句あれば楽あり ?

俳句のできるまで

至遊(しゆう)



 俳句はいつも同じパターンでできるとは限らない。というより各俳句が全部別々の思考過程を経ていると言える。ただ思考過程は違っても、自分なりの手続きに似た手順を踏むときには、或る程度満足した俳句ができる。その手順を多忙や他の理由で省くと、やはりベテランの人には見抜かれる。その基本的なステップについて今日は述べてみる。

1.非日常の体験
 先ずは何らかの体験が必要である。3月中旬に新宿御苑を千駄ケ谷口から新宿口へ抜けようとした。途中で梅の花がそれほど多くはないが、紅白取り混ぜて咲いている。特筆すべきはその日は梅以外の花は全く見えなかったことである。何ということもないが、それに気付いたことも非日常の一つである。ゆっくり見たくもあったが、次の用件が控えているので、歩を緩める程度で通り過ぎた。かたまって梅にしては華やかに咲いている方角もあれば、ちょっと離れて寂しげに咲いている梅もある。どれということもなく平等に鑑賞しながら通り過ぎた。

   焦点は定めず歩く梅満開    福山至遊

2.日頃の考えを乗せる
 ただこれだけでは何となく物足りない。確かに自分は居るが、自分の主張とまでは行かない。勿論主張を入れることがいいとは限らない。ただこれは自分の性みたいなものかも知れないが、一味つけたくなる。その時頭に浮かんだ言葉は「自由」。冷戦の結果として自由主義陣営が勝ったと言われるが、その自由主義陣営の中の力関係で、徐々に相手の自由を制限する方向にあると感じたからだ。でもどこを見るか、見ないか程度の自由は幸いにしてある。

   梅満開焦点合わせない自由   福山至遊

3.推敲する
 推敲は時間があれば机上でやることが多い。だから原風景をできるだけ損なわないように配慮しながら修正を加えて行く。「梅満開」では梅の木が1本だったのか、沢山あったのかは分からないのではないか?という考えが頭を過ぎる。原風景は梅林ほどではないが、数十本の梅の木から成っていたからそれにこだわった。満開かどうかが問題ではなく、沢山あったことが肝心なのだ。そこでそれを表現するのに「遠近」を先ず思い浮かべた。ただイメージとして「あちこち」という感じも出したい。そうすると、ひらがなで書けばどうか。そんな思考の結果が、

   梅おちこち焦点絞らない自由  福山至遊

となり結局これを句会に出すことになった。

4.添削して貰う
 これは俳句のできるステップの中では、おまけかも知れない。ただこの句会の席で先生が添削して下さった。「焦点を絞らぬ」だけで「おちこち」の役目も果たしている。言いたいのが「自由」だろうから、それなら梅の花は脇役でいい。そうすると

   焦点を絞らぬ自由梅の花    福山至遊

となる。「おちこち」を外したが、かと言って推敲の前まで戻った訳でもない。これでリズム的にも五・七・五に完全に収まり、自然な形で言いたいことが全部収まっている。添削を受ける場合時には自分の意図とは違う直し方をされる場合がある。だけどできるだけ先生の見解は聞くことにしている。本当に気に入らなければ、元の句を活かす自由もあるからだ。またその時の理解の浅さや、一種のこだわりから、後になって、なる程!と膝を打つようなこともある。

 下記は上で言えばステップ2を省いたものである。自分の日頃の考えを乗せる余地はなかった。しかも春眠が兼題だったので、無理にでもこれで1句作らなければならない。この日、妻を連れて娘の家に行かなければならなくなった。それから急いで句会の席に向う。だからその時は1人。レールの音だけがやたらに大きく聞こえる。これ何拍子?どう聞いても崩れている。そこで

   春眠し崩れた拍子のレール音(初案) 福山至遊

ができる。でもこの表現では物足りない。やっぱり二拍子が一番いいのかな、でも少し違う。そんなことを考えている時、ふとこの世に存在しないかも知れない「半」をつけることを思いついた。これは発明だとばかりに喜んで下記とした。

   春眠し二拍子半のレール音(句会提出) 福山至遊

 結果としては兼題句としては目を引いたのか、先生以外の全員が取ってくれた。先生に言わせると兼題が「春眠」のときに「春眠し」は違反だろうという。春眠は春の深い眠りであり、眠たいというのとは違う。まだ「春眠し」より「春眠や」として切ってしまう方がいい、ということで下のように簡単な直しを入れられた。
   
春眠や二拍子半のレール音(添削後) 福山至遊

 これはほんの一例で、実際には一句を完成させるのに10ぐらいのバリエーションを並べて見ることが多い。皆さんも各自のやり方を研究してみたらいかがですか?