句あれば楽あり ?

中村汀女論

至遊(しゆう)



 中村汀女は明治三十三年(ちょうど1900年)に熊本県で生まれている。星野立子より3歳年上ということになる。阿蘇の見える江津湖という湖の傍で育ったらしい。ここは後で述べる積りの杉田久女も訪ねている。裕福な家で育ち、熊本高女までの教育を受け、大蔵省の役人と結婚し、ご主人の税務署長時代にはあちこちに転居している。子供がある年齢に達した、汀女40歳の時からは、ご主人は単身赴任になり東京暮らしとなるが、当時としては恵まれた環境の中で一生を送ったと言っていいだろう。八十八歳(昭和六十三年)まで長生きし、亡くなったときには記念切手まで出ている。俳人としてテレビに出始めた人という印象も持っている人が多い。

 こういう環境のせいか比較的おっとりした句が多いように思う。文も沢山書いているが、それらについても激しい情熱というより、淡々と身の上話をしている感が強い。あまり突き詰めて考える必要のない生活だったせいか、俳句も日常の中で簡単に出来たような句も多く、名句と呼ばれるものとの落差が激しい。私などのように1句でもいいから名句と呼ばれるものが残せたらという願望を持つものにとっては、沢山詠めば何とかなるという感じで希望の星にも見える。ここではどちらかというと名句の方を取り上げることになるので、あまり悪口は書けない。どこまでも幸せな人である。

 娘さんの小川濤美子さんが選をされた中から、更に私の好きな句を拾う。順序が新年、冬、春、夏、秋という順になっていたので、本来は作句年順にしてみたいところだが、その順に従った。

   
つく羽子の音のつづきに居る如し

 いきなりだが汀女らしくない句と言われるものである。心象であり具体性はないが、自分の心に集中しているような句である。かなり後期の作と思うが、いわゆるただこと俳句、台所俳句と呼ばれたものからは完全に別の世界である。そこに新しさと危うさを同時に感じてしまうが、新春の句としてはこれを選んだ。

   
冬座敷ときどき阿蘇へ向ふ汽車

 江津湖畔に住んでいた頃の作ではなく、後年故郷を訪ねたときの句である。何も刺激的なものがない田舎の、だからこそ安心できるという思いが、虚子の優等生らしく写生の句として詠まれている。熊本から阿蘇を経由して大分へ向う豊肥線だろうが「ときどき」しか通らないからいい。

   
咳の子のなぞなぞあそびきりもなや

 汀女は母親として子を題材にした句を沢山残している。濤美子さん始め、子供としては嬉しいだろう。もう熱にうなされているでもなく、治りかけで元気も出てきたが、まだ外へ遊びに出す訳にもいかない。そんな折は母親だけが遊び相手になる。もう汀女自身はこの遊びに飽き飽きしながらも、ちゃんと付き合っている。そこに母親の愛情が感じられるので、大抵の人が好きな句として挙げる句である。もし汀女の句のベスト3を選べと言われれば、私もやはりこれを採ると思う。

   
日向ぼこ呼ばれて去ればそれきりに

   
鳰沈みわれも何かを失ひし

 この2句はまた最初の句同様、心象の勝った句である。「日向ぼこ」から呼ばれて、それきり戻って来なかったのは誰だろう。子供が親に呼ばれて家に帰ったとも取れるが、やはりこの場合は老人だろう。日向ぼこは老人に似合うし、そして「それきりに」なってしまうのも老人である。自分の周りの人が「それきりに」なってしまうということは、当時としては長生きの汀女から見ると、淋しい限りであった筈である。「鳰沈み」の方も、鳰が視界から去り、自分も「何かを」という曖昧な表現ながらそこに何でも当てはめられるという思いがある。これも老いを詠っている句であろう。

   
外にも出よ触るるばかりに春の月

 これもベスト3の中に入る句であり、かつ人口に膾炙している句である。「外(と)にも出よ」と家人か誰かに呼びかけているところが、他の人にも見せないでは勿体無いほどの月であるという興奮度を表し、まず読者を惹きつける。そしてこの「触るるばかり」の春の月はまだ昇りたてというかやっと屋根の高さくらいなので、まだ十分に大きい。しかも黄色味を帯びた暖かそうな月である。かなりの誇張はあるがそれが成功している例だと思う。

   
蟇歩く到りつく辺(へ)のある如く

 これをユーモラスな句と評した人もいる。だが私にはすぐ村上鬼城の「冬蜂の死にどころなく歩きけり」が浮んだ。この句はそれ程深刻ではないが、ただ蟇の歩みを単にユーモラスと取るか、何の目的もなくても歩き続けなければならない人生と重ねあわせるかによって、悲壮な句と取るかの大きな違いが出てくる。多分蟇には先は見えていない。

   
秋暑き汽車に必死の子守唄

 あまり評論家の句評には取り上げられていない句である。多分この子守唄を歌って必死で子供を寝かしつけようとしているのは汀女自身ではない。第三者として観察している雰囲気である。「必死の」という文字を入れたところが、周りも気にしながらの母親の姿が見えてくる。子供を育てる愛情を滲ませるのに成功した要因だろう。

   
あはれ子の夜寒の床の引けば寄る

 仙台に居たころの作だという。これももう1つのベスト3入りの句である。よく「咳の子の」と並べて評されることが多いが、「夜寒」というと晩秋なので、ここでは離れてしまった。最初のころこの句を誤解していた。「寄る」のは子供が暖かい母親の方に寄ってくるのだと思っていた。でも自解によれば隣に敷いてあった子供の布団が少し離れていたので引いてみたら、思ったより軽く、すっと手許に動かせた。そのことに胸がつまって涙がこぼれそうになった、というのである。そんなことに感動するのか?と思わないでもないが。

   
とどまればあたりにふゆる蜻蛉かな

 横浜三渓園での句であることが前書きから分る。比較的初期の句らしく、これも虚子の教えを守った写生句ではある。ただ本当は蜻蛉が増えたのではなく、止まって始めて蜻蛉の多さに気づいたのである。それを「増えた」と言い切ったところが成功だろう。

 ここまでは最初に述べた小川濤美子選の中から選んだが、いかに台所俳句と呼ばれようが

   
秋雨の瓦斯が飛びつく燐寸かな

という句は私の好きな句である。これは何故か小川濤美子選に入っていなかった。瓦斯に火をつける時には、確かに瓦斯の方から飛んでくるような趣がある。燐寸なんかだと途端に手を引っ込めたくなる。その様子が面白い表現で生き生きと描かれている。最近は自動点火とか、料亭での鍋物などには柄の長い点火用の器具(何と呼ぶのか知らない)が出てくるので実感し難いかも知れない。

 これに反し小川濤美子選の中に下記のような安易に詠んで成功していないと思われる句も少なくない。最初に「落差が激しい」と書いたのはそのことである。確かにどんな大家でも、例えば芭蕉でさえつまらない句も沢山残しているからそれを責めるのは酷かも知れない。ただそれが汀女の代表句として入ってくると、違和感も感じざるを得ない。

   
夏帯やわが娘きびしく育てつつ

 娘とは濤美子さんのことかも知れないが、自慢しただけで何の感興も湧いてこない。夏帯が「娘きびしく・・・」にどう唱和しているかも考え難い。娘さんとしては採りたかったのかも知れない。

   
三越を歩き呆けや花氷

   
雛市とまず伊勢丹が屋に描く

 確かにこの頃の三越、伊勢丹と言えば非日常の世界だったであろう。高級百貨店であればあるほど、固有名詞を使ったこれらの句は鼻についてくる。最後に悪口を持ってくると後味が悪いが、やはり好きな句を先に紹介したくなるので、ご理解のほどを。



040328