句あれば楽あり ?

橋本多佳子論 (一)

至遊(しゆう)



 橋本多佳子に関して読んでいると今まで抱いていたイメージとはかなり違っていることに気づいてきた。大きく分ければ小倉時代と関西(大阪・奈良)へ移って誓子に出会ってから、そしてご主人と死別して俳句で身を立てる決意をしてからという時代に分けることが出来るかも知れない。ただし小倉時代はまだお嬢さん芸であり、俳句としては大きな業績はない。ただこの時代に杉田久女との出会いがあり、結局はその影響はずっと消えなかったという点では、多佳子にとって運命的な時代ではあった。

 多佳子は明治三十二年に本郷で生まれている。汀女より1歳年上ということになる。山田流筝曲の家元の家に生まれ、自身も十五歳のときに祖父の山谷清風の後継としての「奥許」を得ている。十八歳で橋本豊次郎という実業家と結婚し、居を小倉に移すことになる。豊次郎は小倉市内に櫓山荘を作り、多佳子二十三歳のとき虚子が長崎へ来た帰途に小倉で句会を開くおり、頼まれて場を提供したのが俳句との関わりの始めとなる。ここで久女にも出会うことになる。

 豊次郎は久女に多佳子に対する俳句の手ほどきを依頼する。そして久女の勧めで「ホトトギス」を始め多くの雑詠欄に投句するようになる。「ホトトギス」初入選は二十八歳のときで必ずしも早くはない。そして三十歳のときに大阪に転居することになる。ここで久女の紹介で誓子を知ることになるが、これも一つの運命のいたずらだったかも知れない。何故なら久女があれほどこだわった虚子を誓子はあっさり見捨てて秋桜子の「馬酔木」に走り、多佳子も「ホトトギス」から「馬酔木」に移ってしまう。ただしこれは大阪転居後六年を経た後の話であり、昭和十年という久女が「ホトトギス」同人を追われる一年前のことである。

 多佳子自身が書いているように、小倉時代は 豊次郎の趣味でやっていた多くのお稽古事の一つが俳句というに過ぎなかった。最初の句集を出したのが四十二歳のときの「海燕」だが、この中に小倉時代の句があるかどうかは分らない。「ホトトギス」の初入選句も四女美代子の選になる代表句には入っていない。多分多少はあったとしても、娘の俳人としての眼で見る限り代表句になるようなものはなかったのであろう。多佳子三十八歳のとき夫豊次郎は病死する。ここからが多佳子の本当の俳句が始まったと言っていいだろう。

 戦後になって久女が世を去り、奈良を中心に活動していた多佳子のもとに秋元不死男、西東三鬼、平畑静塔等が集まるようになる。この若手にかなり刺激されたようで、かと言って 彼等の後を追うでもなく、対抗するように自分の領域を作っていく。三重県を中心に転々としていた誓子の元を度々訪れているのも、悩みが深かったせいだろう。多佳子は誓子を師と思っていたかも知れないが、誓子の当時の文を読むとむしろ恋人同士のようなやり取りがされている。多佳子は時には誓子に不満もぶちまけている。

 六十四歳にして胆嚢と肝臓を病んでこの世を去ることになるが、遺作に

   雪はげし書き遺すこと何ぞ多き

があるが、二月に入院して死去は五月である。この句は遺作とは言っても入院前か入院直後のものだろう。だからこの句は死を見つめて詠んだものではあろうが、その後は辞世句のようなものを詠む状態ではなかったのかも知れない。

 良家の子女として育ったが、夫を亡くした後は自ら自立した生き方を選んだということができる。多佳子を語るときに忘れてはならないのは、彼女が常にマドンナ的な存在だったということである。小倉時代には北九州全体の文化の中心的なサロンの主であった。特に三十台までの写真をみるとき、その美貌は他を圧しているので、彼女が参加することで場の雰囲気が変るということは多くの人が言っている。松本清張、津田清子等はその代表だろう。ただ小倉時代がアイドル的なマドンナだったとすれば、奈良の時代は強烈な吸引力を持った成熟した女性としてのマドンナだった。

 前に紹介した汀女がテレビに出始めた人という書き方をしたが、汀女も美人ではあった。ただ汀女はおっとりしたタイプの美人で、実際見た目も歳を取ってからはふくよかになっている。一方の多佳子はもっと負けん気が強い、その場を支配するような美女だったと思える。歳を取っても丸くなっていく訳でもなく段々とより求道者的な風貌になっている。これが両者の俳句の質も分けたと思われる。

 最初の句集「海燕」(42歳)と次の「信濃」(48歳)の中から1句ずつ拾う。この頃にはまだ代表作と言われるものは少ない。

   月光にいのち死にゆくひとと寝る  海燕

 亡夫豊次郎のことであろうか。亡くなったのが秋なので符合する。すさまじい光景に見えてくる。それまでは豊次郎あってこその俳句他のお稽古事だったのだから、この瞬間は光が見えない状況だったに違いない。ただこの句が単なる鎮魂歌ではなく、自分も奮い立たせるきっかけになったのではないかと思える。いわば初めて代表句と呼ばれうる句を詠めたのである。豊次郎という題材を得て。

   七夕や髪ぬれしまま人に逢う    信濃

 多佳子は髪に関する句をその後も沢山詠んでいる。写真で見ても、身近にいた筈の誓子や清子に言わせても、死ぬまで見事な黒髪だったという。でも娘の美代子だけはあれは嘘だという。よく髪を洗ったがそれは髪をふっくらとさせるためで、いい髪では決してなかったという。面白いことに美代子は喩えけなされても当たっていれば納得できるが、褒められても誤解に基づくものであれば、落ち着かないという。身内とはそんなものか。そんな洗髪のある日急に人が訪ねて来たのであろう。女性にしか詠めない句を三鬼らに対抗してこの後どんどん創り出すことになるが、この時点ではまだ逢っていないと思う。

 次回からはようやく俳句を中心に書くことができる。



040405