句あれば楽あり ?

俳句の評価のマンネリ化

至遊(しゆう)



 ある俳句賞の選考過程を座談会で語るものを読んだ。本当は本に載った部分よりも激論が戦わされたことは十分あり得る。それでも選考委員の一押しは皆違っていたのに、話の中でいとも簡単に1人の選者の意見に合わせて降りていき、すんなりと一本化されてしまった。多数決にさえならないで終わっている。

 元々時間的に無理だから致し方ないとしても、最初の選考は誰だか分らない人がやってしまっている。だからこの人たちが眼を通すのはほんの一部である。それまでの過程では本人や、所属する結社の知名度でかなり選別されてしまっているに違いない。少なくとも私が眼にすることができた範囲では、皆同じ傾向を持った俳句だった。

 句についての評価の言葉の中に「面白い」「感心しない」「平凡」「困る」「嫌だ」「当たり前」「理屈」「響く」という言葉がやたらと出てくる。俳句の中ではこんな主観的な判断を避けてきている筈の人たちだが、こんな場合には全くお構いなしである。それも「xxだから」という注釈は全く無しにである。

 「面白い」ひとつを取ってみても、一体何を称して面白いというのか、俳句の評論でよく使うに関わらずはっきりしない。その場に居合わせれば「どこが?」と聞けるがそれへの解説抜きで「面白い」だけで一刀両断にされても「困る」。普通日本語では「面白い」というのは、お笑い的な面白さ(俳諧または川柳的)や、発想の意外さを指す筈である。でもここで「面白い」と言われているものに、少なくとも前者はないし、後者にしても眼のつけどころは「平凡」である。

 賞に選ばれた人を中傷することが目的ではないから、具体的に俳句を挙げて私の意図を説明できないのが、何としてももどかしいが、自分の俳句に対する考え方を明らかにした上で、だからこれは「感心しない」と言われれば、その人の立場が判るから納得できるかもしれない。でもそれなら一流の俳人たるもの、簡単に他人の意見に追随はできない筈である。

 上に挙がったような言葉はいわば殺し文句であり、一般には「当たり前」と思わないような発想があっても「当たり前」と言われればそれで終わってしまう。「理屈だ」もそうだ。

 名句を例に挙げれば「高嶺星蚕飼の村は寝しづまり(秋桜子)」は「当たり前」になり、「海に出て木枯帰るところなし(誓子)」は「理屈」で葬り去られてしまう。

 他の文学でもそうであるように、俳句にも好き嫌いや主義主張があるのは自然である。だから権威ある立場に立った場合は、そんな簡単な言葉で切り捨てないで欲しい。序に言えば、同じ号にその選者の1人が連作を載せていた。そちらの方が余程退屈で新しい発想が無かった。

 この辺をいい加減にすると俳句の衰退につながる。点取り俳句的な傾向が強まったり、無難な句を並べる傾向になって、冒険がなくなってしまう。句を募集するときも、選句の立場を明確にしておく方がいいと思う。

 A賞は花鳥諷詠の中では最高の賞だとか、現代俳句ならこの賞で評価したいという風にスタンスをはっきりさせて募集した方がいいだろう。応募する側としては、選者を見てこの賞はこんな傾向ということを見極めるしかないが、必ずしも選者の傾向を知ることは容易ではない。代表句と呼ばれるものとその他の句に結構な落差があり、本人の傾向はいくつかの句を見ただけでは分らないからである。


031130