句あれば楽あり ?

池田澄子論 (三)

至遊(しゆう)




 今回は第2句集「いつしか人に生まれて」以降である。(1)で書いた戦争忌避の句もその後と言えば後だが、それらは句集になっているかどうか、句集としては見ていない。少しずつではあるが、前回の意外な展開が影をひそめて、大人しくなってきたような気がする。ただその後が、(1)で挙げた句だから、変化し続けている人なのだろう。

   着ると暑く脱ぐと寒くてつくしんぼ

 土筆の出る頃の実感であろう。その意味で難しさは全く無い。強いて言えば、若い頃は、暑さにも寒さにも抵抗力があった。段々体が対応し切れなくなってきている(大体同年代だから分る)。その嘆きが底に隠れているとも思える。

   赤飯を炊くたび疲れやすくなる

 これも同じで、赤飯は誰のために炊いているのかは分らないが、例えば誰かの誕生日かも知れない。とすれば年1回だから、それだけ年を取っている。だから疲れやすくもなる。目出度いことと、老いとを同時に詠んだので、それだけ印象は強くなっている。

   死にたるは他家の人なる秋簾

 冷たく言い放っている。それだけコミュニティの横の繋がりは希薄になっている。多分顔は知っているが、名前は知らない。単に近所の人だったということになってしまうのだろう。田舎で父や母を送ってつくづく思ったが、近所の人のメンタリティが東京とは全然違う。この句が都会での感慨だろう。ちなみに池田は鎌倉生まれだが、父親の出征ですぐ新潟県村上市に引っ越し、その後も嫁ぐまでは新潟市に住んでいた。今は杉並区住まいである。だから田舎も都会も知っている。また都会の人間関係の変化も知っている。

   屠蘇散や夫は他人なので好き

 正月、多分夫婦で屠蘇を酌み交わしている。屠蘇散とは屠蘇延命散が正式の名称らしいが、これをお酒に漬け込んで、1年の健康を祈りながら屠蘇を祝ったものである。最近は殆ど売っていない。娘もあの味は嫌いだという。本来はトリカブトなども入っていたらしいが、最近ではそんな劇薬に近いものは入っていないらしい。ここで酔ったせいかどうか、ぬけぬけと夫を好きと言っている。好きなのは勿論構わないが、公表されると夫としても何となく恥ずかしいのではないか。勿論鷹女のように「燕来て夫の句下手知れわたる」とまで言うのに比べれば、嬉しさを含む恥ずかしさだが。そこに「他人だから」という理由がついている。確かに夫婦は元他人である。身内だったら同じ「好き」という言葉でも意味が違ってくる。他人だから好きなのは、本当に好きなのだろう。ちなみに句稿の校正等もよく手伝ってくれる夫だそうである。

   昨夜われら椿でありき落椿

 昨夜まではまだ椿であった。今は落椿である。椿が落椿に変わるのは一夜で十分である。でも「われら」はまさかそんなに短命ではない。人の生死を椿に置き換えて、諸行無常の感じと「光陰矢の如し」という感じを出したかったのだろう。ここでもつい鷹女の「老いながら椿となって踊りけり」を思い出してしまう。動と静の違いはあるが。

   いつとなく若くなくなり炎天下

 1句目、2句目と同じニュアンスである。ただこれは真夏である。真夏の暑さは確かに堪える。若者が生き生きと動き回っているのがつい羨ましくなる。自分にもあんな時代があったのだろうかと疑いたくなる。でもまだ老いたというより、若くなくなったという程度だから、まだまだと思っているだろう。しかも「いつとなく」という程度で、深刻な事態には至っていない。

   非常食賞味期間内夏の暮

 非常食に賞味期限があるのは、矛盾のような気がしてならない。折角しかるべきバッグか何かに詰めておいたにしても、全く安心できないからである。「賞味期限」は美味しく食べられる期限という説もあるが、辞典を引くと「飲食可能な期限をあらわしたもの」とある。とすれば必ず中味を取替えなければならない。いざという時のものを常にチェックしなければならないというのは、むしろ無理である。今までその「いざ」という場合に出くわしたことが無いのだから、どうしても油断する。インターネットで調べていたら、貴方の賞味期限というのもあった。人間退き際が大切だと書いてある。もう退いてはいる積りだが、すべてから100%退くのは淋しいし、その必要もないだろう。

   三十年前に青蚊帳畳み了えき

 確かに蚊帳は見なくなった。行くところに行けば、蚊は居る。人間の血を吸わなくても生きていけるものだけが残っているのかも知れないが、そんな藪に足を突っ込むと、ご馳走とばかりに、一斉に襲ってくる。ともかく普通の生活では蚊帳は要らなくなった。作者も畳み終えた後は開いていない訳である。日本から風物詩が1つ消え、雷避けが1つ消えたことになる。

   産声の途方に暮れていたるなり

 昔は男はお産の席には立ち会えなかった。病院の場合なら、ひたすら廊下で待つだけである。「おぎゃ〜」という声で、産まれたのを知る。その声は途方に暮れてはいなかった。最近は産まれるときから途方に暮れているのだろうか。勿論、これは親の見方でしかない。泣くのは呼吸をするために、すなわち生きるために泣くのだから、途方に暮れている暇はない。ただ最近の少子化は親に躊躇いがあるからであり、それが産声を「途方に暮れた」声にも聞こえさせる。そうさせたのは今の大人世代なのだが。

   いつしか人に生まれていたわ アナタも?

 さぁ困った。これが句集の題になった句だから、採り上げたが、じゃんけんで勝った話の続きではないと思う。確かにヒトは自分の意思で生まれてくる訳ではない。だから「いつしか人に生まれて」いた訳である。一拍スペースがあって、アナタも?と問いかけられる。このアナタがカタカナになっているので、ちょっと救われる。こんな時カタカナで呼ばれるのはご主人だろうと勝手に思うからである。だから私には答える義務はないと思っている。無季である。

   育たなくなれば大人ぞ春のくれ

 確かにあるところで身体の成長は止まる。そうなれば大人ぞ、と子供に言い聞かせている。最近の子供は育たなくなっても、しばらくは子供のままで居たいと思っている人が多い。しかも親もそれを容認している。時には歓迎している。親離れ、子離れが進まない故に多くの悲劇も起きている。こんな世相に対する警句だろう。

   腐みつつ桃のかたちをしていたり

 「腐(いた)みつつ」というのは、人が老いて行く様を連想させる。外見は余り変わらないのに、自分ではあちこちに老いの兆しを感じている。化粧や衣服で一生懸命それを隠そうとしている。そうすれば「桃のかたち」を何とか保てる。そうは言っても最近の老人は元気になった。元気に過ぎて、それこそ賞味期限を越えて頑張ってしまう人もいる。若作りをしていながら、電車に乗れば座席を探すという自己矛盾は捨てて、あるところに来たら、疲れた桃になりましょう。




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0500608