句あれば楽あり ?

杉田久女論 (三)

至遊(しゆう)



   
紫陽花に秋冷いたる信濃かな  (大9)

 父親の埋骨のために松本を訪れた久女は、そこで病に倒れる。この句もその病中吟の一つである。前号の最初に挙げた「小菊の芽」同様、きっちりとした締まった句形だが、それに加えて大景を見事に捉えている。私の所属する「葦の会」にも長野の人が多数所属するので、結構頻繁に長野のどこかへ出かけて吟行をする。その時に気になるのが歳時記と実際の山国との季節の違いである。

 形から言えば「紫陽花」は夏、「秋冷」は当然秋だから季ずれの二語が入っている。でもこれが長野の実態であれば、そのようなルールは何の意味も持たない。紫陽花の咲くのも京都や東京より遅いかも知れないが、秋を感じさせる冷えが襲ってくるのは早い。地味な句なので、俳句を自身でやっている方でないと馴染みの薄い句かも知れないが、佳句である。序に言えばこの句も飯島晴子の開眼に寄与した句である。

   芋の如肥えて血うすき汝かな

 誰のことを言っているのかは知らない。俳句として格調が高いとも言えないし、余りにも自分の感情をストレートに出しすぎの嫌いがある。それでもこの句を取り上げたのは、久女らしい感情の起伏の大きさが出ていると感じたからである。私もどちらかというと兄弟の間では理詰めの性格である。だからよく「情」が薄いと非難される。だからこう久女に言われた「汝」に何となく同情する。この家庭環境では「汝」は夫宇内と解釈するのが一番筋が通るが、宇内の大正五年の写真があるが、決して太ってはいない。フィクションかも知れないがここで詮索しても仕方あるまい。

   病み痩せて帯の重さよ秋袷

 「肥えた汝」の次が痩せた自分である。長野で病を得てから東京でしばらく療養していたので、その頃の句かも知れない。離婚の話が出た頃ということになる。この気分も男には推定しかできない。まだ当時は和服が当たり前の時代だったらしく、少なくとも写真に写っている久女は和服姿である。江戸時代には陰暦四月になれば、即ち初夏になれば袷、六月には単衣、七月には帷子という風習があったという。秋には逆に単衣から袷に戻ったのかも知れないが、帯もそれなりに変えて行く。両方の重みは病身には重かったのだろう。

   個性(さが)まげて生くる道わかずホ句の秋

 単なる推定だが東京で療養し、離婚話も諦め大正十年に小倉へ戻った際の決意めいた句だと思う。自分は俳句がやりたい。むしろそれが唯一の自己主張の場であり、生き甲斐でもあった久女はこれを機会に開き直ったのではないかと思われる。十年には「夜明け前の手紙」という虚子宛の文をホトトギスに発表(掲載は十一年)しており、この一年ほど作句をして来なかったが、再び作句の喜びを感じた旨が書いてある。そして「足袋つぐや」の「ノラ」の句へと繋がっていくのである。

   上陸やわが夏足袋のうすよごれ

 この「上陸」とは松山での句会に出るときの、四国への上陸の意味だとどこかで読んだ。
その人は久女の足袋が汚れているのも貧乏しているせいだと書いていたが、私にはこのうす汚れが楽しげに感じられる。白い足袋で昔の舗装されていない道を行くと、どうしても薄くは汚れる。これが旅の実感を感じて嬉しそうなのである。夫との対立は依然続いていても、結構あちこちに出かけるようになる。

 続いて昭和四年〜十年の句を紹介する。

   春潮に流るる藻あり矢の如く

 何となく虚子の「流れ行く大根の葉の早さかな」を想い起こさせる。ただ何となくであり、一方は川、一方は海であり、また流れるものも大根の葉と藻という違いがある。だから本人は意識していないかも知れない。また「矢の如く」からは「光陰矢の如し」のフレーズが浮かんでくる。となるとこのフレーズは時の流れも同時に表していることになる。久女の文や俳論を読んでいても判るが、何しろ物識りである。学生時代の蓄積もあるだろうが、主婦業の傍ら寸暇を惜しんで学んだものと思われる。

   灌沐の浄法身を拝しける  (昭7)

   ぬかづけばわれも善女や仏生会  (昭7)

   無憂華の木陰はいづこ仏生会  (昭7)

 この頃から久女には連作ものらしいものが増えてくる。この仏生会もそうだし、次回取り上げる予定の楊貴妃桜も同じホトトギスの号の巻頭を飾っている。他に鶴を詠んだ句、菊枕の句、宇佐神宮の句などがある。一時キリスト教に帰依していたが、昭和に入ってからその縁を切る。これらは完全に仏教に関する句だが、いずれも自分に今無いものを求めたという感じがする。でも一時的にせよ落ち着いた心境になり得たことは、幸せなことだったであろう。我々もこの連作にはほっとする。中でも第二句の「ぬかづけば」はある意味では浄土宗的な念仏によって成仏できるという教えを凝縮したような句に出来上がっている。久女にとって「無憂樹」の木陰は見つからなかったかも知れないが、この最後の句は、久女の戒名「無憂院」に使われている。

   防人の妻恋ふ歌や磯菜摘む

 北九州に住めば魏志倭人伝や元寇やそしてこの防人が身近に感じられる。時間的には離れていても同じ場所で生活をした防人たちは、また多くの歌を万葉集に残しているだけに、より身近な存在に思える。やはり海岸の防衛のための防人だから磯菜でいいのであって、山菜を摘んだのでは意味をなさない。妻を恋う歌などを見ていると自分の夫とつい比べたくもなったであろう、などと何でもかんでも宇内に結びつけるのは良くないかも知れないが。



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040717