句あれば楽あり ?

池田澄子論 (二)

至遊(しゆう)




 今回は池田澄子の第1句集「空の庭」からである。どの俳人にも言えることだが、自分にとって食指の動く句と動かない句がある。最初に句集の中の取り上げたい句にPost-itで印をつける。その意味では、故桂信子ほどには選ばれる句の密度は濃くない。でも「あっ」と思った句に関しては、遥かに楽しい。

   元日の開くと灯る冷蔵庫

 元日、家族皆がのんびりしている。昔は急いで年始に来る人など居て、余りのんびりも出来なかったが、人間関係が希薄になって、その辺は気を遣わなくてよくなった。それでもお腹は空くから、そのためのおせち料理を食べる。それにも飽きると、何か他のものはないかと、冷蔵庫を開けてみる。冷蔵庫は365日、律儀に働いている。そして扉を開けると決まってライトが点いて、中味を照らしてくれる。ご苦労さん!

   じゃんけんで負けて蛍に生まれたの

 この句のことも「俳句の倫理」で取り上げた。俳句では一般に主語がないと、それは自分である。大体において日本語がそうである。でもまさか池田澄子は蛍ではない。ふらりふらりと短い命を燃やしている蛍になり替って詠んだ積りだろう。ではもしじゃんけんに勝っていたら?と想像すると、その方が自分かも知れない。こんな発想は私からは生まれて来ない。

   青い薔薇あげましょ絶望はご自由に

 多分この句が詠まれた頃には、まだ青い薔薇はなかった。私はある場所で見たが、青というより蒼白い色にピンクが混じっている?という感じだった。青い薔薇があるというので勇んで出かけたのに、確かに「絶望」とは言わないが「失望」だった。青い薔薇にはまだ花言葉もないようだ。今までは「ありえないもの、不可能なもの」の象徴だったし、英語では今もそのような意味は残っている。野島伸司の脚本(だと思うが)に「虚無感からの愛の否定」として現われるそうだ。絶望に繋がると言える。

   恋文の起承転転さくらんぼ

 最初、恋文は情熱をもって書き上げるもので、論文のように起承転結があっては迫力がないだろうなんて、この句を「起承転結」と早とちりしてしまって、ある方からご注意を受けた。本当は「結」がなく、「転」が続いている。だから纏まらないままに悩んでいるようでもあり、もうその恋自体が宙ぶらりんになって恋文も行き場をなくしたようでもある。耳で聞くと「点々」にも聞こえる。あとは内緒という風に。何故「さくらんぼ」かって?まだ恋文に悩む「黄色いさくらんぼ」かも知れません。

   潜る鳰浮く鳰数は合ってますか

 集団で生活している鳰(かいつぶり)を最近は目にしたことがない。1羽沈んで、目を水面に凝らしていると、とんでもない方にぷかりと浮かんでくる。確かに複数こんなことをしていると、今何羽水の中に潜っているのか、分らなくなってしまうだろう。別に飼っている訳ではないので、数が合わなくても一向に構いませんけど。

   湯ざましが出る元日の魔法瓶

 最初の冷蔵庫と違って、ここには電気というエネルギーが供給されていないので、朝入れて置いたお湯が、昼頃には湯冷ましになって出てくる。台所に立ってお湯を沸かし直すのも元日とあって億劫だから、そのまま湯冷ましで我慢してしまう(私ならそうする)。これ以上頑張れと言っても、魔法瓶に酷である。

   天高し歩くと道が伸びるなり

 秋とは言ってもまだ日差しは強い。夏ばてした後の体の回復も済んでいないのに、日差しの中の道を歩く破目になった。道は真っ直ぐ。その道はいくら歩いても、目的地に近付いているように思えない。作者は道が伸びていると信じきっている。というのは嘘だが、俳句ではあり得ないことでも、言い切ることによって、意外な効果を出すことがある。誰も信じないから詐欺にはならない。自由に表現してみて下さい。
   
大白鳥白が好きとは限らない

 大白鳥は勿論白い。子供の時、すなわち「みにくいあひるの子」状態のとき以外は一生白で通す。その白を我々は美しいと言って眺めに行く。その白鳥は本当に白が好きなんだろうか、とどうでもいい疑問を投げかけている。翻って考えると、人間も自分は大切だが、好きとは限らない。顔もおしゃれのセンスも、ましてや偏差値とかいうものでランク付けされる頭の程度についてもである。

   ピーマン切って中を明るくしてあげた

 恩着せがましい言い方だが、ピーマンは明るくしてくれなんて一言も言っていない。自分のやることに対して、人は何とでも言い訳を考えられる。でもピーマンの中が暗いだろうなどとは、一度も考えたことがない。その辺が凡人ではない。さて明るくした後はどうするんですか?

   私より彼女が綺麗糸みみず

 私は池田澄子さん(ここだけ「さん」を付けた)に会ったことはない。ただ写真で見る限りでは、知的な美人である。直接会ったという人からは、綺麗なだけではなく、話してみると面白いという証言もあった。素敵な人らしい。その人がこんなに言う「彼女」とは誰だろう。もともと外見の美醜には好き嫌いも伴うから、絶対的な基準はない。でも「彼女が綺麗」と言い切った。気になるのはその後の「糸みみず」である。何故糸みみずという季語を持ってきたのか未だに分らない。

   無花果や神も仏も見たことなし

 無花果からは「エデンの園」が思い出される。アダムとイブは神が創ったということになっているが、当時はいざ知らず、今では神も仏も偶像という形でしか我々は見ることができない。偶像はあくまでも偶像で、人間の作品である。特に仏像などは、最近は崇拝の対象ではなく美的鑑賞の対象になり下がって(?)いる。今どき、宗教がらみの戦争や内紛が多発している世の中では、とても神仏とて顔を出せないだろう。

   考妣に考妣在しお盆の落し蓋

 考(こう)とは亡くなった父親、妣(ひ)とは亡くなった母親である。亡くなった両親にもまた、亡くなった両親が居たというのは当たり前で、人類誰でも、逆に辿れば万世一系である。その考妣の集団がお盆に戻ってくる。祖父、祖母までは馴染みがあっても、それより先祖となると、もう会っても何の感慨もないだろう。それでも生きている人たち、お盆で実家に戻ってきた人たちのために、何かの煮物を作っている。やはり生きている人との連携が第一である。




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0500522