句あれば楽あり ?

芥川龍之介の句 一

至遊(しゆう)




 芥川龍之介と言えばあの鋭そうな、そして神経質そうな写真しか見ない。確かにそんなところはあったであろう。では彼はどんな俳句を詠んでいたかというと二三の有名な句以外には殆んど知られていない。そこには彼なりのセンスは見られるが、何か今の我々に訴えてくるものに乏しい。漱石より四半世紀も後の人だから、もっと新しい句があってもいいという気がする。

 理由はいくつか見つかった。先ず龍之介は、俳句は全くの余技と考えていた節がある。万太郎が言う余技(隠し妻)という息抜きの場ではなく、単なる一般教養としての余技であったようだ。だから挨拶句がやたらと多い。挨拶句には説明がつくことが多いから、彼の場合も前書きの付く句が非常に多い。手紙のやりとりをする最後に「敬具」の代りに俳句を付けるような感覚ではなかろうか。

 もう一つ、漱石は子規とも虚子とも親しかった。龍之介が漱石一門に加わるのは漱石が没する前年のことであり、出世作の「鼻」を漱石が賞賛し、小説の世界では影響し合ったかも知れないが、俳句の世界ではすれ違いに近かっただろう。また虚子とも挨拶程度はしているようだが、親しく指導は受けていない。第一龍之介が俳句を始めたらしい大正6年というと、虚子は小説の世界から俳界に戻ってきたばかりであり、まだ今思われるような大勢力ではなかった。

 そこで龍之介の俳諧の師と言えるのは芭蕉だったらしい。それは「枯野抄」という芭蕉とその弟子を描いた小説を書いているということから、興味は持っていたことが窺えるからである(とは言え私自身その小説は手にしていない)。だからまだ江戸俳諧の世界である。ちらりと蕪村の影響も垣間見られる。

 ただやはり鋭い人だから、江戸俳諧の中だけで止まっていた訳ではない。ただどうしても題材が古めかしい。しかも俳諧のマナーとして身内のことは詠まないという不文律的なものがあったということで、例えば妻子や親などは殆んど顔を出さない。子供が比呂志、也寸志という男の子ばかりだったので、女の子が欲しいという一句だけ見つけた。それは次回以降で紹介することになろう。

   献上の刀試すや今朝の秋

 去来の句に「元日や家にゆずりの太刀帯かん」「秋風や白木の弓に弦張らん」という句があるが、それらを彷彿とさせる句である。献上という訳ではないが、戦後軍刀を差し出す前に叔父が庭の木を試し切りのように切っていたことを思い出す。明治にも廃刀令があった。それにちなんだ句かも知れない。刀の冷たく清い光と、朝の秋が程よく調和している。

   星月夜岡につゝ立つ武者一騎

 蕪村の「鳥羽殿へ五六騎いそぐ野分かな」を思い出してしまう。静と動の違いはあるが、ある緊迫した場面が窺える。勿論実景ではないから、何かの小説の題材としての想像であろう。

   木犀や侍町の宵の闇

 ひっそりとした侍町、その宵の闇だからなお更である。そのもの静かな環境と木犀とを合わせた。何となく風もなさそうである。だから木犀の香りはあたりに充満していそうである。今でなら余りにも予定調和の取れすぎた句で面白味に欠けると言われるだろう。しかし龍之介にとっては、その調和こそが大切だったのであり、翔んでいる取り合わせなんて殆んどない。

   蝙蝠やゆすりそこねて二朱一つ

 こんな題材の句は私としては評価できない。蝙蝠安に題材を得て、単に説明をしているに過ぎない。この辺は子規に「月並み俳句」とこき下された、江戸末期の俳諧の色を残しているような気がする。勿論多くの句の中からここに取り上げるのだから、このことが言いたくてこの句に生贄になって貰っただけで、類似の句は沢山ある。

   一痕の月に一羽の雁落ちぬ

 ドストエフスキーの「罪と罰」に感動しての作らしく「ドストフスキーが「罪と罰」中ラスコルニコフ、ナタシアを知る段殊に感を惹く」という長い前書きがついている。この前書きを取れば純日本的な美意識の句になる。これを見ても龍之介にとっては、俳句は日記代りの記録であることが窺える。前書きと独立させて句を一つの文芸作品として見るという姿勢は弱かったのかも知れない。

   藩札の藍の手ずれや雁の秋

 藩札が大正時代に残っていたかは知らないが、もし手許になくても題材にはできる人である。蕪村もそんな小説的な句を詠んでいるが、写生という子規の思想が行きわたる前の話だから、余計に龍之介には抵抗はなかった筈である。江戸末期から明治初期にかけて、財政に逼迫した各藩は藩札を乱発し、しかも半強制的に使わせたようだ。だから「藍の手ずれ」が起るような品質的には劣る藩札があってもおかしくはない。

   敲詩了芭蕉に雨を聴く夜あらむ

 芭蕉の初期の「芭蕉野分して盥に雨を聞く夜哉」を連想してしまう。「芭蕉に聞く」と「盥に聞く」とは違うし、芭蕉へのあこがれからか、「あらむ」という未来の願望に似た表現にはなっているが、やはりここまで発想が似てくると、創作とはいい難くなってしまう。

   帰らなんいざ草の庵は春の風

 漢詩「帰去来の辭」からの発想であろう。龍之介は「草の庵」を使った句を沢山詠んでいる。これも実景ではありえないであろう。頭の中での遊戯に過ぎない。架空の自分を作り上げているとしか思えない。勿論今の俳句にも「虚」はある。しかし豪邸に住んでいる人が「青テント村」に住んでいるような句は詠まない。せめて客観視した句になろう。

   薬煮るわれうそ寒き夜ごろ哉

 丈草の「うづくまる薬の下の寒さ哉」を連想させる。一方は自分のために自分で薬を煮ているのだろうし、丈草の方は死の床にある師の芭蕉のために薬を煮ているのだから、実際の状況はかなり違う。それでも連想はそこへ飛んでしまう。多分龍之介もそれは意識していたに違いない。漱石に蕪村に似た句が沢山あるように、「本歌取り」の一つと考えられていたのであろう。

 今日の稿ではあまり龍之介を褒めていない。殆んどけなしてばかりである。ただそれは私が今の俳句の価値観を主体に見ているからであって、述べたように江戸俳諧の流れを汲んだ者としては、ごく自然なことだったのかも知れないと思う。次回からは少しは悪口も出るが、格段に褒めることが多くなるだろう。


030907