句あれば楽あり ?

坪内稔典を読む (二)

至遊(しゆう)



 稔典には大きく分けて3つのジャンルがあるような気がする。ジャンルと言っていいかどうか分らないのが、商品シリーズである。もしかしてコマーシャルに頼まれて詠んだのかと思いたくなるが、これでその商品が売れそうにもない。稔典には狼藉と真顔が同居すると言われるが、誰にもそんな面はある。一般に俳人は会話の中では軽妙洒脱なことを言っていても、俳句には真顔で取り組んでしまう。商品シリーズは題材そのものが狼藉に近い。遊びすぎの気がする。私はこんなものは多分生涯詠まない。

   春昼の紀文のちくわ穴ひとつ

 紀文でなくともちくわには穴は一つである。穴があるところにしか意味は見出せない。そこから春昼のけだるい世の中を、狭い視野で覗いているのだろうか。

   春の坂丸大ハムが泣いている

 まるで、「初めてのお使い」のようにこの句を取った人が居た。それはそれで構わないが、私には丸大ハムの宣伝を長く続けた役者の別所某が、「丸大ハムのお兄ちゃん」としか呼んで貰えないことを嘆いているように見える。

   ボンカレー匂う三月逆上り

 ボンカレーというと王監督が目に浮かぶ。三月はまだシーズン前である。キャンプの最中だが、色んなことを試してみるのもこの時期ならできる。逆上がりもその一つの試行かも知れない。

   春の暮御用御用とサロンパス

 サロンパスの薬効が、肩こりの犯人である乳酸等をやっつけている様だろうか。春の暮には余り似合わない。やはり寒い時期が似合いそうである。ただ理屈はどうでも付けられるもので、「春の暮」の静に対して「御用御用」の動を対比させたとも言える。どうでもいいが。本当は2つ目の御用は、例のくり返しの記号である、ひらがなの「く」の字の長いものになっている。横書きでは難しいので、勝手に変えたのでご了承頂きたい。

   五月闇日清サラダ油揺れに揺れ

   弟が姉ぶつ梅雨のシーチキン

   晩夏晩年角川文庫蠅叩き

   あちこちにトリスがしゃがむ曼珠沙華

   大阪に日がさしはしゃぐ正露丸

 ああ解説するのも飽きてくる。マンネリなのか試作なのか分らないが、同じ言葉が結構沢山でてくる。曼珠沙華もそうである。これとは少し違ったユーモアが第二のジャンルである。

   春の蛇口は「下向きばかりにあきました」

   春ゆうべ蛇口が水呑むあおむいて

 水飲み場の蛇口はよく上を向いている。勿論その方が呑み易いからだが、この連作を見ていると、蛇口の意思で上を向いているような気になる。また確かに上向きの蛇口は自分が吐いた水を自ら呑んでいるように見えることがある。

   ゆびきりの指が落ちてる春の空

 サスペンスではない。「指切った」で終る指切りの儀式がどうして起こったのか知らないが、切った指が落ちていても可笑しくはない。子供達が外に出て遊び始める春になると、あちこちに指が落ちているかも知れない。

   がんばるわなんて言うなよ草の花

 特に鬱などに悩まされている人に「頑張れよ」なんて言葉は禁句らしい。頑張らないリラックスした気持が必要なのだ。ましてたかが草の花である。頑張っても限度がある。薔薇や桜のように注目の的になることもない。草の花は自分かも知れない。

   タコ焼きの蛸の弾力花曇り

 確かにタコ焼きの唯一の魅力はあの弾力かも知れない。余りタコ焼きの好きでない私などには、この程度の感想しかない。そんな曖昧な鑑賞には花曇りも合うかも。

   家族みな靴の右減る花祭り

 歩き方が親子で似ることはあるかも知れない。ただ血の繋がりのない奥さんまでが同じ癖とは、夫唱婦随なのか、元々そんな人だったから気が合ったのか。そこに花祭りというのは何故?と思うが、この人の季語のつけ方には付いていけない部分がある。4月になれば歩くことも多くなるので、気付くのか。

   小錦のだぶだぶと行く残暑かな

 一転この句の季語はすぐ分る。小錦関には悪いが確かに暑苦しい。この他に朝潮がどっと負ける句もある。ただ本当はお相撲さんのお腹は結構固いとか。彼らは脂肪太りではなく筋肉で太っているとか。触ったことはないので、固さの具合を証明はできないが。

   卓上の長十郎とは横着な

 長十郎という人名と同じ名前を持つ梨、それが卓上にでんと座っている。こんなものが人名を持つなんて出すぎた真似だと一喝したくなったのであろう。まして人間でも卓上に乗ったら怒られる。それなのに堂々と横たわっているのが癪なのである。

 残りの1つのジャンルは比較的まともなので、次回に鑑賞する。




目次に戻る

050321