句あれば楽あり ?

不自由の効果 一

至遊(しゆう)



 「俳句は五七五とか季語とか約束ごとが沢山あって不自由ですね」とお思いの方もいらっしゃると思います。ところがどうして、これがあるから面白いのです。言葉遊びになるんです。例えば野球でもサッカーでも、ルールがいっぱいありますよね。私はサッカーではオフサイド撤廃論者ですが、それでは面白くないよ、という方が沢山いらっしゃいます。ルールが無ければ成り立たないという面もありますが、知っている人には面白さも与えてくれているんですね。では俳句でのルールをいくつか、

1.五七五
 確かに五七五とよく言われますが、合計十七音と思った方がいいでしょう。別に五や七で音が切れる必要はありませんから。このルールは和歌(短歌、長歌)から連歌、俳諧連歌、そしてその発句(最初の句)という風に発達して、変形して来ただけに、ちょっとやそっとでは変えられないものです。つまり日本語に根ざしており、日本人のリズム感になってしまっています。

   竹馬やいろはにほへとちりぢりに  久保田万太郎

   ちるさくら海青ければ海へちる   高屋窓秋

   ぜんまいののの字ばかりの寂光土  川端茅舎

 これらはこの枠の中に美しく入れ込んだ例です。ちょっと遊びの要素も入れて。十七音に何とか自分の思いを入れようとするから、無駄な言葉を省き、日本語の表現力をぎりぎりまで活かす訓練ができるのです。これが三十一文字になれば、全く違ってきます。

 過去にこれを無視した俳人は何人もいます。けれども結局今の形に戻っています。誰がどんな無視の仕方をしたの(?)という疑問に答えるには、長文になってしまいます。一番皆さんに身近な例は

   分け入れば水音          種田山頭火

 でしょう。たったこれだけなら楽だと思う方もいらっしゃるでしょうが、これが楽かどうかは試してみれば分ります。貴方が作ってこれを俳句だと言っても、誰からも見向きもされないでしょう。俳句と言わず、単なる短詩といえば通用するかもしれません。

2.季語
 現代俳句では、季語は一つだけ入れるのが原則です。芭蕉の頃は二つ以上季語のある、いわゆる季重なりはよく見られました。季重なりに関しては致し方ない場合もあるが、十七音の中に同じ季節を表わす言葉を二つも入れるのは「勿体無い」というのが今の私の考えです。一番有名な季重なりの句は

   目には青葉山ほととぎす初鰹    山口素堂

でしょう。初夏の季語が三つも入っていますから。でもこれはテーマは初鰹だからここでは青葉とほととぎすは季語ではない、と弁護する人もいます。「目と耳は安くて口は高くつき」という川柳にまでなっている句ですから、残したい気持は分りますが。

 別に季ずれというのもあります。これは二つ以上の季語が入っていながら、その表わす季節感がばらばらな場合です。これは初心のころですが

   更衣忘れしままに葉鶏頭      至遊

という句を作ったことがあります。「いい句なんですけどねぇ」と残念がる先生の話を聞くと、更衣は夏服に着替える時の季語で、秋にも確かに衣更えはするけど、秋または初冬の季語ではないとのこと。更衣が初夏、葉鶏頭が晩秋という二つの季語を使ってしまったのです。これは読み手にとっては季感がばらばらで、決して良いとは言えません。

3.切れ字
 俳句には切れ字というのがよく使われます。代表的なものは、句の途中によく使われる「や」です。

   菜の花や月は東に日は西に     蕪村

   荒海や佐渡に横たう天の河     芭蕉

 読んで字の如く、ここで句を切っています。最近流行の二句一章になります。ただ「や」のような切れ字を使わなくても、意味の上でちゃんと切れていれば問題ありません。

   秋深む/星の大きなゴッホの絵   至遊

   冬鴉/呼び合いながら近づかず    至遊

 切って二句一章にすると、わずか十七音の中に、二つの詩があり、うまく共鳴すれば非常に余韻を漂わすいい句になります。その為には読み手の力も要求されますが。

 ただこれが行き過ぎて三つまたはそれ以上に切れると、焦点が定まらない、意味不明な句になりがちです。そこで三段切れは嫌われることになります。上の素堂の句もその意味では三段切れですね。歯切れ良く当時の江戸気質を言っているので、好感は持てますが、やはり「勿体無い」というのが実感です。