句あれば楽あり ?

三橋鷹女論 (三)

至遊(しゆう)


 多分鷹女の代表的な句集と言えばここで取り上げる「白骨」と次の「羊歯地獄」になるだろう。「白骨」は前回も述べたように、昭和二十七年に出され、昭和十六年からの俳句が収められているという。だから作年の分らないものは戦後の句かどうか何とも言えないが、あまりそれに拘らずとも読めそうである。

   子を恋へり夏夜獣の如く醒め

 少なくとも戦中の作だろう。長男陽一の出生が大正十一年で同じ年に関東大震災で被災している。肉親や母親の情を詠んだ句もいくつか見えるが、他の人の句のように甘さは感じられない。この句がどんな状態で詠まれているかは分らないが「子を恋う」以上は傍には居ない。だから陽一出征中の作と推定される。母親の情を「獣の如く」と言い切ったところに並でない本能的な情を露に見せる。

   古里に母を置き捨て黍嵐

 十七年に三橋姓を名乗ることになるが、だからと言って成田に戻った訳ではない。震災の翌年には夫は歯科医院を東京で開業しているからである。だから結果としては、母親を成田に残して生活している。父親はすでに他界していた筈なので、兄が死んだその昭和十七年の後に詠まれたものだろう。ここにも甘さはない。半ば自分を責めてはいるが、地方の名士だっただけに成田の家も引き払うことは簡単にはできなかったのだろう。そのお母さんは昭和三十二年までご存命だった。その前には成田の家は処分しているので母親を引き取ったのだと思う。

   藷粥や一家といへど唯二人

 藷粥だから戦後の食糧難の頃だろう。医者とはいえ当時の農家には勝てなかった。終戦の年で鷹女も四十六歳になっている。長男陽一は昭和二十一年の復員である。陽一以外には子供に関する記録が見えないので、もし一人っ子だったとしたら、それまでは夫婦二人だけの生活だったと思われる。今でこそこんな家族は珍しくないが、当時としては例外的だったのだろう。ここにも母親を引き取っていない影が見える。実際には成田の方が東京より暮らし易かったかも知れないが。

   帯売ると来て炎天をかなしめり

 いわゆるたけのこ生活の一こまであろう。食糧を得るために思い出のある帯を売る決意をし、炎天下に農家を訪ねて来たのに、思い切り買い叩かれ気落ちした様子が見える。やはり医者でもそうだったんだ、と変にほっとする。

   うちかけを被て冬の蛾は飛べませぬ  (S22)

 うちかけは売れなかったのか、それともどうしても売りたくなかったのか、でもそのうちかけだけではどうにもならないことを知っている。もしかするとこれがうちかけを売る決意をした瞬間だったのかも知れない。これを契機に自分は飛ぶんだと言わんばかりの決意である。

   赤まんま墓累々と焼けのこり

 終戦後か空襲時か、家が焼かれた跡にはやたらと墓が目立つ。勿論墓石は焼けないからだが、生の世界を死の世界が占領したような雰囲気になったものだろう。ここまでは戦中戦後の世相を詠んだ句を並べてみたが、以下は鷹女の個人的な境涯や心の動きを詠んだ句を並べてみる。

   緑陰にわれや一人の友もなく

 最初に書いたように本当にそうだったかも知れない。一時的に師や友と呼べる人は居ても、長続きしない性格だったため、その切れ目には一人の友も居ないことを実感せざるを得ない時期があっただろう。俳人としてはそれで独自の句境を得られたかも知れないが、やはり人生としては愉しみの薄い生活ではなかったろうか。

   蓑虫の相逢う日なし二つゐて

 二つとは自分と夫か。一緒に過ごしていてもこの頃になると俳句観もかなり違っていただろうし、句力にも差があったと思われる。ただし夫は何と言っても最大のスポンサーである。だから夫との行動はよく共にしたようであり、特に仲が悪かったらしい話はない。でも何となく心のすれ違いのようなものは感じていたのだろう。

   猫柳女の一生野火のごと

 また激しい句である。野火のように燃え拡がる意味なのか、消えないでくすぶっている意味なのか分らないが、この気合から行くと「燃え拡がる」方だろう。激しい性格だけにどこまで燃え拡がるか自分でもコントロールできなかっただろう。

   鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし

 この句が唯一私が以前から知っていた鷹女の句である。その意味では代表句と言えるかも知れない。しかし多くの句を目にした今では、これが代表句だとはとても言えない。有島武郎の「惜しみなく愛は奪う」にヒントを得て詠んだ句ということは明らかだし、その頭で考えただけの句が言葉とは裏腹に迫力を減退させている。ちなみに十人の俳人が鷹女の句から十句ずつを選んだ試みでは、この句は四人が採ったに過ぎない。

   白露や死んでゆく日も帯締めて  (S25)

 和服で通すことが多かったのは事実のようだ。この句が詠まれたのが作成年から逆算すると五十一歳のときで、きりっとした眼光鋭い人ということだったので、この時点では本当にそう望んでいたのだろう。実際には七十三歳で亡くなっているので、この後二十年余りも残してこんな句を詠んでいる。流石に手術を経て亡くなっているので、この願望は果たせなかったようだ。ちなみにこの句を選んだ人は十人中七人いる。

   老いながら椿となって踊りけり  (S25)

 老いても椿のように鮮やかなお洒落をしていたいということだろうか。自分の随筆にも、自分は年を考えて着る物を選んだりはしない、と書いている。段々年をとってからが派手な格好をする人も増えてきたが、昔は年相応という考え方があった。鷹女は年相応は嫌なのである。だからと言って老いていることを否定している訳ではない。むしろ老いにはすごく敏感に反応していると言える。

   燕来て夫の句下手知れわたる

 まあよくこんな句を発表したものだと思う。発表させたご主人も偉い。確かに鷹女と違って有名な句を残している訳ではない。それにしてもプライドもあるだろう。今なら名誉毀損になりかねない句である。裏には喩えご主人と言えども俳句の世界では自己主張を通した、通しえたという鷹女の性格と生活環境があったのだろう。

   死にがたし生き耐へがたし晩夏光

 老いを怖がっていたのだから死も怖いだろう。でも生きるのも大変なのであり、これは今でも変らない。鷹女の場合は経済的には問題なかった筈なので、「生き耐える」必要があったとすれば、俳句という土俵の上での闘いだろう。一時十五年ほど発表の機会を無くすことになるが、それはもっと後年の話である。でもあちこちとぶっつかる性格では生き難かったことも事実だろう。

   月見草はらりと地球うらがへる  (S24)

 同じ年に「天地のあひびき長し月見草」という句も詠んでいる。月見草は初夏の花なので日暮れを遅く感じる時期である。その間を「あひびき」としたような気がする。もう月が出番を待っているのに、と言いたげである。でも掲句も結構難しい。「地球が裏返る」とはどんなことか。私の解釈では夜になったことが、ちょうど裏返しになったと感じたのではないかと思う。とすると「はらりと」という程簡単・軽やかではないかも知れないが、それ以外には考えが及ばなかった。




040606