句あれば楽あり ?

三橋鷹女論 (四)

至遊(しゆう)



 「羊歯地獄」は昭和三十六年の発行だから、「白骨」との間に約十年の間隔がある。この間に富沢赤黄男と「薔薇」同人として接触し、その発展的解消とともにできた「俳句評論」にも参加する。ただ赤黄男もそして鷹女本人もこのあたりから健康を害してくる。鷹女は一時「俳句評論」を退会するが、後請われてまた顧問となって入る。この頃の戦友が高柳重信であり、中村苑子であった筈である。

   芒野に呵々大笑すさみしきか

 何の面白みも無い薄野に向かって呵々大笑するというのは何事か。自分でも可笑しくなったのかも知れない。「さみしきか」と自問する形に終っている。勿論周りには誰もいない。やはり淋しいだろう。昨年箱根で白く枯れた薄野を見た。美しくもあったが一瞬ぞっとするような死の世界だった。最初は驚きそして黙った。呵々大笑はできなかった。

   葉牡丹の渦のまんなか我が一生

 「葉牡丹の渦の真ん中」と言えばやはり葉だろう。でもその真ん中がその葉牡丹の中心であると同時に、周りがなければ美しくも何ともない。自分の一生をどう表したかったかは正直読みきれない。読者が自分の体験や考え方に照らして自由に解釈するしかないだろう。

   秋の蝶です いっぽんの留針です  (S28)

 他にもこのような「分かち書き」の句がいくつか顔を出す。間違ってスペースを入れてしまったのではなく、作者の意図に沿ってそうなっている。これは明らかに高柳重信の影響である。重信は大体息子と同じ世代であるが、その理論や新しいものをすぐ吸収する柔軟さはあったようだ。もっともこれも長続きはしていないようだ。これで明らかに作者の意図通りに読者は切って読んでくれる。特にこの句は完全に二句一章立てになっている。蝶と留め針をどう関係させるか、読者の感性も問われるところだろう。

   十方にこがらし女身錐揉に

 八方という言葉はよく使う。それが十方となればもっと多方面だろう。鷹女の性格からすると何かと叩かれても不思議ではない。少し世の中の常識に反発するようなところがあるからである。周りから責めさいなまれて自分が錐揉状態に小突き回されているということも度々感じただろう。鷹女の勲章かも知れない。

   縋るものなし寒風に取り縋る

 というような八方どころか十方敵だらけでは、頼るものがない。喩え寒風と言えども敵よりは冷たくないかも知れない。実際には鷹女は何にも、ご主人以外の誰にも縋る気持はなかったのではないかとさえ思わせる。それ程の孤独である。寒風に縋ってみせたのも単にゼスチャアかも知れない。それとも表面は強くても内面ではやはり縋りたかったのか?

   枯蔦となり一木を捕縛せり  (S29)

 何となく勝利宣言に聞こえる。すなわち枯蔦が鷹女であり、一木は誰か。その縋りたかった人であろう。ご主人はすでに捕縛しなくても傍に居てくれる存在なので、重信あたりが新たに捕縛されたのかも知れない。

   狂ひても女 茅花を髪に挿し

 捕縛した筈の重信に捕縛されたのか、またしても分かち書きである。ただこの場合は前後の繋がりは明白である。ここで読むときに一息入れてくれよ、という書き方である。これは実景ではないと思う。自分がもし狂ってもという想像の産物ではないかと思う。いつも弱点を見せない鷹女らしいというか、だから悲しくなるとも言える。

   満開の切なき辛夷蒼味帯ぶ

 辛夷はその満開の頃には葉も出始める。その緑が白に映って本当に蒼くみえる。白ならそれなりの華やかさがある。そこに蒼味が加わると華やかさは失せる。折角満開なのにその暗さである。人間も働き盛りという時にはもう落ち目の道を歩んでいるのかも知れない。鷹女は老いを気にして来ただけに、すぐに華やかさを失う辛夷がわが身に見えたのではなかろうか。

   何者か来て驚けと巻貝ころがる

 巻貝は転がっているだけである。でもこんなところに何故?と誰かに驚いてもらいたがっているように鷹女には見えた。だからその巻貝は少なくとも鷹女を驚かすには成功した。俳句ではよくあるが、自分でいい句だと思ったのが評価して貰えなかったり、逆に簡単に詠んだ句が高い評価を得たり思いがけないことが起こる。だから一々そんなことには驚かない修行は出来ている。だから俳句を他人の目の前に転がしてみるだけである。

   永く憩う一湾越ゆる揚羽にて

 今から大仕事が控えている。だからその前に英気を養わなければならない。句集を一つ出すのも大変な作業であることを、先生の句集発行のお手伝いをしていて実感した。作業は何でもいい。ここではわが身を揚羽に置き換えてみだけである。でも本当のところ何かをしようとする時は長くは憩えない。「しよう」と思った時から仕事に入っているからである。

   頭上一箇の木瓜の実に犬考へる

 これも面白い。ユーモラスな風景である。多分犬は木瓜の実の近くに行ってちょっと首を傾げてみせただけだろう。考えたからと言って犬に何かいい考えが浮かぶ筈は無い。「下手の考え休むに似たり」で、人間も考えても仕方ないことを時々考える。もしかしたら俳句を嗜まない人から見ると、俳句を詠むこと自体がそう見えるかも知れないが。

   雪をよぶ 片身の白き生き鰈  (S35)

   炎ゆる間がいのち 女と唐辛子

 またしても分かち書き。鰈の片身は確かに白い。そこから「雪を呼ぶ」という発想になるところが常人ではない。詠んだ後になると、白と白の取り合わせだから付きすぎではないか等と何とでも言えるが、この翔び具合が今風である。また「女と唐辛子」を同列に扱ったのもいい。これが男が詠んだ句なら女は「馬鹿にするな」といきり立てる。多分この頃は鷹女は還暦を過ぎている。この若々しさは何処から来るのだろうか。

   梅干してをんなの生身酸っぱくなる

 梅を干したからと言って干した女の体が酸っぱくなる筈は無いが、ないからいいので、もし本当なら単なる説明になってしまう。でも何となく酸っぱくなりそうな気がするから不思議である。

   墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み  (S35)

 最後の分かち書きである。これも意味の上では分れていない。「股挟み」というと何となく下品に聞こえるが、単に軽く開いた足の間に夕日が落ちていく様に他ならない。大きな景を詠んだ句は沢山あるが、夕日を股で挟むなどという人間が関わった大きさは少ない。やはり「股の間」だと人間の行動にはならないし、挟むことがこの中では必然だったのだろう。





040620