句あれば楽あり ?

飯田龍太の俳句 (二)

至遊(しゆう)



  極暑の夜父と隔たる広襖

 昭和30年の作。父は勿論飯田蛇笏。蛇笏との個人的な人間関係は知らない。龍太没に当っての各種特集が組まれたが、そのことには余り触れられていない。ただ高名な父親だけに、しかも戦時中から「雲母」に投句して、すでに父親の後を歩んでいた龍太だけに、単なる父親ではなく、師匠でもあった訳で、通常の親子とは違った関係だったであろうことは容易に推定できる。そこに「父と隔たる広襖」という距離を感じざるを得なかったのだろう。龍太は若い時に右肋骨カリエスを患い、手術している。長兄は戦争で亡くなり、自分は「雲母」を継ぐ運命にあることを悟っていたことであろう。

  ぼうふら愉し沖に汽船の永睡り

昭和32年の作。ぼうふらは動いている。沖の船は動いていない。その比較で、ぼうふらの方が愉しんでいると感じたのであろう。確かにあのぼうふらの一種滑稽な動きは、喜びを表現しているようにも見える。この小さな生き物と、巨大な建造物の対比が何となく面白い。

  山碧し花桃風を染むばかり

昭和33年の作。山梨と言えば桃の産地でもある。私たちも吟行で行ったことがあるが、その年は花が早く、計画した時点では、かなりの高地にしか咲いていなかった。だから風を染めるという程でもなかったが、やはり桃の花は華やかである。その畑の中に居る限りは、周囲は全部桃の花という状況を満喫できた。もう少し花が遅いか、我々が早ければ、この龍太の句と同じ雰囲気が感じられたことだろう。

  雪山のどこも動かず花にほふ

 昭和34年作。この花は断りがないから桜だろう。雪山は依然として雪を湛えたままであるが、下界の季節はそれとは別に動いている。桜は本来あまり香りは強くない。その花の匂いを感じる程だから、余程、周囲には何もない、すなわち邪魔するものが何も無いのであろう。この花はソメイヨシノではなく山桜のような気がする。

  鳴く鳥の姿見えざる露の空

 昭和37年作。父の蛇笏が亡くなっている。秋の蛇笏、春の龍太と言う言葉があったが、亡くなる季節もそうである。隔たっていたとはいえ、師匠でもある蛇笏の声が聞けなくなった、姿も見えなくなったということは、心の中に空洞が出来たような寂しさがあったであろう。露の命とも言うが、その無常観を「露の空」で表わしている。

  落葉踏む足音いづこにもあらず

 昭和40年作。この年に母親も逝去された。父親もよく散歩をされていたというが、お母さんは散歩というより仕事だろうか。この両方ともなくした時の感じはどうだろうか。私の両親も長生きはしたが、すでに故人。ただ龍太と違うのは、私は故郷を離れており、父母ともずっと離れて住んでいた。龍太の場合は両親の息遣いの聞こえる場所に居たし、今も居るのである。多分その方が父母の生前の姿が、景色をバックにありありと浮かぶことだろう。懐かしいと同時に辛いであろう。喜哀の心の振幅が大きいと言える。

  父母の亡き裏口開いて枯木山

 昭和41年作。裏口が開いている。何となくそこから父親か母親が帰って来そうな気配さえ見せる。ただ見れば枯木山が見えるだけである。その裏口への期待感と同時に、本来なら風除けのための裏戸を閉めに行くべきなのだが、その気も起こらないという虚脱感もある。




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0500522