一神教と仏教物語




私は発展途上国の開発協力という政府の仕事(Official Development Aid 略してO.D.Aとも呼ばれます)で沢山の発展途上国へ行きました。その仕事では、インドネシアなどイスラム教の国にも行き、2年ほどイスラム教徒の人々と一緒に暮らしまして、はじめて一神教の実態を知りました。その後、キリスト教やユダヤ教の勉強をしました。それから、仏教はどうなっているのか、考えました。それで今日は一神教と仏教についてお話しようと思います

はじめに

 キリスト教に聖書があることはご存じですね。バイブルとも呼ばれます。聖書には旧約聖書と新約聖書がありますが、旧約聖書の始めは創世記です。
創世記は英語はでジェネシスと言います。イギリスにジェネシスというロックグループがありますね。ボーカルのフィルコリンズが有名ですね。ワンモーナイトという曲をお好きな人も多いでしょう。あのジェネシスは、その旧約聖書の創世記(英語でGenesis ジェネシス)から、ジェネシスというグループの名前を付けたのです。日本でも、日本書紀とか古事記とかいう名前のグループがあっても良さそうですね。古事記なんてかっこ良いじゃありませんか。

 さて、その創世記ジェネシスですが、次のように始まっています。

 「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。」
 「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。
 神はその光と闇とを分けられた。神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕となり、また朝となった。第1日である。

 神はまた言われた。『水の間におおぞらがあって、水と水を分けよ』。そのようになった。
 神はおおぞらを造って、そのおおぞらの下の水と、おおぞらの上の水とを分けられた。神はおおぞらを天と名づけられた、夕となり、また朝となった。第2日である。」

 このようにして、第3日目には陸と海を造り、草と樹木を造りました。第4日目には、太陽と月とを造りました。そして第5日目には、魚と鳥と鯨を造りました。

 第6日目に、家畜と獣をつくり、そして、
 「神はまた言われた『われわれのかたちに、われわれにかたちどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地にすべての這うものとを治めさせよう』神は自分のかたちに人を創造された。
こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第7日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終わって第七日に休まれた。これが天地創造の由来である。

 と書かれています。

 こうして1週間の7日ができ、日曜日が休みの日となり、今でもそうなっています。日本では労働基準法でも学校教育法でも、いいえ日本ばかりでなく、曜日は世界中が旧約聖書の創世記によっているのです。

 旧約聖書は1300ページもありますが、創世記は冒頭の70ページ。とても面白いですから、機会があったら読んでみましょう。

1 宗教が違えば暦も違う

 日曜日の由来のついでに暦の話をしましょう。
 皆さんは暦のことについて考えたことがありますか? 暦の初めの日は何を基準にしているのでしょうか、普通は考えませんね。当たり前のことだと思っているでしょう? 私も10年前まではそうでした。

 ところで21世紀の初まりは、2001年1月1日ですね。その前日の深夜は、日本中のラジオやテレビがカウントダウンで大騒ぎしました。

それでは、その日は世界中みんな2001年の1月1日でしょうか。もちろん日付変更線の東のアメリカでは日本より1日遅れですから、2000年の12月31日ですね。

日本では2001年というと「西暦」と言いますね。皆さんは、これは西洋のコヨミだから「西暦」なので、昭和とか平成とか言う「和暦」とは違って世界的なコヨミだと思っているでしょうね。

 私も以前はそう思っていたのです。私は、前に申し上げたODAの仕事で沢山の国に行きましたが、日本の国の外に出ますと、誰も「西暦」つまり「ウエスタン・カレンダー」とか言わないので不思議に思いました。

 どの国でも殆どの人が「キリスト歴」と言い、キリスト教の暦だというのです。それは、西暦1年1月1日が、イエスが生まれた日とされているからです。
 憲法の建前上無宗教の日本ではキリスト歴とは呼ばずに「西暦」と呼ぶのですが、和英辞典を引いてみて下さい。英語では「クリスチャン・イアラ」と言います。
 本日は、私は宗教の話をしていますので、無宗教表示の「西暦」とは呼ばす、以後ではなるべく「キリスト歴」と呼ぶこととしましょう。

 さて、私がODAの仕事でタイに行ったときのことです。報告書をタイ政府に提出しましたら、日付は仏歴、つまり仏教の暦で表示するように指示されました。

 世界中が日本と同じ西暦を使っていると思っていましたので驚きました。知らなかった私は、あわててネットで調べました。そこで分かったことは、たとえばキリスト歴の2001年1月1日は、タイ仏歴では2543年10月7日というように、まるで違うということでした。

 タイの仏歴では、お釈迦様の涅槃の日が1年1月1日です。その日はキリスト歴の紀元前(BC)543年のある日だそうです。

 タイでは、全ての文書の日付は仏歴に依らなければならないと、法律で定められています。

 ただし、外国との貿易などの書類には、ビジネスで使われているキリスト歴で表示することが許されています。なにしろビジネスの世界はアメリカやヨーロッパなど、あらかたキリスト教の国ですから仕方ありませんね。ただしそれでも公式の日付は仏歴なのです。そうすると文書によっては両方の日付があって紛らわしいので、仏暦には前に、BEと付ける事があります。BEとは、英語のブッダ・イアラの頭文字です。

 では、世界五大宗教の他の暦はどうなっているでしょうね。

 まず、ユダヤ教ですが、キリスト歴2001年1月1日はイスラエルではユダヤ歴5761年4月6日となります。

 では何が始まりかといいますと、アダムとイブが神によって創り出された日が1年1月1日なのです。創世記の第6日目、土曜日ですね。

 イエスより3760年前という事です。私たちは人類の誕生はおよそ600万年前と授業で習いますよね。ところがユダヤ歴では、その日はBC3760年なのです。

 さて日本ではおよそ1万5千年前には縄文人が居たと言われていますね。するとアダムとイブの一万年以上も前に居た縄文人は誰が創ったのでしょうね。

 次にイスラム教ではどうでしょうか。キリスト歴の2001年1月1日はイスラム歴1421年10月5日です。

 イスラム暦の元日は、ムハンマドがメッカから、彼の支持者がいるメディナへ移住した日、キリスト暦の622年7月16日です。

 イスラム教徒は毎年1ヶ月間の断食をすることを知っていますか? それをラマダーンと言いますが、ラマダーンを行う月を「ラマダーン月」といいます。

 キリスト暦で見ますと、ある年は2月がラマダーン月で、翌年は1月で、その次の年は1ヶ月早くなって12月と、年ごとに変わります。ラマダーンの間、イスラム教徒は、太陽が出ている時間は食べ物はおろか水も飲めませんから、熱帯の暑い国では仕事になりません。それで私どもODAのチームは、ラマダーンの間はなるべくその国に行きません。しかし、その時期が毎年変わるので、計画が狂って困ります。

 ところがラマダーンは、イスラム歴では毎年9月と定められていて、イスラム歴で生活しているイスラム教徒から見ると毎年一定です。われわれキリスト暦側が困るのです。

 おまけに太陰暦のイスラム歴では月の出が一日の始まりですから、だいたい夕方の6時に日にちが変わります。
 たとえばイスラム暦の国で1月1日に「この荷物を1月2日の午後7時に届けて下さい」といわれて明日だと油断してはいけません。

イスラム歴では午後6蒔に日付が変わりますから、1月1日の午後7時はもう1月2日のなのです。ですから、どの宗教の暦なのか確認しなければなりません。

このように多くの人々は、その国の宗教のリズムで生活しているのです。

 さあ、それではキリスト歴の21世紀の初めの日は、ほかの暦の何年何月何日でしょう。

もちろん和暦では、平成13年1月1日の月曜日
キリスト暦では、2001年1月1日で月曜日
仏暦では、   2543年10月7日。
イスラム暦では、1421年10月5日。
ユダヤ暦では、 5761年4月6日です。

じゃあ、それぞれ何曜日かって? 皆さんで調べて下さいね。曜日が無い暦も沢山ありますから。日本でも江戸時代までは曜日はなかったのです。海外で仕事をしていますと、日本の常識世界の非常識という事をしばしば経験しますが、暦もそうです。

2 神は命令し仏は話しかける

 漫画や時代劇を見ていますと、困ったときに「ああ神さま仏さま」とお祈りをする場面を見かけますよね。私たちは普段、神と仏の違いを意識することが無いので、「ああ神さま仏さま」とか「神も仏もあるものか」というセリフを変だとは感じませんね。

 だいたい日本では、子供のお宮参りは神社へ、結婚式は教会で、お葬式はお寺で、というのも不思議ではありませんよね。
ところが、それをアメリカ人などに話すと「その教会というのは、キリスト教の教会か?」と怪訝な顔をされます。
 それで私も神と仏はどう違うのかな、と考えてみました。

 最初に仏を考えてみますと、仏はブッダ、つまりお釈迦様のことで、おひとりだけですよね。ところが神は沢山あります。日本には昔からヤオヨロズの神といって、800万柱の神がいることになっていまして、靖国神社に祀られた、246万6532柱の神を加えますと、ゆうに1000万柱を超える神が居る、超多神教の国ですね。

 インドの神も、もっとも位が高いシバ神をはじめ沢山おられます。

 それやこれやで世界中の国々には沢山の神が居られることになっていますが、どの神も実は共通点があります。それは、神は人間の前に決して姿を現さないと言うことです。姿を現さないから話しかけもくれません。

 ですから、神の言葉やお告げは、日本では神社の神主が取り次ぎますし、ユダヤ教ではモーゼなどの預言者が神の言葉を神から預かって来て、人々に伝えました。キリスト教ではイエスが神の言葉を預かった預言者であり、イスラム教ではムハンマドが預言者です。

 つまり神の言葉を聞いた人は預言者だけで、預言者を除いては居ないのです。

 日本やインドのように神が沢山いらっしゃるところでは、神によっていろいろな事が伝わってもあまり問題になりません。「そうか山の神はそう言ったか」とか「そうか お蛇が池の神 はそう言ったか」で済むからです。

 ところが神が一つとなるとそうは行きません。ですから、一神教は大変です。あっちでああ言い、こっちでこう言い、では、必ず教義についての混乱と争いが起きます。

 ところがです。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神は同一なのですが、なにしろ預言者が何人もいて、それぞれが少しずつ違うことを、「これが神のお告げじゃ」と言って伝えたのです。ユダヤ教ではモーゼやアブラハムなど20人近い預言者が神から預かった言葉というのを信者に伝えました。

 さて、そのずっと後にユダヤにイエスが現れ、ユダヤ教徒に向かって「私イエスは救世主、キリストである。」
「ついてはお前たちが昔の預言者達から聞いたことは全て間違っている。私は正しいことを神から預かったので、それを伝える。」
と言って布教したものですから、反発したユダヤ教徒の要求でイエスは十字架で処刑されました。

 しかしそれにも拘わらず改宗して、イエスの教えにしたがったユダヤの人々がキリスト教徒の始めです。

 ところがその600年ほど後にアラビアにムハンマドという預言者が現れ、「イエスは、神が人間に遣わすと約束された5人の予言者の第4番目の預言者ではあるが、伝えたことに間違いがあるので、神は私を最後の(第5番目の)預言者として遣わされたぞ。よいか、イエスは絶対に救世主、キリストなどではないのである。」
と言って、新しい預言を述べました。

 ここで念のため申し上げますと、ユダヤ教でもイエスは救世主(キリスト)ではないとされていますので、今日私は「イエスキリスト」とは呼ばずに、ただ単に「イエス」と呼んでいるのです。仏教徒は争いごとはあまり好きではありませんしね。
 さて、全く違った預言者が三人も現れた結果、神の教えが3通りもあることになりました。

 そしてこの3通りの教えは、それぞれ弟子たちによって書物に書き残されました。最初のユダヤ教の教えは、トーラーという聖書に記され、後にラビと呼ばれる長老たちによって編集されて「タルムード」という教典になりました。

 次のイエスの教えは、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4人の使徒(弟子)によって記され、新約聖書と呼ばれました。
 そしてキリスト教徒は、ユダヤ教の教典を、古くて間違っているという意味で「旧約聖書」と名付けました。

 そして最後に現れたムハンマドが、イエスの新約聖書は間違っているといったので、イスラム教徒たちは新約聖書ではなく、ムハンマドの教えを記したものを「コーラン」と呼んで最高の教典としました。コーランはアラビア語で「最高」という意味です。

 このように、お互いに違う、と主張している3つの宗教ですが、天と地を創造したあの創世記の神を自分の神だと言っているので、神はひとつです。それが一神教と言われる理由です。

 かくしてそれぞれが「自分たちに与えられたお告げだけが正しく、他のはにせものである。」と言って争うようになりました。一人の預言者が正しいとすると、あとの預言者は嘘を言っていた事になるでしょう。しかし神の言葉は絶対ですから、言われれば人々はただひたすらに、それに従うしか許されないのです。そういう実情は、全能の神ですから知っておられる事でしょう。しかし神は預言者にしか言葉を伝えませんでしたし、その預言者達は全員、とうの昔に死んでいますから、確かめようもありません。

 皆さん、どうしますか? どうしようもないですね。とにかく、こういう仕組みになっているので、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は永久に争わなければならない宿命にあるのです。それで多くのキリスト教徒たちは、キリストが再臨して神の新しい預言をもたらせば、この世は楽園になると信じ、その日を待ち望んでいます。そして、ある宗派ではユダヤ教徒がキリスト教徒に改宗する日が再臨の日と信じています。

私どもが「みなさん、戦争は止めましょう。」とか、「皆さん、仲良くしましょう。」と言って解決できるような問題ではないのです。

 たとえばアメリカが「お前の国を民主主義にしてやる」と言っても、
「キリスト教民主主義じゃないか。」とイスラム教徒は信用しません。ユダヤ教徒も、あれはキリスト教民主主義だと警戒します。なにしろ千年以上に亘って戦ってきたので、お互いが不信感の固まりになっていますから。

 議会制民主主義でも多数決でもキリスト教で生まれた制度ですから、彼らは信用しません。民主主義を無条件に「良いものだ」と思っているのは、世界で日本だけで、他の国はみな、条件付きで受け入れているのです。それほど全ての制度は、宗教と関係が深いのです。

 では仏教はどうかと言いますと、まず、ブッダは神ではなく人間ですから、人々の前に姿を現し、人々に語りかけています。いま言ったように、神は語りかけません。命令するだけです。
 それに対してブッダの教えは、預言者によってではなく、多くの弟子たちや信奉者たちが、おそばで直接聞きました。
 神は誰も見ていないので、その存在を信じるだけで、科学的にも歴史的にも証明できませんが、ブッダは多くの人が見ていますから、「間違いなくいらっしゃった」と言い切れますね。
 神は死にませんが、ブッダは涅槃といって亡くなっています。
 神の教えは絶対で永久ですが、ブッダの教えは「色即是空、空即是色」、万物は流転し、絶対のものは無いと言われています。
 ブッダは天や地を創造することはしませんでしたが、天や地や、あらゆる生き物を観察されました。その結論が「色即是空、空即是色」です。これは後で述べますが、アインシュタインの相対性理論と本質が同じものです。

3 ひとを滅ぼす教条主義

 さて、一神教にはユダヤ教、キリスト教、イスラム教がありますが、ユダヤ教にはトーラー、キリスト教には新約聖書、イスラム教にはコーランという聖書がそれぞれあります。日常生活の指針としてはユダヤ教徒にはタルムードがありますし、イスラム教徒はコーランを生活の指針としています。

  これに反してキリスト教徒には、生活の指針というべき本が無く、新約聖書を絶対視する人が多く、その中には絶対視しすぎて原理主義になり「キリスト教原理主義者」と呼ばれる人々がいます。特にアメリカのプロテスタントの中には、アーミッシュをはじめ「キリスト教原理主義者」が多くいます。これが「原理主義」の語源です。

イスラム教徒もバイブルを絶対視しているところから、キリスト教原理主義をなぞって「イスラム原理主義」という言葉がアメリカで作られました。
 武装ゲリラによるテロを日本のマスコミはアメリカの情報に従って「イスラム原理主義者」の仕業のように報道していましたが、最近は、原理主義者の語源がアメリカのキリスト教徒にあること分かったので「イスラム武装ゲリラ」と改めています。

 しかし「武装」はイスラム教徒にとってはムハンマドの時代から信仰を守る基本的な手段なのです。「左手にコーラン、右手に剣を」は、警察も軍隊も無い砂漠の中で、異民族に見つかれば略奪され、皆殺しにされかねない時代の「砂漠の民の知恵」だったのです。

 イラクのバグダッドではいま、アメリカからキリスト教徒の軍隊が攻めてきたのでその昔の教えが復活しているのです。ですからイラクの紛争は、サミュエル・ハンチントンが言うように、昔ながらの中東での宗教戦争なのです。
 ですから、彼らの信仰を侵すようなことをしなければ基本的には攻撃されません。
 そう言う意味からは仏教徒としての日本人は攻撃されない筈ですし、事実サマワの陸上自衛隊は、静粛に行動して攻撃されませんでした。
 ですが、日本人の旅行者は殆どの人が英文字が書かれたTシャツを着てジーンズをはくなど、キリスト教徒と区別が付かない服装をしていますし、米語で大声でしゃべりますから、アメリカ人と誤認されて攻撃されたり、拉致されたりするおそれがあります。

 海外では服装や持ち物が安全に関わるので、行くときには気をつけましょう。私も海外で、それも発展途上の危険なところで仕事をするときには、現地人に近い服装で、生活は質素に、行動は謙虚にしていました。

 さて、キリスト教原理主義者は、聖書などの「教典」を絶対視し、そこに書かれていることは全て歴史的事実であると主張し、たとえばイエスが海の上を歩いたとか、一切れのパンで何万人の人々の空腹をいやしたなど、新約聖書のマタイ伝に書かれた奇跡は全て事実であると主張しています。そのように、「聖書の教えは絶対的に守らなければならない」とする主義がありますが、そういうものを一般的に「教条主義 (dogmatism ドグマティズム)」と呼びます。これはキリスト教プロテスタントに限らず、イスラム教でも、タリバンやイラクのスンナ派などの宗派にもあります。

 教条主義は純粋な感じで、体系的で分かりやすいので、宗教に限らず、ほかの多くの分野にもあります。

 社会経済の分野では共産主義が教条主義です。それは今から150年ほど前の1850年ごろ、ユダヤ人カール・マルクスが書いた「資本論」を聖書として信奉し、マルクスが友人のエンゲルスと書いた「共産党宣言」に基づく、いわゆる「マルクスレーニン主義」を絶対的に正しいとする思想です。マルクスレーニン主義では、全ての価値の大元は労働である、とする労働価値説を絶対的に信奉し、医師・教師などの知識人を労働者ではないとして差別します。

 1965年に始まった中国の文化大革命では、「お前はマルクスレーニン主義に反している」として、主として教師・医師・学者など、2000万人以上の知識人を奥地の強制収容所へ送って強制労働で殺しました。

 カンボジアでは共産主義を信じるポルポトが、1975年頃から医師、教師や技術者などの知識人を中心に「マルクスレーニン主義に反する」として国民の一割に当たる150万人あまりも強制収容所で殺しました。教条に反するものを抹殺する施設「強制収容所」は、旧ソ連でもどこでも、教条主義者の発明です。

 宗教の方では「異教」は許せますが「異端」は許せません。たとえば、キリスト教にとって、たとえば仏教は異教、異なる宗教です。異教はキリスト教の教義を否定しない限り無害ですから、無視されます。しかし、異端は違います。異端は同じ神を奉じながら違った教えを信奉し、他の宗派の教えを否定し「お前達の信仰は間違っている、改宗せよ」と迫るので、「どちらが本当か」という争いになります。イラクのシーア派とスンニ派の争いも異端の争いです。

 どちらの神も絶対であり、信じないと自分たちが神に滅ばされるので、どちらも譲れません。それで相手方を全滅するしか解決の方法が無いのです。ですから12世紀の十字軍に始まり、20世紀のナチス・ドイツのホロコーストのように、一神教徒間の争いはいつも皆殺しとなるのです。十字軍が、戦いでは常に敵(イスラム教徒)を皆殺しにした事は、アメリカのジャーナリストで考古学者J. A. ミッチェナーの「人間の歴史」(原題は The Source)に詳しく出ているところです。

 キリスト教のプロテスタントでは聖書の解釈の違いをめぐって多くの対立する宗派が生まれています。しかもグーテンベルグの印刷術により同じ新約聖書が大量に印刷され普及したので、教典はまったく同じです。したがって解釈が違うと異端の争いになります。それで同じキリスト教徒でもヨーロッパでは昔から宗教戦争をして殺し合ってきました。

 サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突」という本にもあるように、いまの中東の状況を「キリスト教とイスラム教の衝突」と見ると、アメリカが今後さらにシリアやイランまでミサイル攻撃したがっている事も容易に推察できます。
 おまけにイスラエル(ユダヤ教)によるヨルダン(イスラム)への進撃や、アルカイダ(イスラム)のキリスト教国に対するテロを見ると、世界的大戦争はいつも一神教の教条主義が引き起こす、と言うことが良く分かりますね。

 しかし、教条はどれも分かりやすくカッコイイので若者に支持されがちです。自爆テロをやっているのもイスラムの若者たちです。
 皆さんはカッコイイ教条主義にだまされないよう、いつも注意しましょう。教条主義は、見た目は実にカッコイイのです。大宇宙の真理がここにある、などと宣伝します。しかし教条主義に捕まったら地獄です。
 オーム真理教や統一原理教などもそうですが、教条主義ほど危険なものはありません。だいたい全宇宙を統一する理論などあるはずが無いのです。

 教条主義の反対は「実証主義 (positivism ポジティヴィズム)」です。よく観察し調査し、実際に何が起きているか何が事実か、を確かめて行動する主義が「事実と証拠の主義」=「実証主義」です。

 ただし、実証主義は、ひたすら現実に順応する「現実主義(Pragmatism プラグマティズム)」とは全く異なるものです。日本には実証主義者は非常に少なく、現実主義者が極めて多いのです。私が勤めていた会社にも「オレは現実主義だからな」という社員が沢山おり、上司も「あいつは現実主義だ」と高く評価していました。

「儲かるなら中国でもベトナムでもインドでも」というような経営者にとって、現実主義を標榜する社員はどこへでも派遣できる「企業戦士」として便利で使いやすいのです。つまり現実主義というのは無主義・無方針・無分別の別名のようなものです。

 「入り口が入りやすい所には出口がない」と言われます。真に成功しようと思ったら、いかに入り難くても出やすい所を選んでその入り口から入れと言われますが、教条主義はとても入り易いが出口がありません。

 いっぽうの実証主義は、全ての学問と科学の基礎です。物理学や生物学などの自然科学、経済学や社会学などの社会科学、心理学や歴史学などの人文科学の全ての分野は、実証主義で開かれてきました。目標が見えるので出やすいところです。どうですか、分かりやすいでしょう。

4 仏教は宇宙をつつむ大きな教え


 仏教にも教典はあります。これはご存じのように、お釈迦様の入滅後、2回の結集が行われるなど、教典の統一がはかられていますが、そもそもお釈迦様は絶対者ではなく、その教えも絶対的教義ではありません。
 もちろん教義の違いが多少でもあると宗派を生みますが、同じお釈迦様を崇拝し拝んでいる人々の間では、熾烈な争いはありません。

 しかし、教典絶対主義をとり、その教典そのものを崇拝して拝んでいる宗派の場合には、その中に自然に教条主義が生まれ、他の宗派を攻撃するようになります。

 まもなく法然上人がお亡くなりになって800年になりますね。
 すでに選択本願念仏集奉戴800年記念慶讃式典やら大遠忌の準備が始まるようで、インターネットの浄土宗のホームページは賑やかです。

 法然上人は1212年に、一枚起請文というものをあらわし、その中で
 「念仏を信ぜん人は、たとい一代の法をよくよく学(がく)すとも、一文不知の愚鈍の身になして、 尼入道(あまにゅうどう)の無智のともがらに同じうして、 智者(ちしゃ)のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし。 浄土宗の安心起行この一紙に至極せり。源空が所存、この外に全く別義(べつぎ)を存ぜず、 滅後(めつご)の邪義(じゃぎ)をふせがんがために所存をしるし畢んぬ。 」
と仰っていらっしゃいますが、これは私のようなあわて者が、生半可に教典を読んで、偉そうに知ったかぶりして、いつの間にか教条主義や異端の争いなどに陥らないようにと戒めたものと思います。

 1212年という年は、ヨーロッパでは十字軍がエルサレム奪回という名目で地中海周辺で略奪と殺戮を行っていた時代で、アジアではチンギスハーンがモンゴル帝国を築いて6年目です。もしかすると、モンゴル帝国の支配で安全になったシルクロードを通って、一神教徒の教条主義と争いの様子が法然上人のところにも届いていたかも知れません。そう考えますと、死を目前にされて一枚起請文をしたためられた上人のご心境がとても切実なものに感じられますね。

 さて、この話の最後に、冒頭の約束どおり、仏教とアインシュタインの理論の関係を申し上げましょう。アインシュタインはユダヤ人の物理学者で、相対性理論でノーベル物理学賞を受けた人で有名ですね。
 そのアインシュタインのエネルギー方程式は、物質の質量とエネルギーは変換可能であるということを示す方程式で、それに基づいて作られたものが原子爆弾です。その方程式とは

 
エネルギー=質量×光速の2乗

というもので、その意味は、エネルギーと質量は、お互いに姿を変えることが出来る、つまり、物質はエネルギーになれ、エネルギーは物質になれる、というものです。皆さんには少し難しいですか。

 しかし、この方程式はまた、宇宙の全てのものはエネルギー密度の濃淡だけで説明することが出来るということも示しています。つまり、宇宙は雲のように、あるいは霧のようにエネルギーで満たされている空間で、エネルギーが極端に集まったところではエネルギーが物質になって存在し、エネルギーが薄いところでは、エネルギーは殆ど見えないガスや熱などになって存在する、ということを意味しています。

 たとえますと、あなた方と私は、そちらとこちらに別々に居るように見えますが、実はエネルギーの分布でしかない、と言うことが出来ます。つまり、あなたはエネルギー密度が極度に高くエネルギーが集中して、人という物質になったもので、私もエネルギー密度が極度に高いもう一つの集中部分です。そして、あなたと私の間はエネルギーの低い領域があるだけで、二人は切れ目なく連続したエネルギーの雲の中に存在しているのです。

 そして、そのエネルギーはアインシュタインの不確定性原理によって、確率論的に存在するだけなのです。つまり、あなたも私も、確率的に存在するだけ、という不確かな存在だと言うのです。

 このようにエネルギーと物質は相互に姿を変えることが出来るので、ワープによって宇宙空間を瞬間的に移動するということも可能と言えそうです。しかし、物質がエネルギーになると、体重50キログラム程度の人でも、原子爆弾や水素爆弾ほどの極めて大きなエネルギーになるので、地球上で実現したら危ないですね。

 さて、般若心経の中にお釈迦様が舎利弗という弟子に「色即是空」「空即是色」と教えたとありますね。これを初めて読んだとき私は、お釈迦様はきっと全宇宙がひとつの世界であることを1500年以上も前に見抜かれたのだ、と思いました。
 お釈迦様の手の中の孫悟空の話を覚えていますか? あれがアインシュタインの宇宙空間なのです。誰もその外に出る事は出来ません。すなわち宇宙は一つなのです。ひとつの閉ざされた空間なのです。

 しかもその空間は絶え間なく変化しています。新しい星が生まれ、古い星が最後を迎える、その大爆発のエネルギーが次の星の誕生につながる。そのように、全てが常に変わりつつあるのが宇宙です。そこには絶対的なものは何もありません。
 インターネットで、ハッブル宇宙望遠鏡が撮影した宇宙の画像を見る事が出来ますが、何百億個の星が、何百億年かけて現れては消え、消えては現れ、一瞬も休むことなく変わりつつある様子を見る事ができます。

 「ハッブル宇宙望遠鏡」というCDーROMの写真集が、シンフォレストという会社から2000円そこそこの価格で販売されていますから、ご興味がある方は買われて、パソコンでご覧になって下さい。そうしますと宇宙の10万億土の外はまさに地獄の世界で、その内側の太陽系の10万億土の世界がお釈迦様が達観された世界である事が分かるでしょう。お釈迦様の時代はきっと、その画像のように、夜空も良く見えたことでしょう。

 またそれは、神と言えども、たったの6日間で創れるようなものではないと言うことも、ひと目で分かる事と思います。学校で理科の時間にそのCDーROMを見ることが出来ると良いと思います。

 なお、私は10万億土の距離を計算してみました。10万億土の1土を1メートルとしますと、光で約9時間の距離、すなわち太陽系の範囲となりました。肉眼で見える範囲でもありますね。

 さて、元に戻りましょう。
万物流転、諸行無常。変化は宇宙の自然の原理なのです。あらゆる宗教の中で、仏教、とりわけ私どもの浄土教こそが、激変する宇宙や地上の世界を達観し、常に平静心で生きて行く教えだと言う事が、アインシュタインのエネルギー方程式と、ハッブル宇宙望遠鏡の観察結果からも分かるのです。

 これで、今日のお話の冒頭で申し上げた、お釈迦様と宇宙物理学は密接な関係がある、という意味が何となくおわかりになったと思います。つまり、お釈迦様の教えと物理学、宇宙物理学はひとつになるのです。

 浄土仏教を英語では Pure Land Buddhismと言います。私はこのピュアランドこそ肉眼で見える、閉ざされた私たちの空間ではないかと思っています。

 Pure Land Buddhism

素晴らしい響きですね。これが私のような物理学の人間に見える浄土教の世界です。
 ときどき静かに自分の心の中を見つめてみましょう。そして自分の「ピュアランド」を連想してみましょう。そうすればきっと、本当の自分を見つけることが出来るでしょう。そうして心の中を見つめるときの呪文、それが念仏です。

 南無阿弥陀仏

たった6文字の暗号のようなものです。それがピュアランドへの通信の信号でもあるでしょう。
 本日の私の話はこの暗号の話で締めくくりましょう。

 それでは最後にまとめますと、
まず暦の話をしましたね。暦は宗教の産物です。

次に一神教と預言者の話をしましたね。

そして神は命令し仏は語りかける、という話をしました。

それから教条主義の恐ろしさについて話して、実証主義の大切さについて話しました。

そして最後に、物質と・エネルギーの話をしました。それが色即是空・空即是色であること。

お釈迦様と宇宙物理学  難しかったですか。

 これからもイラクやパレスチナのニュースを聞く度に、この話を思い出して下さいね。私たちが浄土宗の仏教徒でいることは、本当に平和で幸せなことなのです。