句あれば楽あり ?

坪内稔典を読む (三)

至遊(しゆう)



 今回は我々凡人にはまともに見える句を集めた。才人には退屈かも知れない。そこで最初だけでも、余り他の人は詠まない句を。

   紅梅の咲くごと散るごと母縮む

   せりなずなごぎょうはこべら母縮む

   ほとけのざすずなすずしろ父ちびる

 正直言って、余り好きとは言えない。特に七草と組み合わせた後の2句は言葉遊びの中に、父母を入れて、しかも縮んだり、ちびったりと、身内とはいえ抵抗がある。確かに年を取るに従って小さくはなるが、現実だからこそ別の表現が欲しかった。

   野菊また国家の匂い千々に咲く

 三橋鷹女の「凡骨は野菊を踏んで行きにけり」が生き返って来たような句である。何故野菊が全体主義の象徴になるのか、せいぜい菊の御紋章に嫌悪感を持つ人たちの感覚かも知れない。菊の御紋は野菊ではないと思うが。

   家々は闇のかたまり牡丹雪

 夜、牡丹雪が降っている。家々はもう灯りを消している。だけど牡丹雪の降る夜は、何となく明るい。それと比べると家の方が闇である。本当は我々は家に灯りや明るさを求めている。家族が昔のような結束をなくし、今では家の中がむしろ闇なのかも知れない。

   闇もまた垂直に立つ杉林

 杉の木が垂直に立っている。正確に言うとその筈だ。杉の木は垂直が当たり前だと思い込んでいる。実際昼間にそれを見たのかも知れない。夜になって林の方を見やると、勿論もう闇である。それでも闇そのものも杉の木に沿って、垂直に立っていなければならないような気になってしまう。

   睡蓮に誰もが遠くなるまなざし

 睡蓮の花は意外に小さい。しかも岸辺からはちょっと離れたところでよく咲いている。モネの睡蓮のように間近に見ることは稀である。視力の弱ってきた私なぞは、目を細めても昔のようにはっきりとは見て取れない。ますます必死になってその遠くに焦点を合わせようと焦る。神代植物公園でこの思いをしたことがあるので、上手く捉えたなと、感心した。本当は広い池であちこちに睡蓮が咲いていることを言いたかったのかも知れない。龍安寺でそんな経験もしたから、そっちかな?

   立春の翌日にして大股に

 もう春である、と心で思っている。コートも脱ぎたいのかも知れない。何しろ俳人は季語の関係で、季節に対してはせっかちである。実際には冬であった一昨日と大して変わってはいない。だけど心が春だと思えば、行動もそれに伴ってくる。「大股に」がその軽やかになった行動を表わしている。

   手にのせてこれは京都のかたつむり

 私のように、京都に余り行ったことのない人間には、京都は特別の地である。神社仏閣に止まらず、歴史的な多くのものを見るには貴重な土地である。そこに棲むかたつむりだから、それも特別扱いにしてもいいかも知れない。かたつむりだって万世一系で、都が華やかだった頃のかたつむりの末裔なんだろうから、やんごとないかもしれない。

   目玉二つが勝手に動く花菖蒲

 菖蒲園に行くと大抵菖蒲に埋まるように中に入る。だから四方が菖蒲になる。鑑賞するには首も眼も活発に動かさなくてはならない。首は意識的に動かしているという気になるかも知れないが、目玉も、本当は脳からの指示が来ないと動かないことは分っているが、本能的に動いているようだ。嬉々とした様がよく分る。

   えんどうの花に泊まって来たと言う

 結局、一番坪内稔典らしい句と言えば、こんな句ではないかという、自分なりの結論を出して、最後に締めようと思う。メルヘンチックな、ほんわかとした、何とでも解釈できるような句が結構多い。最初に紹介した「たんぽぽのぽぽのあたりが火事ですよ」もこの種の句と言えよう。この句、蜂か何かがそう言っているのなら、どうということはないが、その言葉を聞き取れるだけでも想像力豊かである。でも主語のないところで、好きに読んでくれと言っているのだろう。




目次に戻る

050408