風化させてはならない東日本大震災の復興

〜陸前高田市を訪問して〜


11.10.30 茶谷 達雄

schaya@ba2.so-net.ne.jp

今回、3.11東日本大震災で大打撃を受けた被災地の一つ岩手県陸前高田市と同県遠野市を訪問する機会を得た。(注)以下はそのときに強く印象を受けたことである。

生死の狭間の現場

 被災当日、陸前高田市の市庁舎は3階まで津波でやられた。屋上に逃げた職員は、給水塔に100人ほどが寄りすがって助かったという。教委では、10名のみ残った。密閉された部屋に閉じこもった7名と出張中だった3名であったとのこと。
案内された一つに道の駅「高田松原」の施設「タピック45」がある。丁度東京・中野にあるサンプラザのような三角の施設で全高15メートルほどある。(写真参照)

被災当日その道の駅にいた人は、三角の施設の階段の最上部に逃げた3人が助かったとのこと。そのときは足下に迫る13.8メートルの高さの津波と共に、夜通し寒さに堪えて凌いだという。

まさに生と死の狭間の地獄絵だったろう。その実体験をすべく、その三角の上部へ登り、足下に迫る津波を想像しながらその体験の一端をしてきた。想像にあまるものだった。





風化させないで欲しい災害復旧

 陸前高田市では、住宅の95%は全壊。公共施設もほぼ全壊。市内の瓦礫をなくすのは3年後と想定されている。名古屋市など他自治体からの支援職員は、陸前高田市の職員ではできない仕事を探し、担当してもらっているとのこと。
視察した他自治体の議員から、案内の市職員に「私たちに何をして欲しいと思われるか」との質問に、「この災害の復興は10年から20年の戦いである。しっかり憶えておいて欲しい。時間の経過とともに風化させてはいけない。市としてもテレビ等でしっかりと情報発信していくつもり」との回答に心を打たれた。

注目される遠野市の後方支援活動

 災害支援活動の後方支援で遠野市が重要な役割を果たしたことは、あまり知られていない。
遠野市は内陸部にある。被災した沿岸部に対し扇の要の位置にあり、救難センターの役割を大いに果たした。震災発生当日は、1963年に建築した市役所中央館が全壊する被害を受けながら機能を他施設に移し、沿岸部への支援活動をはじめている。(岩手日報2011.4.2)

 そこでは、支援物資の集配、避難者の受け入れ、自衛隊、警察、消防の中継基地として、運動公園が使用された。市内に全国のボランティア支援センターが設けられている。
 震災発生から17日までに、同市が沿岸の被災地に贈った「おにぎり」は8万個に上った(河北新報2011.3.24)それだけご婦人達が握ると手の疲労も極限に達し、手の感覚がなくなってしまうそうだ。(市長談)


 このような遠野市の後方支援の活躍で、見逃してならないことがある。市ではかねて宮城県沖地震と津波の発生を見すえ、2007度から沿岸自治体とともに「地震・津波災害における後方支援拠点施設整備構想」を推進。県や陸上自衛隊との大規模訓練などを通じ、官民の防災意識を高めてきたことである。(岩手日報2011.4.2)

 日頃の物心両面の準備が、このような活躍の背景にある。急に可能となるものではない。市長のリーダーシップに負うところが大きいといえる。

(注)2011年10月27・28日地方自治経営学会の研究大会が同県遠野市で開催され、あわせて被災地視察があったことによる。悪条件のなか地域の復興に取り組む市職員から、生のお話を伺うことができ感銘を受けた。厚く感謝申し上げたい。