句あれば楽あり ?

俳句入門 二 季語

至遊(しゆう)



 俳句と言えば五七五の次に考えるのが季語だろう。実際には無季俳句というのも存在はするし、それなりに評価できるものもある。ただ私は季語を入れることを原則にしている。

 俳句は俳諧の連歌の発句から起こっている。例えば「炭俵」の出だしは

   むめが香にのっと日の出る山路かな  芭蕉

である。それに野坡が「處どころに雉子の啼きたつ」と応じている。この芭蕉の部分が発句である。だから芭蕉の時代には俳句という言葉は無かった。俳句という言葉を発明し、それを独立した短詩の形として位置付けたのは子規である。

 この発句には季語を入れなければならないという約束事があった。連歌は五七五に続いて七七を付け、それが連綿と続いていく形だが、後にくる五七五の部分(平句という)には季語は必ずしも必要ではなかった。だから発句が独立した俳句には季語が必要という歴史的必然性があった。

 このように、発句から受け継いだDNAを俳句は善悪とは関係なく内包して生まれてきたのである。それは芭蕉のころから、すでに発句だけで競う仕組みはあり、俳諧の宗匠として生活が成り立ったのも、有料でその選をしていたからである。それらを蕪村、一茶(宗匠としては不成功)、そして子規が受け継いだのだから、俳句の中には発句のルールが含まれているのは当然である。

 この伝統を引き継いだ形を今も守っているのが私の立場である。勿論季語を義務付けることによるプラスもあればマイナスもある。マイナスの面から言えば

 1) それだけ自由度がなくなり、表現したいことを表現できないことがある。
 2) 「季ずれ」「季重なり」等をどうしても気にするようになり、これも自由度を減らす。
 3) 逆に季語に頼りすぎて、季語から俳句を発想するということが起こってくる。

それでも尚且つ有季にこだわるのは、逆にプラスの面も多いからである。

 1) 季語ひとつに多くの意味を持たせることができる。
 2) 日本人が育ててきた感性は季節に敏感であり、読む人の共感を得やすい。

というようなことである。ここではマイナスの2)として挙げた2つの言葉と、プラス面の1)について述べてみる。他は多分解説なしでも分って頂けると思うからである。

○季ずれ

 同じ俳句の中に異なった季節を表す語を含んでいるものである。ただ季語にも季節感の強いものと弱いものがある。「元旦」や「立春」となると季節としてしか見られないのに対し、「月」となると一般にはいつでも見られるものだから、季感としては弱いかも知れない。しかし「名月」というように、日本には特定の月を愛でる習慣があった。だから特に断らない限り「月」は秋である。

   外にも出よ触るるばかりに春の月   汀女

という風に断れば立派な春の句になる。しかしもっと季節性の薄い「緑」や「滝」が夏の季語である。確かに夏が一番似合うかも知れない。しかしこれらが例えば元旦の松の緑だったり、凍てついた冬の滝だったりした場合には、季ずれとしてあまり糾弾する気はない。また芭蕉の

   ほろほろと山吹散るか滝の音

は季ずれとは見ない。何故なら、滝が夏の季語とされたのは、秋桜子の

   滝落ちて群青世界とどろけり

以降だと聞いており、芭蕉の時代には滝は季語ではなかったからである。

 基本的に「季ずれ」は歓迎出来ない。17文字という短詩の中に、2つの季節が入っていることは、読み手の感覚を混乱させる。俳句は今を詠むものである。だから夏の句会に冬の句を持ち出す人はいない。今を詠むとすれば季節は1つのはずである。

○季重なり

 これは昔は今ほどうるさく言わなかったらしい。芭蕉の句にも同じ季を表す季語が複数入っているものは沢山ある。安心して貰うために数句の例を挙げると

   春なれや名もなき山の薄霞      芭蕉(春と霞)

   秋凉し手ごとにむけや瓜茄子     芭蕉(秋凉しと瓜・茄子)

   菜の花や笋見ゆる小風呂敷      蕪村(菜の花と笋(たけのこ))

   短夜や毛虫の上に露の玉       蕪村(短夜と毛虫、露は秋だが短夜だから許せる?)

という風である。更に前にも出したことのある

   眼には青葉山時鳥初がつを      素堂

などは伸び伸びと季重なりをやっている。テーマはかつをだと弁護する人も居るが、青葉やホトトギスともに強い季語性を持っており、だからこそ素堂は並べたと見る。

 最近「季重なり」に厳しいのは何故か。それは短詩の宿命で、出来るものなら季語は1つでその句の持つ句感を十分に引き出したいからである。だから「厳しい」とか「出来たら」と言っているように、「厳禁」ではない。私も、また仲間うちでも「勿体無い」からというのが通り相場である。

○季語の効能

   行く春や重たき琵琶の抱きごころ   蕪村

例えばこの句の「行く春」を取っただけでも、晩春のけだるさ、身体の重さ、少し汗ばむ程度の暖かさといった色んなことを日本人は連想できる。そこに琵琶の重さ、その沈んだ音色等が重なるので、柔らかい表現ながら、これでもか、これでもかと迫ってくる感じがある。更に先輩に

   行く春を近江の人と惜しみける    芭蕉

という句がある。気を廻せば「行く春」と言っただけで、「琵琶」と「琵琶湖」の連想まで湧く。これが古典の知識を持っていると、どこまで行くか分らない広がりを持っている。一般の言葉もそうだが、季語は特に長い間磨かれてきて、多くのイメージを付加されてきた。しかも農耕民族である我々には生活の中でも必要とされる共通の季感が多い。

 だから季語を有効に使うと、沢山の感情をそこに込めることができる。そこに有季を大事にしたい理由が潜んでいる。いわば過去の遺産をどう巧く使うかということであり、季語を否定したら、これまた「勿体無い」ということになってしまう。

 ご存知のように歳時記や季寄せというものが沢山出ている。各々記載されている季語は必ずしも同じではない。しかし俳句を楽しむ以上はこのルールも知っておくべきである。