句あれば楽あり ?

俳句入門 一 リズム

至遊(しゆう)



 偉そうに俳句入門を書く柄でもないが、何も考えないで俳句を詠んでいる訳ではないので、日ごろ考えていることを少しずつ書いてみたい。その第一は「リズム」から入りたい。

 俳句というと五七五と誰でも思うだろう。確かに五と七という文字数は、和歌(長歌・短歌)の昔から、日本人/日本語に染み付いたリズムである。古事記に出てくる各種の歌にもその端緒が見えている。

 ただリズムにも色んな要素がある。先ず字余りや字足らず。17音になっていない俳句である。次に破調(または句またがり)、これは切れの入る場所が五七調と合っていない場合である。最後にこれは微妙だが、拗音・撥音等で発音してみると1.5音程度に聞こえるものである。

 芭蕉の句を見ていると殆んど17音の原則を外しているものはない。特に有名な句は流れるようなリズムだったり、力強い調子だったり、口に出してみて不快に感じることがない。例えば

   奈良七重七堂伽藍八重ざくら

   ほろほろと山吹散るか滝の音

   五月雨の降り残してや光堂

   菊の香や奈良には古き仏達

等よどみなく読めるものが大部分である。ところが例外もある。

   庭訓の往来誰が文庫より今朝の春

字余りである。しかも往来で切れる筈であるから、破調にもなっている。読んでみても何か舌につかえるところがある。従って好きになれない句である。また

   塚も動け我が泣く声は秋の風

も上五が六になっていて字余りである。この句は「おくの細道」の終りに近く、金沢に立ち寄って、自分が訪ねようと思っていた人が、すでに亡くなっていたことを知って詠んだ句とされている。不思議にこの句の字余りは気にならない。命令形で強く切ってあるせいかも知れない。ただ形は気にならないが、好きな句とは言い難い。激情に任せ過ぎた感があり、却って第三者の胸を打つ力に欠ける。勿論、これは私の感じであって、この激情が好きだという人も居ていい。

   海暮れて鴨の声ほのかにしろし

は、数えてみるとちゃんと17音に入っている。しかも上五で切れている。ところが不思議なリズムを感じさせる句である。五・五・七になっているせいだと思うが、ちょっと読むときに躊躇が入る。そして「ほのかにしろし」が何とも言えず新鮮な言葉として入ってくる。一種の破調だが、成功例だと思う。

 さて、芭蕉と較べるのは酷かも知れないが、いくつかの他の例を引いてみたい。

 船橋の句会でご一緒している仲間は個性的である。「東炎」という句集を出された、八木邦夫さんの句から各自好きな句を20句選ぶことになった。いつもリズムにうるさい私が選んだ句の中に、五七五から外れているものが結構あって、自分でも驚いた。

   花柄のショール端正な謙譲語    (5・8・5)、(8・10)

   時刻表にないバスが来る春の雪   (6・7・5)、(13・5)

   卒業式前夜沈黙の椅子の列     (6・8・5)、(9・10)

   蜜蜂の羽音出そうで出ぬ人名    (5・7・6)、(8・10)

 挙げるときりがない。後ろに書いた数字は、左が5・7・5と比較したリズムで、右は切れを中心にしたリズムである。この程度の字余りや破調は、必然性がある限り気にはならない。特に中に拗音が(しょー)(ひょう)(ぎょう)のように入ると、文字数よりは短く聞こえる。だから口に出しても余り違和感がないのだろう。邦夫さんはどちらかと言うと定型支持派である。
 ところが

   カスタネット菜の花がくすぶっている      等

   酸模羊蹄(スカンポギシギシ)バルザックまったく春だ 等

   地図に無い国時計が止まり春クルル       暢子

   こんにゃくちりちり柳の芽燃えんとす      菊野

というような句になると、生理的に理解したいと思わなくなるところがある。どの句も極端な字余りという訳ではない。だけどわずかな字余りでもそれに破調が加わり、更に私とは違う感覚の言葉の組み合わせが重なると、私のリズムでは読めなくなり、生理的に駄目である。等さんは

   白猫にゃーと鳴けば厠の僧驚く        金子兜太

というような句に心酔している状態だから、今は確信犯的に実験している段階だと思っている。

 どんな時でも決まりきった制度の中では飽き足りないという人は居るものである。時にはそれが新しいエネルギーとなって新しい文学を生み出す可能性もある。しかし自分の力、知識も蓄えないうちからそんな挑戦をしても失敗する。基本をしっかり作った上で、挑戦してみるのはいいが、碧梧桐同様、成功の確率は低いという覚悟もまた必要である。

 取り敢えずは入門編なので、定型を守る努力をしながら俳句を詠むことが、素人俳人としての王道であろう。自分の句は出来たら声を出して読んでみるといい。舌頭に百遍転がす(芭蕉)前に、自分のリズムに合っているかどうかは分る。

 どうしてもそこ(定型)から飛び出さなければならない衝動に駆られたときに、始めて別の道(狭き門だが)を模索してみる価値があると思う。