句あれば楽あり ?

不自由の効果 二

至遊(しゆう)


 わずかに十七文字という制約は、確かに不自由である。しかしその中で何かを表現しようと努めるところに、表現力の進歩や面白みがある。

   雪解けて言葉を削る旅に出る   土肥敬一

 この句の好き嫌いは別にして、俳句を詠む者として、座右の銘にしたいくらいの句である。要するに俳句とは、どこまで言葉を削れるかではないかと思うことがある。ある人の知人が

   麦の芽やみずみずしくて整列す

という句を作って、俳句をやっている和尚さんに見せたところ、「みずみずしいは麦の芽で解る。麦は一直線に蒔くものだから整列すも当たり前。結局この句は麦の芽しか残らん」と言われたそうだ。余りにも出来すぎた話だが、身近な人の話なので本当にあった話だと思う。

 私も以前

   柔肌の白葉牡丹や道急ぐ     福山至遊

という句を詠んだことがある。ここである人との間で、「柔肌の」が要るかどうかで議論になった。その人に言わせると白葉牡丹というだけで、柔らかさは十分連想できる。むしろ柔肌と言ってしまうことで、赤ちゃんの肌とか、女性の肌とかに連想が行ってしまい、散漫になるという。事実、私が白い葉牡丹を見て最初に連想したのは、白い女性の肌だった。だから句を詠もうという最初の段階ですでに「柔肌」という言葉があった。

 白葉牡丹という言葉を聞いて、日本人なら一体何を連想するだろう。連想するものは一つではなく色々あるだろう。その中に柔肌がかなり入っているとすれば、私の負けである。即ち改めて言う必要はない。そうでなく、柔肌というところまでは共通認識ではないとしたら、言っておく必要がある。このような言語感覚の問題である。

 指摘されたとき、私はやられたと思った。自分が柔肌を思ったから白葉牡丹を詠んだのだが、この連想は当たり前過ぎると言われても仕方がないと思ったからである。

 結局句集にする時

   寄せ植えの白葉牡丹や道急ぐ

と変えた。結果としては大いに不満である。「寄せ植えの白葉牡丹」にしてしまったことで、むしろ遠景じみて来たのか、柔肌のイメージが出ていないからである。いわゆる「付きすぎ」が無くなった代わりに、元々の言いたかったことまで犠牲にしてしまっているからである。本当は上五は要らないかも知れない。だがそれではリズムが狂う。こんなに十七文字でも余ってしまうことも良くあることである。

 私は昨年仕事を辞めてから、多少は時間が出来た。その暇な時間を楽しんでいると、広げた本には、「時間の浪費は罪悪」のようなことが書いてある。いいじゃないの、もう還暦もとうに過ぎているんだから、このくらいの浪費はしても、と思って

   時静かに浪費する贅枇杷の花    至遊

と詠んだ。句会に出したら結構好評だったが、先生に直された。

   静謐を浪費する贅枇杷の花     至遊

にしなさいと。確かにこれが言いたかったことである。静謐という言葉も知ってはいた。だが、この句を詠む時には全く浮かんでこなかった。リズム的にも、最初の句では字余りだったのが、ぴったり収まる。本で読んでいても、自分で使ってみないと本当に自分が使える言葉にはならない。多分この経験で「静謐」という語彙が、使える言葉として身に付いたことだと思う。

 このように短い形の中だからこそ、色んな言葉を選ばざるを得ない。その過程で日本語に対する知識は少しなりと増え、感覚的にも敏感になって来ていると思っている。

 では何故「枇杷の花」なの?という人も居るかも知れない。これは実景ではないし、本当の意味での必然性はない。これは昨年12月の作だが、12月の季語には、年末の慌しさや、枯野のように寂しいものが多い。慌しさも寂しさもこの句には似合わない。これしか無いと、季寄せの中から選んだものである。芭蕉を例に出すのは畏れ多いが

   雪積む上の夜の雨   凡兆

に付ける上五を、「下京や」しかないと言ったのと似た心境である。句を引き立ててくれるなら問題ないが、少なくとも句の雰囲気を壊さない、邪魔にならない言葉を選ぶ、という言葉の取り合わせの感覚も必要であり、こんな訓練をしていれば磨かれてくるものと思っている。