句あれば楽あり ?

飯島晴子の世界

至遊(しゆう)



 飯島晴子は一般にはそれほど有名とは言えない。私は彼女が八十歳にして自分で死を選んだという異常さから興味を持ち始めたようなもので、なんともミーハー的な関心からだった。しかも未だに彼女の句集一つも持っている訳ではない。何時の間にか入って来る情報から、徐々にその知識が増えて来たに過ぎない。

 一般に俳人の高齢での自殺はあまり聞いたことがない。長生きした人は自分なりの世界を確立し(ていると思う)、最期に近い頃には、悩みよりも後輩の指導や自己の世界でのより高い完成度を目指して、むしろ脂の乗った仕事ぶりを見せているケースを多く聞いている。

 以下は色々な雑誌からの知識が主だが、殊に依光陽子さんが「現代俳句の世界」の中に「六月六日に雨ざあざあ・・・」と題して書かれた小論を一番の参考にしている。

 飯島晴子は頭のいい人だったようだ。ただ彼女が俳句を選んだのではなく、俳句が彼女を選んだと言われる。その理由は俳句との出会いにある。ある日彼女はご主人の代理で句会に出席し、そこで能村登四郎に勧められて作句したのがきっかけだからである。その時三十八歳だったというから、必ずしも早い取り組みでもない。「馬酔木」系の句会だったので、「馬酔木」に投句するようになり、最初の入選句が

   一日の外套の重み妻に渡す    飯島晴子

だったという。ただこの句を評価する声は余り聞かない。

 その後藤田湘子の「鷹」創刊に参加することになるが、それが昭和三十九年、上の句の入選からわずかに四年後である。その間に詠まれた句の中に

   人間の善意ぎっしり布団干す   飯島晴子

   麦踏のいつか己れに囚はれて

   ひとの死へ磨く黒靴朧の夜

   尊大に遠くをゆけり羽抜鶏

のように、勿論「ホトトギス」的ではないが、「馬酔木」の世界からもすでに飛び立っている姿が見える。自分なりの俳句哲学を確立し始めており、喩えフィクションだとしても我々を納得させる自己主張を持っている。

 それまでアンチ虚子だった晴子が、青畝や素十らの四S研究の座談会の記事が「鷹」に掲載されて驚いたという。素十の句などが非常に新鮮に映ったらしい。要するに古くない。それは言葉の問題であり「ホトトギス」か「人間探求派」かなんてことを超えていたらしい。言葉を今までは伝達の手段として使ってきたが、言葉の物体化、すなわち言葉の向うに見えるもう一つの時空に気づいたと言われる。似たような話を金子兜太氏の本でも読んだことがある。

 言葉に対する認識が変わってしまった今は、「馬酔木」とは訣別せざるをえない。そしてこの頃から私なんかにとっては難解な句が並び始める。

   冬の山疊を踏んで箪笥鳴る     飯島晴子

   別の死が夏大根のうち通る

   泉辺の家消えさうな子を産んで

   さまざまの谷の蝶くる顔の肉

 これらの句の先に何が見えていたのだろう。「冬の山」だけは景が分かるが、それは決して言葉の先に、言葉とは別に存在しているものではない。晴子が見ていたものは私とは違うだろう。でもバラバラの言葉があるだけで、その繋ぎ合わせ方が判らない身には、不気味でさえある。晴子はこの時期の句を言葉遊びのゲームとして楽しんでいたようである。

   はるばると蓬のさがる故人の手   飯島晴子

   蓮根や泪を横にこぼしあひ

   襖しめて空蝉を吹きくらすかな

 このあたりの表現には阿部完市の影響があると言われる。ただ完市がリズムも崩しているケースが多いのに較べれば、晴子は定型には拘っていたのかも知れない。このあと、また少しずつ俳句が解り易くなってくる。

   すこしづつはなれて眠る花すすき  飯島晴子

   しくしくと虫載せてゐる鬼薊

   白髪を霧にあらひて先に待つ

   恋ともちがふ紅葉の岸をともにして

   長老のごとくに春の瀧を去る

 晴子は徹底した吟行派だったという。句材は自分の足で探し歩いたらしい。

   さしあたり坐ってゐるか衛見て   飯島晴子

   青芭蕉さっそく裂けてゐたりけり

   牡丹守颯と牡丹を剪り去りぬ

などは吟行派の面目躍如というところかも知れない。最初の頃のきりきりと引き締まった、妥協を許さない言葉選びが、年を経るにつけて「遊び」を帯びてくる。前のゲームの頃はある意味で言葉との真剣勝負だった。晩年の晴子は言葉との格闘ではなく、言葉を信じていたと言われる。そこに俳句を詠む「癒し」を見出していた。

   てんと虫だましほど星負へるかや  飯島晴子

   葛の花来るなと言ったではないか

   河骨の最後の花に間にあひし

 そんな俳句を楽しむ境地になっていた晴子を、白内障が襲った。見えないことは吟行派にとっては致命的である。もう「俳人」になりきっていた晴子には、そんな姿で生きていることの方が過酷であり、自分を許せなかったに違いない。そして依光さんの題にあるように、平成十二年六月六日に逝った。

 今までに意識して取り上げなかった句が三つある。

   泉の底に一本の匙夏了る      飯島晴子

 この句は、「馬酔木」時代に詠んだ句を全部捨て去って、第一句集「蕨手」を出した時、その冒頭に持って来た句だという。何となく

   夏の河赤き鉄鎖のはし浸る     山口誓子

を思わせる面がある。誓子も「馬酔木」を去っていわゆる新興俳句と呼ばれた新しい俳句の世界を開いた人だから、共通するものもあったのだろう。ただここで匙を金や銀の匙と思ってはならない。依光さんも最初誤解されていたという。鈍い光を反射しているただの匙である。

   寒晴やあはれ舞妓の背の高き    飯島晴子

   さっきから夕立の端にゐるらしき

 これらは平成になってからの作である。その観察の確かさ、思いやり、そして表現の的確さが備わっていて好きな句である。いずれも意表をついた見方になっている。最近の若者は手足の長さに憧れる。ただ舞妓はその長い手足と背丈を持て余している。伝統的な衣服を纏ったときのアンバランスをさらり「あはれ」で表している。

 「夕立の端」なんて普通は思わない。でも確かにどこまで行っても行く先は明るいのに、自分の上だけは雨という記憶のある人は居るだろう。だから納得もできるし、人によっては自分の人生を重ね合わせて解釈する人も居るだろう。

 一番参考にしたという依光さんの稿だが、依光さん本人が飯島晴子には会ったことがないという。それでもこれだけのことが書けるということに勇気付けられて、一文をものしてみた。ただ今からずっと飯島晴子を好きで居られるかどうかは判らない。難解句がいつまでも難解句であり続けるかどうかによって、イメージはかなり変わって来そうな気がする。