句あれば楽あり ?

俳句入門 三 切れ

至遊(しゆう)



 俳句には「切れ」が重要とされる。俳句の前身である俳諧の発句にも、これは必要とされていた。ただ昔からそうだから、というだけでは、古い体質の会社と同じで、いかにも説得力に欠ける。何故「切れ」が重要視されるかを、初心者の方に出来るだけ分り易く書いてみたい。

 切れ字の代表として「や」「けり」「かな」が挙げられていた。

   閑かさや岩にしみ入る蝉の声    芭蕉

   くたびれて宿かるころや藤の花   芭蕉

   菜の花や月は東に日は西に     蕪村

   白梅に明くる夜ばかりとなりにけり 蕪村

   春の海ひねもすのたりのたりかな  蕪村

この2人の句から名句を拾っただけでも、これらの「切れ字」を使ったものにはこと欠かない。ただ一方で、芭蕉は「どんな言葉でも切れ字にならないものはない」とも言っている。

   秋深き隣は何をする人ぞ      芭蕉

   にほいある衣も畳まず春の暮    蕪村

に止まらず

   芋の露連山影を正しうす      蛇笏

   蝸牛いつか哀歓を子はかくす    楸邨

のように後世になればなる程、いわゆる典型的な「切れ字」を使うことは少なくなっていると言える。意味で切れていればいいのである。例えば蛇笏の句では「芋の露」で切れているし、楸邨の句でも「蝸牛」で切れる。しかし作者にとっては別の物には置き換えられないものである。

 では切れることによりどんな効能があるのだろう。俳句は短い。その中で出来るだけ多くのことを言おうとすると、文字の数では足りない。だから読み手に想像して貰って、実際には言いたいことの半分も五七五の中には入っていないのに、言いたいことの数倍を読み手が読み取ってくれるようにするのである。私の最初の頃の句に

   窓の下ここにも小さき盆踊り    至遊(実際には俳号を持つ前)

という句がある。はっきりした切れの無い句である。情景は分るかもしれない。しかしそれだけのことで、それ以上の連想や発想の広がりは期待できない。勿論、切れがあってもそんな句は沢山ある。ただ切れがないと、見たままや説明に終ってしまうことが多い。初心者が五七五と季語に気を取られすぎる時期から、壁をひとつ乗り越えるために必要な発想である。

 何か2つのもの(こと)を提示し、読み手がその2つのものに新たな意味を付け加える、それが切れの効能である。日本人の常識として誰でも想像することでもいいし、個人的な経験から来る連想でもいい。今までに印象的だったのは

   蕎麦の花紫紺のボルボ走り去る   青嵐

という私の俳句仲間の句である。蕎麦の花の白と静、ボルボの紫紺と動、この2つを並べただけであるが、田舎に似合わぬ派手なボルボ、静かな田舎道に一瞬の轟音を残して急ぎ去る車、作者はその情景の外に居て、景の全体を眺めている、というように勝手な連想が出来る。この句の解説をした人は、これをサスペンス・ドラマと見た。信州(蕎麦だから)まで東京(車からイメージする都会的なもの)から死体を運んできて、捨て去ったという筋書きである。私はどちらかというと、このような手付かずのものを2つ巧く並べるのは、苦手な方である。

 ある句誌に

   分針のカチリと動く木の芽どき  至遊

という句を載せた。それを鑑賞の名人と尊敬している、正恵さんという方が下のように解説された。少し長いが全文掲載すると、

 『分針が「カチリと動く」瞬間に出会える事は、めったにない。時計を見た。その時たまたま「分針がカチリ」と、一目盛り動いたのだ。「時を見た!」思いがよぎる。文字盤の上のその一瞬に、「時」を意識させられ、それは同時に外界の、冬から春への「時」の移りを意識の上に乗せることになる。分針の一目盛りの動きから、季節の流れに移行していく、その微妙な心の動きが、すばらしく、見事だ。』

 勿論、褒めすぎであるし、全員の句を褒めるのだから私の句が特別ではない。しかしよくもまあ、ここまで巧く広げられるものだと、やはり感心する。「木の芽どき」という季節と、その前の分針の動きに、直接的な関係は何もない。しかし通ずるものが何かある。だから「時を見」て、それが「季節の流れ」にまで繋ぐ、鑑賞者の自由が出てくる。

 この同じ号で

   肩の荷をおろす重みよたんぽぽよ すぐる

という句の解説を、たまたまその正恵さんと私が同時に取り上げた。2人分は長いのでここでは前半部分は省略する。すぐるさんが長い介護の後に、お母様を亡くされたことを承知で解説しているので、何も知らない人とは鑑賞の仕方も当然違って来るが、ここでは「荷をおろす重み」という表現も微妙だが、「たんぽぽよ」との関係の解釈に焦点を当てる。

 明らかに蒲公英は別物であり、その関りは自由な発想を許してくれる。私が「重み」から眼が自然に下を向き、「たんぽぽはそのやり場のない気持をぶっつけるのに格好の対象である。春の兆しが、多少なりとその気分を救ってくれている」と言ったのに対し、正恵さんは「心にしまっておくには重すぎる呟きを、屈託なく輝くたんぽぽに語りかける」とした。

 すなわち私の解釈だと、眼が行った先にたまたま蒲公英があったのに対し、正恵さんの場合は蒲公英はもっと積極的に、必要な道具になっている。

 このように2つのもの(こと)が、1句の中に表現されていると、事実以外の連想の世界に、自由に遊ぶことができる。説明的ではないところに幽玄の世界があり、読者の中で作者とは別の、新しい世界が広がってくる。桑原氏の「俳句第二芸術論」が出てきたのも当然かもしれない。当時の俳人は一生懸命反論を試みた(が成功していない)ようだが、ここで「そうだよ!」と開き直った方が面白いかも知れない。

 二句一章とも言われる、この切れの効能を少しは感じて頂いただろうか。実際には自分で詠む人にしか解りにくいかも知れない。私は句会に出始めてから、半年から1年経った人に、特にこの働きを解説するようにしている。