句あれば楽あり ?

危ないですから

至遊(しゆう)



 最近JRにしても地下鉄にしても、必ずと言っていいほど「危ないですから黄色い線の内側までお下がりください」というアナウンスが流れる。常々この「危ないですから」という言葉に違和感を持っていた。俳句が正しい日本語の最後の砦という話を耳にして、ならばと

  日本語が「危ないですから」五月闇   至遊

という句を詠んだ。ただ「 」で括ると、「日本語が」という主語が浮いてくる。「日本語は」なら文法的にはいいかも知れないが、日本語=「危ないですから」に見えてしまう。そこで句会の席では「 」を全く外してしまった。

  日本語が危ないですから五月闇    至遊

 後になって、文法書ではないが、広辞苑で調べてみた。『です《助詞》体言や体言に準ずる語句、一部の助詞に付いて、指定の意を表す』とある。「危ない」は体言ではない。「危険」なら体言だから「危険ですから」という言葉には抵抗はない。では「奇麗ですから」は言うではないか、とちらと頭をかすめたが、どうも「奇麗」はこれだけでは名詞だ。「奇麗な」は形容詞、「奇麗に」は副詞。だから問題はない。だから「美しいですから」とは言わない。

 「です」とよく似た付き方をする助詞に「だ」がある。これを付けてみるとよく分かる。「危険だ」とは言っても「危ないだ」とは言わない。「奇麗だ」はOKで「美しいだ」はない。と勝ち誇っていた。

 そしてそのまま広辞苑を読み進んでいると、『「面白いです」のような形容詞に付いた言い方は昭和10年代までは由緒のないものとされたが、現代は正しいものと認められている』と来た。では何でもありか?確かに「暑いですねぇ」なんて言うのは「形容詞+です」だ。「汚いですよ」「お早いですね」「涼しいですね」、どれをとってもかなり自然な「形容詞+です」だ。

 ではここで退散とするかというと、性格的に思い込んだら何とかこじつけて自分を正当化する癖がある。多分これらは無意識に名詞が省略されているんだ。「面白い[話]です」「暑い[日]ですねぇ」「汚い[物]ですよ」「お早い[お出かけ]ですね」「涼しい[風]ですね」てな具合に。

 かなり無理があるかも知れない。しかしせいぜい戦後になって認知された言葉ではないか。確かに言葉は生き物で、成長・増殖や退化を繰り返している。でも我々俳句を嗜む者が、これらに最後の抵抗を示す日本人でもいいではないか。基本は最初に出たように、体言に付く助詞なのだ。駅のアナウンスも数年前までは「危険ですから」と言っていたような気がする。「危険」という言葉が日本人には難しい単語になってしまったのだろうか。それとも日本全体が子供でも分かる日本語に舵を切っているのだろうか。昔はいい大人が幼児語を使えば馬鹿にされたものだが。

 ここのところ台湾や韓国で昔日本語教育を受けた人の奇麗な日本語を時々耳にしてはっとする。仲間の一人がミャンマーに行ったとき、通訳を買って出てくれた人の日本語が奇麗だったと感心していた。その人は日本からミャンマーへ修行に行っている仏教僧に、無料で日本語を教えて貰っており、日本には来たこともないという。逆にこの日本人仲間のグループの日本語は、彼女には難しかったらしい。「わかんないみたい」と言っていたので、それはやはり「解らないようだ」と言わないと彼女には日本語とは思えなかったのかも知れない。

 このように海外では今でも奇麗な日本語が教えられている。勿論日本語がケースバイケースで打ち解けた話し方になったりするのは構わないが、基本は正しい日本語を知った上で使うべきだ。そして相手が折り目正しい日本語を話す場合には、それに対応できないと悲しい。