句あれば楽あり ?

杉田久女論 (一)

至遊(しゆう)


 才能に溢れ、周囲の環境は望む方には行かず、しかも自身古い面を抱えながら悩み苦しんだ一生ではなかったかと久女を総括する。

 久女は明治二十三年(1890)に鹿児島で生まれている。だから今まで取り上げてきた、4Tの約十年のお姉さんになる。父親は松本出身だが当時は鹿児島県庁に勤務する官吏だった。その後沖縄、台湾へと移り住み、台湾で可愛がっていた弟を亡くす。十三歳で小学校卒業と同時に上京、東京女子高等師範学校付属お茶の水高等女学校に入学する。この受験に合格したことが、台湾の教育レベルを示すものとして当時話題になったらしい。

 十六歳のときに父が内勤となり、宮内省・学習院の会計官となり十七歳で高等女学校卒業、そして十九歳で杉田宇内に嫁ぎ、一時宇内の故郷の愛知県西加茂郡小原村に住むが、上野美術学校(現在の芸大)西洋画科卒の宇内は、すぐ小倉中学校奉職のため小倉に居を移す。

 二十一歳で長女昌子出産、彼女が結果的に久女の死後、母親のために大活躍することになる。久女が俳句を始めたのは二十六歳(大正五年)と遅く、それも勘当同然で小倉まで流れてきた次兄の手解きによっている。翌年から「ホトトギス」台所雑詠に投句し、初めて俳句が載ることになる。翌年には雑詠欄にも顔を出す。

 大正八年には中村汀女を知り、文通を始め十年には江津湖に汀女を訪ねている。そして十一年には虚子が長崎への帰途、小倉で句会を開きその会場となったのが橋本多佳子の家であり、ここで虚子と多佳子を知る。多佳子はまだ俳句は始めていなかったが、これが縁で、久女が俳句の手解きをすることになる。

 昭和七年には句集発行の計画をし、虚子に序文の依頼をするが断られる。九年にも今度は上梓の準備をして再度依頼するも、また拒否される。虚子以外に序文を頼みたい相手の居なかった久女は、結局生涯句集を発行する機を逸してしまう。十一年には「ホトトギス」同人からの除名通告を受け、俳句は続けたものの発表の場はなく大戦後の昭和二十一年に大宰府の筑紫保養院で腎臓病が悪化して逝去されたとされる。

 ただここからが久女伝説が始まる。先ず何故「ホトトギス」を除名されなければならなかったのか。同時に除名された日野草城や吉岡禅寺洞にはそれなりの理由があった。虚子の主張に反した方向に行き始めたからである。しかし久女は生涯虚子を尊敬していた。虚子が決めた除名だが、虚子も生涯理由を語らなかった。だから本当のことは誰にも判らない。

 久女の死後、長女昌子は奔走してやっと虚子の序文をつけた久女句集を出すことになる。ただその序文で虚子は「(略)久女はホトトギス雑詠の投句家のうちでも群を抜いていた。生前一時その句集を刊行したいと言って私に序文を書けという要請があった。喜んでその需めに応ずべきであったが、その時分の久女さんの行動にやや不可解なものがあり、私はたやすくそれに応じなかった。この事は久女さんの心を焦立たせてその精神分裂の速度を早めたかと思われる節もないではなかったが、しかしながらわたしはその需めに応ずることをしなかった」と述べている。

 ここで「精神分裂」と書いたのが一人歩きを始める。久女狂気説である。亡くなった筑紫保養院には鉄格子のある部屋もあった。松本清張が「菊枕」という短編で、また吉屋信子が「私の見なかった人」で取り上げ、伝説は広まった。また虚子自身が「国子の手紙」というフィクションと断った小説で、実際には久女からの手紙を公開している。娘の石昌子さんと作家の田辺聖子さんはこれが作られた伝説であることを主張するが、どちらにも決定的な証拠はない。

 ただ当時のライバルであったやはり福岡の竹下しずの女の言葉がある。口伝の話だが「私は久女さんだけにはかなわない。あの人は天才だ。天才と狂人は紙一重というが、久女さんは狂人ではなく天才だ。精神病院で亡くなったので狂人のように言われ気の毒だ」と。

 久女はエッセイ、俳論から小説に至るまで多くの文を遺している。そこから少女時代のことまで判るのだが、小倉という西の果に住みながら宇内の故郷の愛知、父親の故郷の長野(松本)、母親の故郷の山陰の石出(関東大震災の後ここに戻っていたらしい)、そして虚子の住む鎌倉という遠距離の移動が大変だったようだ。

 久女は二人の男性に、その能力を十二分に発揮するチャンスを奪われたと言える。一人は夫の宇内。宇内は悪い人ではない。結婚したから妻子を食べさせて行く責任上、不安定な画家の道を歩まず、教師の道を選んだ。久女を含めた家族のための判断である。ただ久女の才能には無関心であったし、俳句や文を書くことさえ嫌った。女は家庭の中のことをやっていればいいという人生観の持ち主だった。逆に久女は芸術家の妻で居たかった。

   足袋つぐやノラともならず教師妻

という句が不満と同時に自分の限界まで描いている。「ダイヤを捨て、馬車を捨て、芸術家の夫に嫁したが、一枚の画も描かず、田舎教師に墜ちてしまった」と嘆いていたということが多佳子の文にある。

 教師なので4Tのように経済的にも恵まれてはいなかった。星野立子の「玉藻」に対抗するように「花衣」を発刊するがわずか五号で消える。経済的な理由ばかりではなかっただろう(かなり売れ行きは良かったらしい)が、少なくとも編集者を置けるような境遇ではなかった。久女は俳人ではあっても器用なビジネスウーマンではなかった。

 松本へ父親の遺骨を納めに行ったあと体調を崩し、しばらく東京で静養することとなる。その時宇内との離婚の話が持ち上がる。母親が見るに見かねてということのようだ。でも結局元の鞘に納まってしまう。子供の心配は勿論あっただろうが、この辺は「ノラ」になりきれない女だったのである。

 もう一人は虚子である。いかに「不可解」なものがあろうと、俳句そのものは褒めている。ならば句集を出すのに協力するのが普通の師である。その機会を奪っただけでなく、除名という措置で最後の約十年の俳人としての活動を出来なくしてしまった。こんなことがなければ「不可解」な行動は無かったかも知れない。「国子の手紙」は昭和九年に久女が書いた手紙に拠っている。この年は前述の通り、虚子に句集の発行を断念させられた年でもある。

 ホトトギスを除名されたからと言って、俳人としての活動が出来なくなるというのは理解できない方も多いかも知れない。事実当時すでに虚子に反旗を翻して水原秋桜子は「馬酔木」を創刊していたし、そこからも誘いはあったらしい。しかし久女は虚子に反旗は翻さなかった。せいぜい

   虚子ぎらひかな女嫌ひの単帯

という句を残した程度である。このあたりにも男に従うという古さが感じられる。

 虚子の動きを見ていると久女を疎ましく思ったことが何となく判る。もともと「ホトトギス」の中に台所雑詠という女性のための部分を確保したのは、現在の女性上位(少なくとも数の上では)の俳句界を見ると大きな功績だったと言える。しかし女流俳人が思った以上の力をつけてくる。それはそれで雑詠欄という男女の区別のないところで取り上げてはいるが、虚子の女性観にはやはり宇内に共通するところがあったのではなかろうか。

 立子は娘だから別格としても自己主張の強い女性は、虚子にとっては疎ましい存在だったようだ。汀女を可愛がり立子と親しくさせたのも、汀女が温和で何の毒も持っていない女性だったからだろう。多佳子は最初こそ「ホトトギス」にも投句したが、本気で俳句に取り組むようになってからは、反虚子の立場にあった誓子についている。鷹女は最初から虚子門には入っていない。久女は虚子門の中で一番虚子の女性像に合わない存在だったであろうと思われる。

 もう一つ気になるのは立子、汀女、多佳子その他生前に接したことのある人が、肝心なことになると「覚えていない」と口をつぐんでいることである。汀女は文通もしていたし、久女が熊本の汀女を訪れてもいるが、話の内容は覚えていないという。立子も一度久女の訪問を受け、そこで認めた短冊等も残っており、散歩もしている。にも関わらず話の内容は覚えていないという。多分冷淡なのではない。虚子の生きているうちは何も虚子の許しなしには言えなかったと感じられる。

 今回は俳句の鑑賞は全くしなかった。次回以降でそれをやりたい。




040706