句あれば楽あり ?

三橋鷹女論 (一)

至遊(しゆう)


 鷹女が他の4人と全く異なるところは「ホトトギス」ひいては虚子との関係である。虚子が神様のような時代であったにも関わらず、全くと言っていいほど独立の道を歩んでいる。それは鷹女の性格にもよるだろうが、俳句の手解きを受けたご主人の影響が大きいだろう。それだけ自由奔放に俳句が詠めた。今の我々が見てもはっとするような感覚がある。しかし反面それらはあまり人口に膾炙されていない。やはり「ホトトギス」全盛の頃にそこに発表の場を持たなかったことは、そのような面ではマイナスに作用している。

 鷹女は成田で新勝寺の重役、かつ成田市助役という地元の名士の家に明治三十二年(1899)に生まれている。星野立子、中村汀女、橋本多佳子と同世代である。医者の東謙三と結婚し、大正末から東文恵、東鷹女として俳句を発表してきた。鷹女となったのが俳句を始めてから約十年後、ここから鷹女の孤独な歩みが始まっている。のち実家の跡取りが居なくなったので、夫ともども三橋姓を名乗ることになった。

 実家も裕福であり、結婚後も夫が医者であり経済的には困った形跡はない。また夫とともに俳句をやってきたこともあり、環境に邪魔されたということもない。それなのに鷹女の句はお嬢様芸とは対極にある。これは多分に本人の性格によるとしか考えられない。事件と言えば関東大震災で家を潰され、生まれて間もない長男陽一を抱いてしばらく家の下敷きになっていたこと位だろう。これとて、この事件が「死」を多く詠んだ原因とは考え難い。「老い」の延長線上にある死を意識しているというのが妥当だろう。

 夫謙三(俳号剣三)の手解きで俳句に手を染めるまでは、実兄が与謝野晶子・若山牧水に師事していたことから短歌の影響が大きかった。俳句の世界ではその有名度の割には仲間が少なかった。最初原石鼎の「鹿火屋」に所属して指導を受けるが、間もなく去る。その後名前の出てくるのは富沢赤黄男・高柳重信・永田耕衣ぐらいである。それも各々長く付き合った人は居ない。

 一番長かった相棒と言えば、夫剣三だろうが

   燕来て夫の句下手知れわたる

などという句も発表している。手の付けられない女性というタイプだったであろう。自分がある人の影響を受けること自体が我慢できない人だったらしい(重信)。一時親しくても、我慢して人間関係を保って行くというタイプではなかった。それが住む世界を狭くして行った嫌いがあり、発表の場を一時なくしたという原因になっている。

 重信が鷹女は余り文は書かなかったと書いているが、数少ない文を見ると機知に富んだ面白い短文で溢れている。ここで紹介する余裕はないが、そこにも勝気さは表れていると同時にすばらしいセンスを持った女性だったと言える。一部だけを挙げると「(前略)結局私は大の我儘者なのである。そこで私といふ何の変哲もない人間から我儘を取り除いてしまったらいったいあとに何が残るといふのだろう。さう思ふと自分は自分の我儘を守り育ててゆく自分でしかないことをおもふさみしさに住まなければならない私なのである。」という風である。

 鷹女の俳句の上での特質は、その新しさが年齢を重ねても変っていないことである。だから俳句自体からいつごろの作かを推定できにくい人である。いくつかの特徴はある。話し言葉的な俳句、「べし」を多用した俳句、死や老いを早くから意識した俳句等である。どんな順で鷹女を紹介するのが適切か迷っている。例えば

   昭11 この樹登らば鬼女となるべし夕紅葉

   昭25 白露や死んでゆく日も帯締めて

   昭25 老いながら椿となって踊りけり

   昭35 墜ちてゆく 炎ゆる夕日を股挟み

   昭46 藤垂れてこの世のものの老婆佇つ

のように同じ系統の句を時代を超えて並べて見るのも面白い人だからである。それでも戦前、戦中の句とその後の句を分けて見る価値はあるだろう。やはり年代順に追ってみる。従って上に述べた句ももう一度登場することになる。

 もう一つ付記しておくべきは、こんな状態だから鷹女のことを書いた人が非常に少ないことである。私の持っている鷹女名句選の選句は息子陽一ではなく、先日他界した中村苑子が行なっている。「俳句評論」での重信との付き合いの中で苑子とも当然顔を合わせることになったであろう。鷹女が没してから書かれた文章は、大抵数回しか逢っていないという人たちによっている。当然信頼度は低くなる。第二稿からは内容に関しては、重信の記述に私の所感を加えながら書いていく。



040523