句あれば楽あり ?

貧乏への憧れ

至遊(しゆう)



福山至遊
 先日ある異業種交流会の読書会という分科会の中で、森本哲郎氏の「ことばへの旅」という本を紹介した。最近合本が出されてはいるが、昭和四十九年初版なので、約三十年前の本である。多くの名作の中の「ことば」が紹介され、著者なりの解釈が加えられ、そこから多方面に話が広がる本だが、この中に芭蕉が取り上げられていた。

 芭蕉と言っても俳句の話ではない。きっかけとなった句は、芭蕉としては初期の句

   芭蕉野分して盥に雨を聞夜哉   芭蕉

である。芭蕉の葉を揺らし、または切り裂きながら野分が通過している。粗末な庵の屋根も今にも吹き飛ばされそうである。日本の台風の常として雨を伴う。だから必然的に雨漏りがする。それを盥に受けている。いわゆる雨風も満足に凌げない生活である。だからと言って「侘しいなぁ」と声を掛ける人も側にはいない。

 常識的には悲惨な生活環境である。でもこの句からはその嘆きは聞こえてこない。貧しさに対する捉え方が、西欧と、また西欧の価値観に慣らされた現在の私たちとは違うのである。西欧でも「質素な生活、高尚な思想」とは言われている。でもこの「質素」は「貧乏」ではない。英語で言えばPlainである。だからこの芭蕉の感覚は西欧人には理解できない、謎めいたものであろうと森本氏は言う。

 修道者は洋の東西を問わず、貧乏な生活を強いられる。しかし芭蕉を始めとして日本人や中国人は必ずしも宗教的な人種ではない。日本では宗教的というより精神的な求道者というのが一種の憧れだった。日本人は少なくとも江戸時代までは「物」を軽蔑し、「財」を笑い、「貧」を誇って来た。大名諸侯や富豪商人ですら貧に憧れていた気配がある。江戸の庶民は「宵越しの金は持たぬ」のを美徳(負け惜しみかも知れないが)としていた。

 茶道や能という芸術も、元々は貧の芸術である。両者とも全くシンプルなものである。漱石も「貧乏を十七文字に標榜して、馬の糞、馬の尿を得意気に詠ずる発句と言うのがある。芭蕉が古池に蛙を飛び込ますと、蕪村が傘を担いで紅葉を見に行く。明治になっては子規という男が脊髄病を煩って糸瓜の水を取った。貧に誇る風流は今日に至っても尽きぬ。」と書いている。

 ところが明治維新とともに、西欧の価値観が入ってきて、富国強兵などの国策が取られてくると、それまでとは全く逆の考え方をするようになった。同じ漱石が「虞美人草」の中で「文明の詩は金剛石より成る。薔薇の香と、葡萄の酒と、琥珀の杯より成る。・・・」と書いている。物質は必要なものだし、人はパンなしには生きてゆけない。しかしパンだけに生きてゆくわけにも行かない。物質を追求すれば、精神的なものは希薄になるのが、人間の性である。でもいったん物質を追い始めるとこの心理は忘れられてしまう。バビロンの衰退もローマの滅亡も、サラセン帝国の興亡も、すべて物質に心を奪われたためと言える。「盛者必衰」である。

 そこで森本氏は、ひとりの人間が一生で使えるエネルギーは一定である、という仮説を立てている。物質的なものに多くのエネルギーを使えば、必然的に精神的なものへのエネルギーの使い方は減る。悪いことに物欲には限界がないので、物欲の方に行けば、精神的な方に回されるエネルギーは極端に減る。我々は個人差はあるにしても、平均的にはこの物質的な価値を追求する世相の中に居る。

 それでも芭蕉は愛されている。それは日本人がまだ精神的なものを追おうとしているのか、または失くしたものへの郷愁のような形で、芭蕉の生き方に憧れているのか、どちらかというと森本氏は郷愁説を取っている。そして物質的な追求にも限度があるべきだという提言をしている。どうやって?という提言は無いので、各人自覚してということになるかも知れない。

 私の考えは少し違う。芭蕉の愛され方は必ずしも郷愁ではない。本当に俳句の好きな人は多い。その多くの人にとって、未だに芭蕉は子規や虚子に優る大先生なのである。その域に達した陰には、森本氏の言われるように、精神的なものに多くのエネルギーを注ぎ込んできた芭蕉の生き方があり、当時の社会にもそんな人を尊敬する素地があったと思われる。幸と言うべきか、今は物余りの時代で、人々は多少「物」に飽きて来ている。時間的にも金銭的にも少し余裕のできた熟年の人たちが、旅行や絵画・音楽の鑑賞という自分の心を満たしてくれるものに多くの時間を割くようになったのも、その一端であろう。

 森本氏がこの本を書いた三十年前に、物欲に目をぎらぎらさせていた世代が、ちょうど熟年に入って来ている。もしかすると森本氏の言われる理想に少しは近付いているのかも知れない。




目次に戻る

050429