メルボルン・シドニー見聞録


99.4.19 茶谷 達雄

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1999年4月12日より同19日まで、オーストラリアのメルボルンとシドニーを回ってきました。訪問先で知人などのご好意をうけ、お蔭様でみのり豊かな旅行となりました。 この見聞録は、現地で見かつ聞き及んだものを、まとめたものです。一旅行者が、楽しみながら、独断と偏見で、社会の一断面を切り取ったものとして、ご笑覧いただければ幸いです。

1 キャプテン・クックのマーケティング オーストラリア大陸を最初に発見したのは、キャプテン・クック(Captain James Cook)と信じられているが、どうもそうではないらしい。 その前にスペイン、オランダが、発見しているとのことである。ただし、その両国は、このオーストラリアは、人の住めるところではないと判断したようである。 ところが、遅れて発見したキャプテン・クックは、人が住める可能性ありと判断し、英国の植民地として道筋をつけたのである。そこが彼の先見性と創造性のあるところであり、他と違ったところである。 このキャプテン・クックの話しから、ある南洋の島に二人の靴のセールスマンが出かけた逸話を思い出した。Aは、「住んでいる人は、一人も靴を履いていないから、市場として見込みがない」と判断した。Bは、「幸いなことに靴を履かないで歩いているから、最も有望な市場である」と報告した。キャプテン・クックは、当然Bに該当する。 この例から見ると、キャプテン・クックは探検家であるとともに、マーケティングに極めて優れていた人であったのであろう。後でスペイン、オランダは、敗者として切歯扼腕したことは明らかである。 しかし、猿も木から落ちるの例えであろうか、彼は、ハワイで原住民に殺害され、50才であの世に旅立ったのである。 その後、オーストラリアは英連邦の一員として、資源を英国本土などに送り続け、繁栄していったのである。この英国に送られた資源は、その後時は移り、今では、オーストラリアの輸出先の60パーセントは、日本へと変わってきたのである。 かってキャプテン・クックが想定した英国への道は、今は日本への道に変化したのである。こうなると、日本でもキャプテン・クックの霊を、慰めてあげる必要があるではなかろうか。

2 移民国家オーストラリア オーストラリアは、移民で成り立っている国である。その移民のタイプも3つに分けられそうである。 まず、キャプテン・クックがオーストラリアを発見し開拓に従事するために、選ばれて英國からおくられてきた移民である。それらの人々は、軽い罪の受刑者であったとのこと。オーストラリアは、かねて流刑の地と知られていたのは、このことからである。いはば本人の意志と関係なく送られてきた「開拓移民」である。 つぎに、やがて英国の閉鎖的な階級社会から自由を求めて、新大陸にやってきた「自由移民」である。皮肉なことに、後でこれらが新興階級として、英国のサーの称号をうることを光栄に思うようになるとは。人間の心は、複雑なものである。 オーストラリアは、このような移民の人々によって建設されてきた国である。しかし、現在でも人口は1800万人と少なく、自然増だけでは国を維持ができにくいようである。そのため、計画的に人口を維持するために移民を迎えているとのことである。いはば「計画移民」といえるタイプである。 当初の計画移民は、アングロサクソンが対象であったようだが、やがて更に集めるために、イタリヤやギリシャをはじめとするバルカン半島の諸国からも、移民を求めるようになっていたとのことである。その後、更に、インド、中国などアジア諸国へと範囲は拡大していった。 その結果、現在約160の民族から、國民は構成されているそうである。アメリカは、人種のるつぼといわれているが、実際は万華鏡だ。オーストラリアの方がよく多民族が溶け込んで、るつぼのように思われた。
今起きているユーゴのコソボ問題についても、いち早く難民4000人を短期間受け入れ表明した背景も、こんなところにルーツはありそうである。

3 パースからのラブコール オーストラリアの西部にあるパースは、リタイアした人のユートピアとして、招致活動が盛んである。日本にも熱いラブコールが、送られてきている。気候は温和で、物価、宅地や住宅も安く、生活がしやすいとのことである。
今回の旅行では訪問していないが、これを移民政策の一環として見ると、どうも違う思いが浮かんでくる。
仮に、リタイアした人の年金等の収入が年収約300万円と仮定する。これは、オーストラリア国民の平均所得が年収300万円程度とのことであるから、現役のサラリーマン並みの階層に当てはまる。また、住まいは自腹で購入してくれる。別に、公に面倒は見なくてよい。更に、国として、社会に適応するための再教育や施設は不要である。一般に、人柄は円満である。こうみてくると、これほど優れた移民はないことになる。 住んではどうか。所得税は高く、所得の3分の1である。物価は日本の半分以下だから、生活はできるであろう。しかし、一旦病気にでもなったらことだ。今の医療は、インフォームドコンセントが前提である。また、あすこが痛い、ここが具合悪いのと、医師に心身の不調を訴えるには、英語で喧嘩ができるくらいでないとだめだろう。これでは、いくら英語を勉強しても、ネイティブでないと不可能だ。 パースからのラブコールを、この藪睨みで見ると、おいそれと乗れない気がする。

4 緑ゆたかな都市メルボルン メルボルンの公園面積は、25パーセント。家を建てるには、土地が最低250坪ないと許可にならない。それでも郊外の住宅は、800万円程度。中級のものでも1400万円程度。ライフサイクルに合わして、3回買い換えるとか、うらやましい限りである。 郊外は、そのまま広大な牧場につながっている。牛舎がなく、どこまでも広い。これは雪が降らないから、いらないとのこと。とにかく、緑や環境に随分と配慮された都市である。気候の変化は激しく、1日に四季があるといわれているほど。天気予報は、ミクロではあたらないとか
メルボルンの空港、「タラマリン国際空港」の名前は、原住民「アボリジニ」の子の意味とのこと。どこにでもある原住民族問題を、垣間見るような気がする。
メルボルンの人口は、約300万人。オーストラリア第二の都市。中心街は、3.2km×4kmで、それほど大きくはない。きれいな碁盤目のように道路がつくられていて、わかりよい。車の流れもよいようだ。 オーストラリアは、日本と同じく、車は右ハンドルだから、違和感がない。左ハンドル社会である米国人が運転して、交叉点で衝突して、死亡したそう。とにかく、アメリカ人をあまりよくいわない雰囲気だ。 このメルボルンは、シドニーより50年あとに建設された都市とのこと。オーストラリアで最初の都市シドニーで、流刑の開拓移民の風土を嫌った自由移民が、シドニーから移住し、都市を建設したとのこと。それだけに都市計画は、しっかりできている。 なつかしい市内電車が環状と放射状に設けられており、頻繁に走っている。だが、あまり人は乗っていない。大赤字とのこと。都市の環境や従業員のことを考え、頑張て維持しているらしい。 料金の支払も合理化し、自動支払機でやられているが、しばしば故障し、結果的には無料乗車になってしまうらしい。おおらかである。しかし、車内でのマナーは結構うるさく、箱型の座席に足を投げ出しただけで、300ドル罰金をとられたとか。旅行者はご用心。 メルボルンを発展させるために、スポーツのメッカにしたいとのこと。テニスのウインブルドンのような国際大会を、さまざま考えているよう。今後、メルボルンから世界に発信されるスポーツのイベントに、注目していきたい。

5 ベェリ・ソーリ いきなり「very sorry」ときた。シドニーが、世界一美しいショッピングモールと誇るクイーン・ヴィクトリア・ビルディングの衣装店でのこと。ドレスを試着した娘さんの姿を、母親が半歩ほど下がって見ようとしたとき、私に一寸触れただけで、発せられたことばである。 聞きなれない英語であるので一瞬「おや」と思ったが、あっそうかと直ぐ理解ができた。実に丁寧な言葉が、一瞬にしてでるとは、日頃のマナーが分かるというもの。 メルボルンでのこと。路上で警備員らしい人と、一寸からだが触れたら「sorry sorry sorry」といいながら、3回も平身低頭のお辞儀をして去っていった。 オーストラリア人の高校一年生のお嬢さんとそのお母さん、そして私ら夫婦と4人で、イタリアレストランで、スパゲティなど軽い昼食を取ったときのこと。そのお嬢さんは、運ばれてきた料理を食べる前に、神に感謝をしなければと言いながら、他の人にもうながし、手を合わせ祈り、そして食事をはじめた。私たちは、そのお祈りが終わるの待って、食事をはじめた次第。 オーストラリアの栄枯盛衰を象徴するメルボルンの、歴史的邸宅コモを観覧していたときのこと。上述のお母さんとお嬢さん、そしてわれわれの計4人の他に、観覧者として一人の女性がいた。シドニー在住とのこと。父はギリシャ、母は英国の出身とか。観覧中、説明者に対し微笑ながら、適度な質問をし相槌をうっている。 その人のかもし出す雰囲気は、モナリザの微笑みにインテリジェンスを加えたようなものであった。そして終りに、われわれの目を見て、丁寧に会釈をして、「これから行かれるシドニーでのご旅行が、すばらしいものでありますように(通訳による)」といって別れていった。「Have a nice trip」などのとおり一辺のものではない。参った。 オーストラリアでは、アメリカ人は自己主張が強過ぎると嫌われているともいう。
これらから見ると、オーストラリアは、ジェントルな紳士淑女の国のようである。しかし、男性より女性が強い風潮もあるとか。男性は、要注意。

6 メルボルンでの名所つまみ食い (メルボルン・セントラル)
黒川紀章が設計した「メルボルン・セントラル」に行ってみた。地元ではたいへん評判がいいようである。高層建築で、6階ぐらいまで大丸が入っており、人もたいへん多く集まっていた。驚いたのは、赤レンガの建築物をそんまますっぽり包みこんで、建てられていることだ。おそらく保存か開発かの、厳しい論議がされたのだろうか。いずれにしても、新旧を両立させたところが、黒川紀章の非凡なところである。
(クイーン・ヴィクトリア・マーケット)
とにかく安い、すべてが日本の半分から3分の1である。生鮮食料品、衣類、履物、雑貨など日用品はすべてあるようだ。日本の卸売市場が、小売店に変わったような広大な面積のところにある。市民の台所となっているよう。失業手当だけでも、ここで買っていれば、十分、生活ができるそう。
オーストラリアに、羊は人口の10倍いるとのこと。それだけに、乳製品や羊毛品の本場であり、よいものがある。チーズをつまみ食いしてみたが、日本人の口にあいそう。ゴルファのタイガーウッズも、ここでセータを2着買っていったそうである。それにあやかって、私もセータを買ったが、いかがなものか。
(ペンギン観光)
メルボルンから約140kmのところに、フィリップ島というところがある。そこで野生のペンギンを見ることができる。
ここのペンギンは、日中は海で餌を取り、夜は陸上の巣に帰る習性をもっている。ペンギンは、敵となる鳥から身を守るため、海に行くときは、日の出前の暗いうちに出かけ、日没で真っ暗になってから帰える。波打ちぎわから、浜辺に上がるときの外敵への用心深さはすごい。危機管理もここまでくると、感心させられる。 そのため観光時間は、日没後の寒い夜となる。ペンギンは、観光客のことは、考えてくれるはずがない。また、鳥目の人は、ペンギンの作戦どおり見ることはできない。 このお帰りを皆で見られるようにと、コンクリーの階段状の座る場所が上手に設けられている。ちゃんと、観光客がおとなしく座っていれば見られるのだが、世の中、自分だけ、よく見ようとするものがいるのが常だ。そこで中腰などで見ていようものなら、ユニホームを着けた係員が、容赦なく立ち退かせている。その徹底ぶりは見事なものだ。これが、真の観光行政だろう。

7 オリンピックを迎えるシドニー シドニーは、人口は約400万人。オーストラリア第一の都市である。壮大な入り江のような湾を囲んでつくられた、海辺の美しい都市である。フェリーから眺めるシドニーは、抜群だ。ウォータ・フロント開発も、成功しているようだ。
シドニーは、今、2000年のオリンピックを迎えるための都市の衣装替えに忙しい。至るところで、工事が行なわれている。
オリンピック・メイン会場は、設計はニュージランド、工事はオーストラリア、施工の管理は日本(大林組)が担当したそうである。大林組では、数人で担当したとか。世界からの日本産業の見られ方の、まさに投影そのものである。きめの細かい、日程どおりに仕事を進めることについて、日本は世界一かもしれない。 シドニーは、メルボルンのように、最初に都市計画をしていったのと異なり、徐々に拡大していった都市だけに、市街地の交通渋滞は激しい。オリンピック開催をひかえて、市の中心部に30分で入れるようにしようと、高速道路を建設中である。これを有料にするとしているので、市民は怒っているとか。これまで、高速道路はすべて無料であり、道路を通るのに支払をする生活習慣がなかっただけに、衝撃が大きいようだ。 オリンピックのときには、市内が混雑するので、シドニーにはいたくないとの市民の声。これでは、誰のためにオリンピックをやるのか、分からなくなってきた。

8 オペラハウスの維持管理 シドニーのシンボルは、なんといってもオペラハウスであろう。ヨットの帆をイメージして建てられたという。輝くばかりの白い巨大な建物。そして、それを取巻く真っ青なシドニー湾。一幅の画のようである。 しかし、このヨットにみえるところは、真横の対岸から見たときだけ。そばからは、ヨーロッパの騎士の顔面を覆う兜に見える。また、貝を縦に並べたようにも見える。ヨットに見えるのは、限られた場所だけからだ。設計者は、現地を訪れたことはないとか。 この建物の正面は海側で、そこへフェリーで到着し、入場するように作られているとのこと。しかし、開館以来、そこは利用されたことがないそうで、開かずの扉になっている。いいかえれば、現在利用している入口は、設計上では裏側にあったものといえるかもしれない。
シンボル的なあの白い帆の部分は、タイルが貼られてできている。スペースシャトルの表面のようにである。2色からなっており、白と淡いベージュ色のタイルが、交互に貼られ、反射を柔らかにしている。
ところが、このタイルがはがれだしたそうである。この修理には相当の経費がかかるとか。そのため、修理するべきか否か、随分論議された結果、修理をすることになったそうである。 奇抜で度肝を抜くような建物は、建設当時は高い評価を受ける。しかし、それを受け継いだ後の世代は、この維持管理に、永遠に悩まされることになる。他山の石とすべきであろう。

9 オーストラリア・トピックス (雹保険)
訪問したオーストラリアの季節はちょうど秋で、日本の九月から十月ぐらい。快適であった。しかし、秋だというのに、日本ほど黄葉、落ち葉がなく、四季の変化が明確に感じられない。
メルボルンにいた日に、シドニーでは、テニスボールのような雹が降り、死者1人を含む家屋・自動車などに大きな被害がでたとのこと。ガイドによれば、15分ぐらいの一瞬のできごと。自動車のフロントガラスなどは割れ、家屋の窓ガラスや屋根瓦なども随分壊れたそうである。このために、雹保険があるそうである。 シドニー市内を回っているとき、個人住宅の屋根に大きなシートがかれられたところや、被害を受けた自動車を運搬しているのが目に入った。ガラス屋さんは大忙しとか。もし、シドニーで観光中であったら、あの世に行ってしまったかもしれない。人間の生と死は、紙一枚の差なのであろう。 (億ション)
シドニーの住宅は、中心部の1LDKで2000万円程度。郊外は、テニスコート付きで2000万円で買えるとか。しかし、場所によっては、マンションならぬ億ション(ビリオン・ハウス)もあるそう。
海岸に沿った景色のよいところに住むのが、ステイタス・シンボルになっているそう。日本のように潮風で、窓のサッシュが朽ちたり、自動車の寿命が短くなることがないらしい。潮風までがジェントルなのか。
(日本はお客さんだが)
日本からオーストラリアへの観光客は、年間80万人。これは、途中のサイパンとおりこして多い。サイパンへの旅行者は、45万人とか。一方、オーストラリアから日本へは、8万人とのこと。
このためか日本語熱も盛んなようで、商店でも日本人の店員や片言の日本語を話すオーストラリア人なども多い。
輸出先も日本が第一位で、その意味では、よいお客さんである。牛肉などは、放牧したものの肉では、脂肪が少ない。日本では霜降りの肉が好まれるとして、日本向けの飼育は放牧せず、牛舎に閉じ込め運動不足にし、脂肪をたくさんつけた肉を出すとか。これでは日本人は、運動不足でコレステロールが充満した肉を、喜んで食べていることになろう。 しかし、のぼせ上がるのは禁物。第二次世界大戦のとき、オーストラリア北部の都市ダーウィンを、日本は数十回空襲し、市民からも多くの死者を出したそうである。また、シドニーでもその脅威に備え防御をしたそうで、今もその跡は残っているとのこと。戦争記念日には、日本人はその会場に近づかない方がよいとか。 オーストラリアは、過去の戦争のことを、決して水に流してくれていないことを、忘れないように。

10 オーストラリアよどこへ行く オーストラリアは、資源が豊かで、第一次産業が中心。輸出もこれに依存しているよう。ガソリンは、1リットル60円と安い。自国産の地下資源で70パーセント供給している由。 今後、製造業など第二次産業を、いかに育成するかが課題とか。このためか過去に、技術移民を7万人受け入れているそう。現実は、長期失業者は8パーセントとなっており、厳しい。高卒者も就職できないので、大学に行くそうである。大学は失業対策になっているか。その先は、大学は出たけれどになってしまう。 しかし、福祉がよく、物価も安いので、失業保険でも楽に生活できるそう。難民が病院に入っても、よく診てもらえるとのこと。
企業の従業員が残業すると、残業手当の半分が税でとられる。使用者側は、夕食などさまざまな措置が求められるとのこと。残業を抑制するような社会の仕組みになっているよう。所定の休暇をとると、割り増しの給与支払があるそう。とにかく、傾向として皆あまり働かないようだ。
しかし、税の負担は重く、年収の3分の1が所得税で取られるとか。働く者の意欲をなくす社会か。しかし、財政は赤字で、政府は新たに消費税を新設し、税率を一挙に10パーセントを提案している由。それでは低所得者に負担が大きいと、スーパーで売っているような食料品や日用品は、非課税にするよう意見がでているとのこと。政府は、それならばと消費税を12.5パーセントにする改正案を出しているそうで、大騒ぎのよう。 あまり働かず、しかも働く者の負担は重い。低い公共料金、安い物価、手厚い福祉や医療、しかし、赤字の財政。オーストラリアの国民は、静かでやさしい。だが、国の運営は、矛盾と相克に満ちているように見える。
オーストラリアは、これからどこに行くのだろうか。