句あれば楽あり ?

中村汀女論 (三)

至遊(しゆう)


 前号ではどちらかというと、肉親を詠んだ句や台所俳句的なものを並べてみた。今回は一味違う、細やかな観察を主体にしたものを挙げる。自己主張の強い方ではないので、逆に観察を主体とし、しかもそんな汀女の性格が偲ばれるような、細かいところに気づいて詠んだものが多い。

   如何な日もひとりはさびし青芒

 鷹女は一生でも喋るなと言われれば出来ると書いていたが、汀女の場合は普通の奥さんである。特に子供が巣立ってからの一人は寂しいのは分る。俳句としては上出来だとは思わない。「如何な日も」という曖昧な表現があったり、青芒との取り合わせがいま一つピンと来ないからである。「青芒」は夏の季語だから寂しさが直接は伝わって来ない。だから自分で「さびし」と言わないと意が尽くせなくなってしまう。でも気持は分る。

   どこまでも話反れつつ梨甘し

 悪口を書きながらも前句を挙げたのはこの句とのつながりである。勿論、詠んだ時期は違うと思う。こちらは多分気の措けない俳句仲間か、近所の主婦かと一緒に梨を食べながら一生懸命に話し込んでいる。だから一人ではなく寂しくもない。「ちょっと話が」なんて言いながら来た人も、その本題からはどんどん離れて饒舌になって行く。お互いに大した用事でもなかったのだから、これでストレスの発散ができるというものである。どこの主婦にでもありそうな情景である。

   北風の奪へる声をつぎにけり

 ただ風が強かったりするといくらお喋りでも、相手に聞こえなかったりする。「えっ?」と聞きなおされたりするともう一度大声で説明しなければならない。それを「北風の奪へる声」としたところが流石である。しばらく話していると身体は冷え、声は嗄れるだろう。それでも立ち話は止められないのである。

   春潮のまぶしさ飽かずまぶしめる

 春、明るさが増すと海の色もまぶしいくらいになる。そのまぶしい潮流を海辺に立って飽かずに眺めているという、むしろそのまぶしさを楽しんでいる風景である。内容は大したことはないが、「まぶしめる」なんて言葉を使えるところが我々とは違うレベルの人なのである。我々が下手にこんな句を詠むと「まぶし」が二つもあって勿体無いと言われ兼ねない。

   落椿歩み寄る辺もなかりけり

 いつか佐倉の武家屋敷で同じような情景に出会った。椿は花ごと落ちるので、落ちるときの空気の抵抗の関係だと思うが、すべてが花弁を上に向けて整然と木の周りに落ちていた。あの赤さは踏めない。せいぜい少し拾い上げて観察してみる程度である。だから汀女が歩み寄るスペースもなかったというのは実感として分る。

   白木蓮の散るべく風にさからへる

 本当はそうではない、と言いたいところだが、このように見たと言うのは常人には仲々できないことだろう。白木蓮があの大振りな花びらを散らせるために風に逆らっているように取れる。散る運命だからわざと風に逆らっている訳ではなく、風さえ吹けばどの方向から吹いても花びらはそれに靡く。白木蓮にまるで意思があるように表現したのが成功であろう。ちなみに私は木蓮の花の散る瞬間をまだ見たことがない。いつの間にか散っている。張り込んで居れば見られるだろうが。

   梅干して人は日陰にかくれけり

 梅を干すのは夏である。だから暑い。梅はそれで乾くからいいが、人はそれには付き合っては居られない。また付き合う必要もない。でも何だかこの表現だと梅の実を暑いところに置いて、自分は涼しいところに隠れて楽をしているという、非難めいた語り口になっている。そこがこの句の眼目なんだろう。そうでなくて単に事実を述べただけだとすると、多佳子の「炎天の梯子昏きにかつぎ入る」を思わせる句になってしまう。絶対にこの句は人を皮肉な眼でみているとしか思えない。

   翡翠が掠めし水のみだれのみ

 最近で言えば小石川後楽園で翡翠を見た。翡翠が小魚か何かを捕らえるのに成功したかどうかは分らないが、ともかく眼にも留まらぬ速さで水面を掠めて飛び去った。それ以外には池を騒がせる風もなく、波ひとつ立っていない。翡翠が残した跡だけがしばらく残ったという句意だろう。このような瞬間を捉えるのは俳句の本来の姿であろう。切れがどこかなんて一生懸命探す必要はなかろう。

   時雨るや酒場の灯影の反きあひ

 良妻賢母というタイプの汀女が酒場(と言っても酒場の中ではないが)を詠んでいるのは珍しいから挙げた。バー、クラブ、スナック等々酒場が固まっている町であろう。面白いもので酒場は一軒あっても流行らない。隣近所も同じ雰囲気を醸し出してくれないと、飲みにくる人の側としては面白くない。こちらが一杯なら隣でという融通も効く。そうは言っても経営者としては、来た客は捕まえたいだろう。だからネオンや派手な看板で誘うのだが、それらが経営者の代りに張り合ってくれている。「反(そむ)きあひ」はそんな意味に取った。

 汀女の俳句は観察に基づく俳句であり、何かをそれで訴えようという意図は殆んど感じられない。風景にしても心の動きにしてもその詠み方は、どこにも敵を作らない詠み方である。そこが一種不満でもあり、パンチ力に欠ける恨みはある。しかしこれが俳句の本道であり、基礎だろう。今回採り上げた句は他では殆んど批評に晒されていない。だからそれ程知られてもいない。多分余程の汀女ファンでないと初めての句が多いだろう。有名な句がすなわち佳句とは限らないので、その積りで読んで頂ければ幸いである。




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040901