句あれば楽あり ?

飯田龍太の俳句(1)

至遊(しゆう)



 先日、飯田龍太がこの世を去った。1920年生れで2007年まで生き生きと生きたのだから、天寿を全うしたと言っていいだろう。ありし日の写真はいい顔をしていた。理知的で穏やかで、人間このように年を取らなければという理想の顔だった。私とは傾向は違うとはいえ、生前から好きな句と聞かれればいくつかは諳んじていた。

 飯田蛇笏という偉大な父の下で育ち、多分かなりのプレッシャーもあったと思われるが、父同様の功績を残したことは立派というしかない。平成4年には主宰誌の「雲母」の終刊を宣言し、後進の活躍の場を広げたことも立派だったと言える。

 山梨県に生れて育ち、そして生涯そこを本拠地として過ごしたが、ある意味では狭い世界で過ごしたとも言える。しかし恵まれた自然の中で、その中の部分として人間を見るという純度の高い句を多く詠んだ。何と言っても欲がないところが、人間的な清々しさを感じさせる。先ず初期の句から

春の鳶寄りわかれては高みつつ

 昭和二十三年の作。先日1月末に私も同じような光景を、真鶴半島で見た。その高みに昇って行く様が、まるで昼の月を食べに行っているような感じだったので、そのように詠んだが「白月」としたのが失敗で、白月とは仲秋の名月のことだと教えられた。鳶が輪を描きながら、昇って行くとき、他の鳶とすれ違うことがある。実際には高さに差があり、ニアミスではないだろうが、地上から見ているとそれ程の高度の差は感じない。

夏火鉢つめたくふれてゐたりけり

同じく昭和二十三年の作。夏、火鉢が出ているということ自体、山梨の境川らしい。大きな火鉢が想像される。蛇笏の四男として生れているが、二人の兄の生死が分からない時に詠んだものらしい。秋になると長兄のレイテ島での戦死の報が来る。戦前は多くの者で囲んでいた火鉢に、今寂しく触れている。我々だと「夏」と「つめたく」は季ずれではないかと気にするところだが、そんな句は山ほどある。詩として成り立てばいいのだろう。

野に住めば流人のおもひ初つばめ

昭和二十四年作。田舎に住んでいればその思いも分かる。大学は國學院を出ているだけに、東京の賑やかさも分かるので、その思いは余計に強いだろう。飛んで来た燕は、少しでもそれを紛らせてくれる友達のようなものである。

紺絣春月重く出でしかな

 昭和二十六年の作。この句を読むと中村汀女の「外にも出よ触るるばかりに春の月」や石田波郷の「夜桜やうらわかき月本郷に」が思い出される。いずれも春の月である。紺絣が田舎を思わせるので、この月は山から昇って来た月だろうというところが、街中で詠まれたらしい他の2句とは趣が違っている。やはり皆、春の月には秋の月と違う体温を感じているらしい。

露の村墓域とおもふばかりなり

 同じ年の秋の作。露が降りる頃になってくると、自然も休息期に入ってくる。「山粧う」時期から「山眠る」時期に移って行く。普段でも寂しい風景が、ますます寂しさを増す。そこを村全体が「墓域」と詠んだのである。まだ田舎の生活に馴染んでいない、従って毎年繰り返されるこの風景に、人恋しさを感じてしまうのだろう。

梅雨の川こころ置くべき場とてなし

 昭和二十七年の作。詳細には知らないが、前にも書いたように龍太氏の住んだ村を流れる川は、笛吹川と紹介されることが多いが、どうももっと上流で多くの小川が集まり、笛吹川となる境目あたりらしい。山地の川だから急流だろう。殊に梅雨の時期ともなれば、恐ろしい程の音も立てて流れているだろう。とても風雅の味を噛み締めるような場所ではない。

春すでに高嶺未婚のつばくらめ

 昭和二十八年の作。この句は「テーマ別俳句 春」の稿で紹介した。世評が高い割には、それ程好きな句ではない。むしろ同じ年に詠まれた

いきいきと三月生る雲の奥

 の方に春の喜びを感ずる。でもまだ春は「雲の奥」であり、「雲の奥」には確かにその気配は伺えるが、暖かいという程でもない。山の春は遅いが、だからこそ待ち遠しいのであろう。

大寒の一戸もかくれなき故郷

 昭和二十九年の作。名句である。上の春の句と比較すればその渺々とした淋しさが際立ってくる。大寒の寒風の中に、遮ってくれる林さえ葉を落としてしまって、すべての家々が露になっている。そこが龍太の故郷の境川なのである。冬の厳しさや忍耐を強いられる自然を言いながら、しかし村全体が平等にそれに耐えている。何となく共同体の紐帯の強さもここで表わしているような気がする。

以上



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070528