Bahrain
バーレーン.1
バーレーン.2
Jordan
アジャルン
ジェラシュ
ネボ山、死海
・ショーバック
ぺトラ
アンマン
Egypt
カイロ.1
カイロ.2

中近東写真集

二つの戦争の合間に

’86春、弟の就職に珍しく両親とも付いて上京して来たと思ったら、父が海外の日本人学校の校長試験を受けに来たと言う。やられた。決まった赴任地はバーレーン。
’80.9 イランイラク戦争勃発
’87.4 両親バーレーンへ
’88.8 私とオクサン、婚約
      イランイラク戦争終結
’88.9 弟、癌のため入院
’89.3 弟、死去
      私とオクサン、入籍
’89.8 結婚式
’90.3 両親、バーレーンを離れ帰国
’90.8 湾岸戦争勃発
      チョージョ、誕生


↑コンパウンドの真ん中にあるプールサイドでご満悦の父。向こうに見えるのがコンパウンド内の各住宅。右手後ろは3、4面あるテニスコート。テニスラケットは見えるが、暑くて家から出れない!という母には余り相手にしてもらえなかったらしい。

↑コンパウンドの入口脇にある見張り小屋でウォッチマンと母。ウォッチマンは外回りの維持管理も担当。家の中のことはハウスマン。皆、インドからの出稼ぎ。彼はインドでも南のほうの出身で、こっちが半袖で暑い暑いと言っているのに、セーターに毛糸の帽子姿でお帰りなさいと立っていてビビらせてくれた。

↑居間でのパーティー。2,30人位では全然余裕。右手は我々一行。正面奥がテースデイルさん、その左が御一家、左手中ほどが教頭先生一家、左一番手前がグルムさん(バーレーン人のスクールバス運転手)。この時の料理は中華だった。母が料理人に、イスラム教徒がいるから豚肉など禁制されている素材は入れないでと頼んでおいたんだけど、グルムさんはいちいちこれは何が入っているのか確認していた。彼はシーア派なので表情がいつも厳しく、美味しく感じているのかどうかわからない。後で初めて食べた中華料理はどうと聞くと、よくわからないが、たくさん食べれた、そうな。

↑義兄(右)とグルムさんにドミノを習う。単純なルールだが、まるでグルムさんに勝てない。グルムさんのこんな穏やかな(得意げな)表情は滅多に見られない。この時身につけたドミノが後にアンマン空港で身を助けることになる..

↑義兄と当時1歳11ヶ月のメイッコ。すでにお箸でイクラを一粒づつ食べることができた。旅行中、もっともキャビアを食ったのはこやつである。 また、この十年ほど後、私たちがグルムさんの名前を思い出せずに苦しんでいると、メイッコはしっかり憶えていた。

ヘリコプターとコーランが長い時は...

実は、両親の赴任先がバーレーン日本人学校と決まった時には、あんなペルシャ湾に浮かぶ小さな島に日本人なんているのか、と首をひねった。ニワカ勉強の父曰く、アラブ圏は安息日が金曜日だし、クリスマス休暇もない、だからアラブ圏に金融市場があれば、いつでもどこかで市場が開いていることになって都合がいい、と言うことでベイルートにアラブ圏随一の金融市場があったのだけど、内戦で荒れ果ててそれがバーレーンに移ってきた。

結果、縦5,60km、横15kmほどの島に、人口40万人(60万人説も聞いたことがあるが)のバーレーン人に対して、外国人はそれ以上が住むことになった。外国人は二種に大別される。欧米や日本からの”ビジネス”民とインド、フィリピン等からの”出稼ぎ"民。地元民は三種に大別される。銀河系金持ちの王族と、一握りの富裕層(成功した商人や高級官僚)、大勢を占める一般庶民(日本的な感覚で言うと低所得層)。穏健派であるスンニ派と原理主義的なシーア派(表情が険しく目が笑わない)では、シーア派が多数。スンニ派にもビンボー人はいるかもしれないけど、王族はじめ金持ちはスンニ派。

両親が赴任した時点では、まだイランイラク戦争はホットだった。ヘリコプターが上空を飛んでいる時と、スピーカから流れてくるコーランのお祈りがいつもより長い時は逃げる準備をしなさい、現地日本人会の方から真っ先に母が注意されたこと。日本企業に勤める方々は、水を一月分確保するとともに、戦争の状態によってはロンドン行きの航空券を胸ポケットにいつも入れて働いていたとも聞く。

イギリス人でやはり教師をされていたティースデイルさんと浜辺を歩いていた時、彼は、「ちょっと前まで大きな石油の塊がいくつもいくつも浜に打ち寄せられてきたんだ。あれがなくなって、本当に戦争も終わったんだなぁと思ったよ。」としみじみ仰っていた。私たちはあの時期たった二年間だけの平和なバーレーンに行けた事になる。父の後を次がれた教頭先生をはじめとする日本人学校の先生たちは、湾岸戦争時には大変なご苦労の末、帰国された。

ナーダンくん

バーレーンへ発つ直前、母が国際電話で小型の短波ラジオを一つ買ってきて欲しいと言う。ハウスマン(門番と外回りの維持管理をするのが”ウォッチマン”、家内の掃除洗濯などを担当するのが”ハウスマン”)のナーダンくんにプレゼントするのだそうだ。彼は、20代半ば、インドの村からバーレーンに出稼ぎに来てもう何年も帰っていない。日本製の高性能な短波ラジオなら、彼の故郷の言葉を聞かせてあげられるのではないか。さっそく秋葉原で購入する。

写真では見ていたけど、着いて見ると両親の家はとんでもなかった。コンパウンドと言って、高い塀に囲まれた実に広々とした敷地の中に、12軒が”口”の字型に並んでいる。その”口”の真ん中にでかいプールとテニスコートが3,4面ある。家自体は、浴室が個別に付いたベッドルームが三つ、L字型に地続きの居間とダイニングは4,50人規模のパーティーを楽にこなせる。裏庭にも六畳間ぐらいの巨大なヨド物置があるなぁと思ったら、エアコンの室外機だった。私が幼少期を過ごした宮崎の僻地の教員住宅一戸なら、メインベッドルーム一つでお釣がきそうである。なるほど、ウォッチマンとハウスマンなしではやっていけない。

私が着いた翌日、ナーダンくんが仕事にやって来た。キラキラしたきれいな目をした丸顔の好青年だ。早速、短波ラジオを手渡す。ナーダンくんは一瞬驚いた表情をしたが、私へのプレゼントだと記念にサインして欲しいと言う。いいよ、じゃぁ、まずナーダンくんの名前を教えて。はい、とそこいらの紙に書き始めた彼の名前が長い、長い。あのね、ナーダンくん、この小型短波ラジオにとても書き切れないよ。

ウォッチマンやハウスマン、バーレーン人でスクールバスの運転手のグルムさん、みんな両親のことを慕ってくれていた。両親の帰国が迫るにつれ、ナーダンくんがめそめそし始めたらしい。彼ももうすぐ写真結婚して故郷に帰れる予定だと言うのに。母が慰めるつもりで、ナーダン、私たちはどこにでも自由にいけるのよ、ナーダンの住む村にも必ず遊びに行くからそんなに寂しがらないで、と言うと、マダム、それは無理だ、私の村まではニューデリーから汽車で三日かかる、三日くらい汽車に乗れるわよ、いやそこから象に乗って三日かかる、えっ、車でもいいんでしょう?いや、マダム、雨季は道がぐちゃぐちゃで車は通れないんだよ、じゃぁ、乾季に行くわよ、それが乾季になると雨季にデカン高原に降った雨が洪水になって押し寄せるからもっと車は通れない...やはり、両親を見送る空港でナーダンくんは語り草になるくらい号泣したらしい。

彼らも湾岸戦争の被害者だ。欧米人や日本人が引き上げてしまうと、彼らは働き先を失ってしまう。ほとんど貯金などする暇もなく故郷の大家族のために仕送りをしてしまっていたから動きようもなかった。ナーダンくんは、ちょうど湾岸戦争の時期を運良く故郷へ象に乗って帰っていた。最近の消息だと、今もバーレーンで元気に働いているらしい。