句あれば楽あり ?

杉田久女論 (五)

至遊(しゆう)


   朱欒(ざぼん)咲く五月となれば日の光り

   常夏の碧き潮あびわがそだつ

   爪ぐれに指そめ交はし恋稚く

 この三句は昔を思い出しての句である。「朱欒の花咲く頃」「南の島の思い出」「梟啼く」「竜眼の樹に棲む人々」等々鹿児島、沖縄、台湾を題材にしたエッセイがある。「梟啼く」は結局は台湾で亡くなった弟さんのことを綴ってある。これらの文が発表されたのは大正年間だが、何故か俳句は昭和四年以降の欄に分類されている。名句とは言えないが久女の生い立ちを知る上でエッセイとともに、どうしても知らざるを得ない句だし、心まで子供に帰っている。こんな句を詠むときというのはどんな気分だろうとつい思いやる。私が子供時代を詠むのは、本当に苦し紛れに詠む時だからである。ここにはその苦悩の跡がない。

昭和十年〜二十一年

   張りとほす女の意地や藍浴衣      (昭12)

 虚子に除名を言い渡されてからの虚子への意地かと思いきや、昌子さんによればご主人に対してのことらしい。聞けば除名を宇内は喜んだという。久女としては八方塞がりの状態に途方に暮れているときに喜ばれては、意地を張るしかなかったろう。全般に宇内は敵役でここに登場する。確かに家庭内では久女を言葉でいじめていたらしい。でも生徒にとってはいい先生だったらしく、昌子さんとしてもそれは救いだったのではないだろうか。この句は除名処分を受けた後なので「俳句研究」に発表された。このあたりまではまだ元気があった。

   苺摘む盗癖の子をあはれとも      (昭13)

   百合を掘りわらびを干して生活す    (昭13)

 この二句がホトトギスに載ったのが最後のホトトギス掲載句となった。一時の気迫はない。まだ四十台である。この後はもっぱら文の発表や、句は「俳句研究」上になったようだ。

   物言ふも逢ふもいやなり坂若葉

   一人静か二人静かも摘む気なし

 従ってこれらの句も多分「俳句研究」誌だろう。厭世気分に満ちている。昌子への手紙や光子の結婚式で昌子と会ったときなども、生きる張り合いがないと盛んにこぼしていたらしい。なまじ何も芸がなければ悩むこともなかったであろう。俳句で一世を風靡した記憶があるだけに、その武器を取られたら「無」になってしまった。昌子は小倉のことを「悪縁の地」と呼んでいる。

   虚子ぎらひかな女嫌ひの単帯      (昭12)

 これは上に挙げた「張りとほす」と一緒に発表された句である。虚子ぎらいは分るにしてもかな女まで同列に挙げられた。長谷川かな女は夫の零余子が虚子に逆らって自分の句誌・結社を持ったときに夫と行動をともにしている。言うなれば謀反の同罪である。しかし零余子が世を去ってしまうとさっさと虚子と仲直りして上手くやっている。とても久女には出来ない芸当である。かな女は大人だからこの句が出たとき、

   呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉      (大9)   長谷川かな女

とやんわりと受け流したという話が、まことしやかに言われている。でも作年を見て頂ければ分る通り、かな女の句の方がはるかに先に出来ている。こんなことまで話題になってしまう、即ち伝説を作ってしまうのが久女だった。未だにその伝説の一部は伝説のままである。

 鷹女の稿で俳人十人に十句ずつを選ばせると、かなりばらけることを書いた。では久女の場合はどうかを探ってみると

   足袋つぐやノラともならず教師妻  9/10

   朝顔や濁り初めたる市の空       8

   紫陽花に秋冷いたる信濃かな      8

   谺して山ほととぎすほしいまま    8

   花衣ぬぐやまつはる紐いろいろ    8

   風に落つ楊貴妃桜房のまま       7

と七人以上が採った句が六句もある。皆が代表句と認めていることになるだろう。こんな作家も珍しいのではないだろうか。「無憂華の木陰はいづこ仏生会」「ぬかづけばわれも善女や仏生会」等も十分人口に膾炙しているが、選者としても十句と言われると困ったことだろう。やはり竹下しずの女が言うように天才だったのだろう。



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040717