言えば、この句の方が大きいと思う。耽美主義的な言葉と句材の選び方をしている。「あえか」は広辞苑によれば、か弱く、なよなよしたさま、とある。こんな源氏物語に顔を出す言葉を選んだのも、いやが上にも美しく詠みあげようとした意図が見える。だから「バスを待ち」の句は殆んどの人が波郷の代表句とするが、この句はそれ程の評価は受けていない。

   夜桜やうらわかき月本郷に

 昭和13年25歳の時の句。このセンスは秋櫻子にはないものである。「うらわかき月」がいい。では「うらわかき月」とはどんな月かと言われると幾つか考えられる。小西氏は新月から細い月になったばかり、生まれたばかりに見える月のことだと言われる。私の第一印象では、そんな細い月ではない。むしろ満月に近い。春霞の上に出てきた月が柔らかく、かつ若々しく見えたのだと思った。また「本郷」と付けたのがいい。本郷と言えば東大のある若い者の街である。普通固有名詞は使いにくいものである。この場合はそれで成功している。

   百日紅ごくごく水を呑むばかり

 これは少し傾向が違っている。楸邨の句と言っても誰も疑わないかも知れない。勿論、楸邨も秋櫻子の弟子であったから、最初はそんな傾向の句が多かった。楸邨はある時期にぱっと変身する。波郷は悩んだ時期が長かったのかも知れない。人間臭さが出ている句である。

   吹きおこる秋風鶴をあゆましむ

 「鶴」と言えば本来冬の季語である。秋に「鶴来る」で春に「鶴帰る」となる。これは秋風とあるから間違いなく秋の句である。何かの力に押されて一歩前へ出る。そんな自分を象徴しているのかも知れない。多分まだ悩みは完全には吹っ切れていない。でもこの飛来したばかりの若い(とはどこにも書いてないが)鶴は一歩を踏み出すのである。

   初蝶やわが三十の袖袂

 そしてこの決意にと至る、と思うのは考えすぎか?情景は単に自分の袖や袂に初蝶がまつわりついているだけのことだが、一般には「可憐」という言葉で評されたらしい。しかし三十が単なる可憐ではないことを示している。青年期から壮年期への境界線である。いわゆる「三十にして立つ」年なのである。ちなみにこの年に波郷は結婚している。俳句においても人生においても波郷は自立の覚悟を決めなければならなかった。山本健吉氏によると、この年に「馬酔木」を出て「鶴」に拠ったとある。先に述べた24歳で「鶴」創刊というのとどんな関係か分からないが、多分「鶴」を創刊してからも「馬酔木」にも籍を置いていたのだろう。そして「鶴」として一本立ちしたのがこの三十歳なのだろう。

   花ちるや瑞々しきは出羽の国

 蔵王の高湯に滞在しての帰京の途中で詠んだ句である。従って多少挨拶句としての要素を含んでいると考えた方がいい。芭蕉も「おくのほそ道」の中ではこのあたりの句を挨拶として沢山詠んでいる。ただ「瑞々しきは」が眼を引く。戦争が近づくにつれて俳句も潤いをなくして来ていたころ、波郷は「俳句は文学ではない」と言い切ったり、「ただ俳句には俳句の重量と匂いとを与えようと努める」と言う意味のことを書いている。その「重量と匂い」は明らかに当時は古典の方が勝っていた。俳句に「瑞々しさ」を求めたかったのかも知れない。

   女来と帯纏き出づる百日紅

 別の稿で紹介したことがある。俳味とは別のユーモアである。俳句に諧謔が必要なことは皆意識しているだろうが、実作の中ではその面白みが出せないことが多い。その点では成功した句であり、俳句の原点を示したとも言える。

   露草の露ひかりいづまことかな

 俳句として優れているとは思えない。特に「まことかな」では締まらない。ただこれは結婚した時の句である。「露」というと「露の命」のようにはかないものを想像する。ただ波郷は違ったらしい。妹の結婚に際しても「いのちなり露草の瑠璃蓼の紅」と詠んでいる。有り余る才能を持ちながら生涯病に苦しめられた運命を暗示するような気がしてならない。

   朝顔の紺のかなたの月日かな

 「朝顔」「紺」「かなた」「月日」と材料が多すぎるが、一方でこの抽象的な世界を美しく仕上げようとした意図は見える。またリズムがいい。「かなた」は過去なのか未来なのか、一般には過去だろう。朝顔は毎朝咲くが、自分の過去はいくら時間が経っても厳に存在する。記憶の中に、想い出の中に。

   葛咲くや嬬恋村の字いくつ

 昭和17年作。草津にいる義妹を迎えに行く途中で、軽井沢、鹿澤そして嬬恋村を通り抜けたという。随分遠回りしたものだが、お蔭でこの句が出来た。結婚間もないころなので嬬恋という名前にも引かれただろう。嬬恋村の大きさを聞き、その字々を通り抜けながら「字いくつ」となったが、何より「葛の花」との取り合わせがいい。ただし葛(くず)は本当はこの字でなない。葛飾も正しく書けなくなったと真樹先生(葛飾区在住)も嘆いておられる。

   霜柱俳句は切字響きけり

 「や・かな・けりを用いよ」と主張したころの句である。この稿でも「初蝶や」以降、「女来と」を除けば確かに「や」「かな」が目立つ。芭蕉の句はいいが蕪村以降、勿論この句を詠んだ頃も俳句が非常に長く感じられるというのが、その主張に至った原因のようである。自己主張を俳句にしただけなので、標語じみている。せめて「霜柱」に「響」かせたのが技巧か。

   雁やのこるものみな美しき

 名句と言える。戦争に出かけるときの句である。残るものには色々あったであろう。妻、俳句仲間、故国、自然。波郷自身が「何もかも急に美しく眺められた」というように、実際に雁と夕映えの美しさを見て感動している。そこに「惜しい!」という気が無かったと言えば嘘になるであろう。俳句も自分の唱える美の世界を実現しようと、脂の乗って来た頃だし、この世界を捨てて戦地に赴くのは後ろ髪を引かれる思いだったに違いない。

   蠅打って熱出す兵となりしはや

 波郷は伝書鳩を飼う役目だったという。兵隊としては下っ端だが、重労働ではなかったはずだ。それでもこの頃から病が顔を出す。この後一生病気と闘う破目になる。自嘲的な句だが自分に苛ついている様は見える。俳句としてより、波郷の暗転を見る句のような気がしてならない。

   ニコライの鐘の愉しき落葉かな

 「落葉」だから季節は違うが「戦終りければ」との前書きがある。病気のために早く帰ってきていた筈だが、終戦時に詠んだ句は私の持っている句の中には無い。むしろ時間を置いての句だから、前書とは似つかわしくない句に見える。前に紹介した久保田万太郎の「何もかもあっけらかんと西日中」には臨場感がある。戦時中は金属の供出とかあったが、記録によると今の鐘は昭和3年に函館から移されたものだというから、戦時中も無事だったと見える。ただ教会ということで色んな迫害はあった筈である。だからしばらく鐘が鳴らなかったのであろうか。そうとでも考えないと前書きの意味が見えて来ない。