句あれば楽あり ?

八田木枯という人

至遊(しゆう)



 正直この人の名は今まで全く知らなかった。「俳句」十一月号で、この人の句評を読んでいてこんな人が居たかと改めて驚いた。この評は二ヶ月前の出句に対する評なので、早速九月号を引っ張り出して眼を通してみた。

 感心したとしても、私自身がこの種の句を今後詠むだろうという意識はあまりない。ただ自分の俳句との違いに驚いているところである。九月号には八句載っているが、そのうち自分で感心したものを拾ってみたい。

   正体の無くなるまでに桃冷えし

 桃を冷やして、冷えきった状態を「正体の無くなるまでに」なんてとても言えない。人について使えば、正体無く酔ったような状態に使うだろうが、何しろ相手は桃である。感覚が無くなる程までに、という積りで詠まれたのではないかと思う。

   むらさきにちかきくれなゐ鶴の疵

 疵を負った鶴を見たことがないので、何とも言えないが、多分血がまだ疵にこびりついているのだろう。その描写が客観写生の真髄のように、よく見て表現したとしか言いようのない細かさである。ここからは鶴に対する思いやりではなく、その観察、そして美しさに酔いしれている作者が伺える。この色の描写が高貴であり、そこにまた鶴という日本の高貴な鳥の代表のようなものを取り合わせた。

   はったいは不承不承とこぼれけり

 「はったい」とは「米または麦の新穀を炒って焦がし粉にしたもので、砂糖を加えたり、水や湯で練ったりして食べる」もので、いわゆる「麦こがし」である。これが夏の季語にもなっている。こちらがこぼしたくなくてもこぼれる種類の菓子は沢山ある。それを「はったい」の方が不承不承だというのだから面白い。確かにこぼれたくてこぼれている訳ではあるまい。引力のせいである。

   おほぞらをひろくこなして盆の月

 盆の月となるとこれほど大らかには詠み難い。この「こなして」は多分「使いこなして」の意だと思うが、大空の隅から隅まで使いこなしているという表現から、晴れ渡っていることが分る。そして月が空を使い慣れている様子が「こなして」から伝わってくる。「こなして」の代わりに「使ひて」ではやはり月の格が一つ落ちる。

   それらしく老いて佃に踊りけり

 読み手は「それらしく」をいか様にも想像できる。自分になぞらえることも出来るし、若い人なら両親や祖父母を思えばいいだろう。決して暗い老いではない。何故なら佃祭りで踊っているからである。そこに多分踊りと人生の味を見出しているのだろう。

   盆唄はゆるく節目のささくれし

 勝手ながらこの盆唄は遠くから聞こえてくる盆唄だと感じた。盆踊りの唄は近くでは結構喧しいものである。「ゆるく」などと鑑賞できるのは、物理的にもある程度の距離を置かなければならない。池田澄子氏もそこまでは何とか自分にも詠めても「ささくれし」は詠めないと言われている。遠い唄だけに風に乗ってくる間に、風の向きが変ったり、雑音が入ったりで、音程やリズムが狂って聞こえることがある。または最近は殆んどテープかディスクなので、どこかに傷がついているのかも知れない。この「ささくれし」だけでこの句の独自性が出てくる。

 このように八田氏の句には暗さがない。「疵」を見ても「節目のささくれ」を見ても、それをマイナスのイメージで捉えていない。私の目指すものとは違うと感じるのは、表現の旨さはあるが、底に流れる哲学的なものは感じられないからである。誤解の無いように再度書くが「私の目指すもの」との違いであり、「私の句」との違いではない。




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050109