句あれば楽あり ?

橋本多佳子論 (三)

至遊(しゆう)


 前回予告した第二の面以降について今回は述べる。多佳子は誇り高くかつ強気な人柄だったと思う。前回も述べた三鬼や静塔と一緒に句会に出て、負けたり批判されたりするのは、自尊心が全く許さなかったのだろう。そのせいとばかりは言えないにしても、これまでの句風とは全く違う、女性にしか詠めない句を多くまじえている。やはり同じ「紅絲」の頃である。夫豊次郎がこの世を去ったのは昭和十二年であり、以下の作品は戦後の作である。思い出の中の情景か、フィクションか、はたまた現実に想う人があっての作なのかは詮索しない。

   雪はげし抱かれて息のつまりしこと

 雪の夜、力強く抱かれて息の詰まった記憶か。やはり男にはこんな句は詠めない。昭和二十四年の作である。「雪はげし」が情熱の激しさも同時に表していて、しかもこの雪は全く寒さを感じさせない。本当は説明してはいけないのだろう。

   許したししづかに静かに白息吐く

 この句になると少し抑えが利いている。「許したし」がいかにも大胆ではあるが、まだ欲望であり行動ではない。これも男には詠めない。

   雄鹿の前吾もあらあらしき息す

 昭和二十三年の句である。これは連作の中の一句であり、いずれも奈良の鹿の句ではあるが、実際には自分の心情を鹿に託して詠んでいる。元々誓子は馬酔木出身であり、馬酔木は秋櫻子が短歌の影響を受けており、虚子の写生に飽き足らずに袂を訣った人で、美しい詩的な表現に戻ったという結社だから、こんな生々しさはない。勿論その当時から多くの人が輩出し、句風も様々にはなってきていた。誓子も最終的には馬酔木を出ることになるが、多佳子はこの時点で馬酔木的な上品さを捨てた、と神田秀夫氏をして言わしめている。

   罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき

 昭和二十四年作。津田清子は、多佳子は詠む対象にすぐになりきる人だったと言っている。鹿になりきったり、ここでは罌粟になりきったり、それが多佳子の特技であるという。ただこの句に見えるように多佳子はよく髪も詠んでいる。何と言っても髪には気を使った人のようであり、髪は女の命という言葉を一生貫いたかのように見える。娘の美代子が本当はこうだったと言っても、その方の影が薄くなる。男なら「指の先」とか「足の先」とかしか言えないが「髪の先」も女の武器である。

   夫恋へば吾に死ねよと青葉木莵

 これが豊次郎のことだとすれば、かなり作為的としか言いようがない。しかも自分を悲劇のヒロインに仕立て上げる材料として利用している。もっと深読みすれば夫に済まないことをした(または思った)という句かも知れない。その方が十年以上も経ってからの句だとすれば現実味がある。

   螢籠昏ければ揺り炎えたゝす

 これにも燃える女の情念というものが感じられる。対象は単に螢であり、螢籠であるに過ぎないが、完全にそこに感情移入をしている。戦後すぐの作品でも、何となく苛立たしさも感じ取れる。女として、そして女流俳人として焦りもあったに違いない。この程度でも男には詠めない。

   生き堪へて身に沁むばかり藍浴衣

 昭和二十四年の作品である。後で誓子は

   女身沁み出づる浴衣の藍地より   山口誓子

という句を始め何句かの浴衣の句を詠んでいる。多佳子と二十九年に洲本に行ったときの句だという。このことは誓子自身が書いているので、こう公表したくなるまで多佳子は大家である誓子を虜にしたのだと思わざるを得ない。津田清子はこの句から多佳子の、人間のものとは思えないほど美しかった素足を思い出すという。いずれにしても藍の浴衣は色白の人が着れば本当に艶なものらしい。

 ここまででいわゆる第二の面というのを終える。他にもこの種の句は沢山あるが、男には詠めないという意味では、評価はともかく奈良の句会では多佳子の独擅場だったであろう。以上はすべて「紅絲」からである。

 以下その後の句になると表現に多佳子らしさはあっても、女を武器にした激しい句はなくなって行く。亡くなったのが昭和三十八年で以下の三句は昭和三十七年と三十八年の句である。

   花万朶皮膚のごとくに喪服着て

 歳を取ると知人の葬儀に顔を出すことが多くなる。だから自分ではしょっちゅう喪服を着ているような感覚になる。外へ出る時には殆んど和服で通した人だから、この喪服も和服だろう。桜の枝の先が垂れ下がっていて、そこに花が満開の状態に咲いている。もう散るしかない花である。明日はわが身と思ったかどうかは知らない。

   雪の日の浴身一指一趾愛(いと)し

 やはり死の年だというのに女は女である。最近「女」という語が差別用語になるのではないかという説があり、「女性」とは何か違う。大和言葉の深さである。風呂に入りながら手の指、足の指の一本一本が愛しいという感情は、それだけ全身に気を配ってきた人にしか湧かない感情だと思う。やはりお洒落だったのである。

   雪はげし書き遺すこと何ぞ多き

 さて何を書き遺したかったのか、想像するしかない。師の誓子よりも遥かに前に死期を迎えてしまったが、誓子にも娘たちにも、または句会の仲間や弟子たちに言い遺すことはあったかも知れない。しかしそれは俳句に関する持論とか理屈めいたことではなく、お礼とか愚痴とかそんなことのような気がする。文章を読んでいても、何かを理路整然と書いて人を説くというのではなく、淡々たる自然描写などが多い。理屈よりも身体で感じたままに生きた人だったと思える。

 最後に多佳子にとって最初の俳句の師である杉田久女について詠んだ句がある。昭和二十九年に久女終焉の地の筑紫保養院を訪ねて詠んだ句である。余りにも時間が経ち過ぎている。久女の没したのが二十一年だからである。それだけ虚子を始めとする俳壇の主流派に遠慮するところがあったのだろうか。

   万緑やわが額にある鉄格子

 この句も一種の久女伝説を形造るのに一役買っているかも知れない。「鉄格子」が久女の最期を象徴しているからである。実際にはどうだか分らない。松本清張の小説の世界の中ではそうなっているので、それをなぞったのだろうか。

   つぎつぎに菜殻火燃ゆる久女のため

 何のための菜殻火だったかは知らないが、この場面は写真にも残っている。多佳子としては久女はやはりかけがえのない人だったに違いない。その霊を送る意味でも「菜殻火」は格好の材料だったと思われる。

   月一輪凍湖一輪光りあふ

 この句は全く今までのと傾向が異なる。むしろ前回の「天狼」向きの句の中に入れるべきだったかも知れない。しかし「いなびかり」や「炎天の」ともまた違った人事の届かない世界を描いた、しかも透明感に溢れる句である。もしかするとこれが多佳子の最高傑作かも知れない。



040513