[排出ガス対策を中心にしたスバルエンジンの開発]

       山岸曦一氏 (元富士重工業(株)常務取締役技術本部長)

   インタビュアー:中村博行氏((株)スバル研究所、元富士重工業(株)理事・技監)

      時:平成11年1月19日  於:富士重工業(株)東京事業所

[はじめに]

吉沢(事務局) 本日は自動車技術史委員会のご依頼により、「排出ガス対策を中心にしたスバルエンジンの開発」と言う事で山岸様にインタービューさせて頂きたいと思います。聞き手は山岸様とご関係の深い中村様にお願い致しております。では中村様宜しくお願い致します。

中村 私は昭和38年から46年までは直接に課長と担当又は部長と課長、46年以降は福島さん(元富士重工業副社長)を中に挟んで、副本部長と課長又は本部長と部長との関係で、合計24年間山岸さんから御指導を戴いた訳で、インタビュアーの役目を仰せつかった時、止むを得ないかと思い、お引き受け致しました。

 処で、山岸さんは昭和20年9月に大学を卒業され、敗戦直後の就職難時代を米軍技師等として勤められた後、ジェットエンジンの開発をやりたくて、昭和27年に富士工業(現富士重工業)に入社され、ジェットエンジンの開発実験に携わられていたとお聞きしています。まず、大宮で開発された日本最初のジェットエンジンJO−1について簡単にお話頂けないでしょうか。  

山岸 昭和28年に通産省の補助金を得て、大宮富士工業(現富士重工業)でJO−1の開発が本格的に開始されたんです。設計は西野宏さん(富士重工業技術部副部長から日大教授)が担当した。その後、28年7月に富士重、富士精密、新三菱、石川島の4社により日本ジェットエンジン(株)が設立され、業務はこの会社に引き継がれたんです。29年末にJO−1エンジン3基の試作が完成、31年末までテストした。それから31年7月にJ−3の試作1号機が完成した。JO−1の計画推力は1トン、J−3は1トン200位ではなかったかと思う。このJ―3エンジンはうち(富士重工業宇都宮製作所)が開発したT1(日本最初の純国産ジェット中間練習機:合計66機生産)に搭載され、補用品を含め約100基位生産されたんじゃないかと思う(川崎重工の対潜哨戒機P―2J用を含めて合計247基生産されている)。私はこれらの実験に携わっていたが、昭和34年末、J−3の計画推力がほぼ達成されたのを期に富士重に帰ってきた。

中村 昭和35年に三鷹(富士重工業三鷹製作所)にお出でになり、設計管理課長になられた時から、自動車の技術部門に入られたわけですが、具体的に自動車技術に関わり始められたのは昭和38年に私達開発課の課長になられた時からだと思います。

昭和45年に技術本部副本部長、56年に本部長になられましたが、本部長を退任された昭和62年迄の24年間を振り返りますと、大きく三期に分けられるのではないかと思います。

第一は昭和40年代のモータリゼーションによる高性能化時代、第二はマスキー法を頂点とする排出ガス対策時代、第三は排出ガス対策後の、所謂、第二次商品性向上の時代です。小型系エンジンを中心にしたこの三時代を主にして、軽系エンジン、変速機および新型車に関しては特徴のある点についてお話を伺いたいと思います。

 

[昭和40年代の高性能化]

中村 はじめに、昭和40年代の高性能化時代についてお話を伺いたいと思います。  

 小型系は昭和38年頃から本格的な開発を始め、41年にスバル1000として発売しましたが、この当時は百瀬本部長、秋山副本部長がリーダーでした。初期に関してはお二人が話(インタービュー:4−12、6−1)をされていますので、これに続く昭和45年に発売したスバルFF−1・1300G,46年発売のレオーネ1400、それからSEEC−Tを採用し昭和50年に発売したレオーネ1600までについて先ずお話を伺いたいと思います。

山岸 百瀬、秋山の御両人は開拓時代のリーダーで陣頭指揮された。

 私の時代になると、組織も部下もそれなりに充実し、又商品企画も軌道に乗ってきており、陣頭指揮は必ずしも必要では無くなっていて、開発環境の整備とエポック毎の決断をすれば良い状態になっていたと思っている。私は特に開発環境の整備に力を入れた。

尚、私が本部長になった昭和56年以降は、福島さんが副本部長としてエンジン関係(変速機を含む)の面倒を見てくれたことを断っておきたいと思う。

処で、話は10数年から30数年前の事であり、忘れている事も多いと思うが、中村さんが調べてくれたエンジン仕様(表1、2)や諸資料(図1、2、他)も参考にしながら話をしたいと思います。

当時を振り替えると、日本経済の高度成長期に当たっていた為、同一車格でも居住性についての要求は年々強くなり、このため、車重はモデルチエンジ毎に増えていた。動力特性については更に強い要求があり、エンジン出力のアップは車重の増加以上に必要だったんです。エンジン出力の向上にはCC(行程容積)アップが常道だが、生産設備の変更には莫大な資金が必要で、このため設備の変更を最小限にしてのCCアップに注力した訳です。 

ご承知の様に、CCアップにはボアアップとストロークアップがあるが、水平対向エンジンの場合には色々な面でボアアップが有利であり、それで1000ccから1600ccまではシリンダー間隔即ちボアピッチを変えずにボアアップによるCCアップを行ってきたんです。 

中村 先ず、1300G用1300ccエンジンについて。

山岸 1300Gでは1100ccのボア76mmから82mmにボアアップし1300ccにした。更に充填効率の向上も図り、出力を向上させた。

セダンの出力は80PSで、1100ccの62PSから大幅にアップし、リッター馬力も57PSから63PSへ向上した。スポーツ仕様は93PSでリッター当り73PS出しているね。  

その結果、クランク軸やメタルが非常に厳しくなった。

クランク軸については隅R部にフィレットロール加工を施し、強度を30%以上向上させた。フィレットロールの加工仕様を決めるのに担当の皆さんは色々と実験していた様だね。

メタルは大同メタルさんに耐荷重性の優れた錫30%含有アルミ合金のA−30と言うメタルをスバル向けに改良して貰った。受圧能力に関しては、アルミケースのためメタル温度が鋳鉄エンジンに比べ約10度位低かったらしいが、これも幸いしたと思っている。

又、鋳物は今までのグラビティ方式から鋳密度の高いアキュラッド鋳物に変更した。この様にしてCCアップの問題点を解決し、高出力エンジンに纏め上げる事が出来たと思っている。

中村 高性能の例として、0−400mの加速時間が16.2秒であった事を上げる事が出来ますね。

当時の一般車は20秒前後でしたから1300Gが如何に高性能だったかが判ります。

山岸 又、このスポーツ仕様のエンジンは装備質量が93kgで93PS出ており、馬力当り質量は1kgで、航空機用レシプロエンジンの0.5kgには及ばないが、自動車用エンジンとしては抜群の軽量高性能エンジンだったと思う。

中村 昭和46年に発売した1400では。

山岸 長島さん(元富士重工業専務)から1400にしろと言われた時、私は必ずしも大きくする事には賛成し兼ねたが、上からの命令だから、82mmから85mmにボアアップした。後での想像だけれども、長島さんはこの時、排気対策で出力が落ちると予想されていたんだろうと思う。

処で、技術的に苦労したのは予想通りガスケットだった。鋳鉄ライナーとアルミケースの長さの差(出代)が環境条件や運転条件によっては最大0.15mm位変化するが、これをガスケットが吸収しなけりゃならん。ボアアップに伴ってガスケットに対する条件が益々厳しくなり、これを解決するのには苦労した。

中村 具体的にはどんな対策をされたのですか。

山岸 具体的には、グロメットの幅や枚数を増やしたり、グロメット先端部にワイヤリングを入れたり、局部的にスチールプレートによる面圧補強を行ったりして対策したが、担当者は寝食を忘れて頑張ってくれたね。

尚、水漏れ、ガス漏れを防止する為にはライナー出代の精度を確保する必要があるが、このためシリンダーケース、ライナー、下の銅ガスケットを選択して組み立てており、少量生産時代では何とかやれたが、この頃から対米輸出が大幅に増え、この多量生産化には生産部門に苦労をお掛けした。多量生産向きには厳しい設計ではなかったかと思っている。

これが次の1600ccのドライライナー化の一つの大きな切っ掛けになったわけです。

中村 この時点から排出ガス規制がやや強まり、このために温水予熱やオートチョークを採用し、排気ポートを集合型にしたりしましたね。  

処で、SEEC−Tシステムを搭載し、昭和50年に発売した1600では。

  (SEEC=Subaru Exhaust Emission Control、T=Thermal & Thermodynamic Control)

山岸 1600にする為にはボアを92mmにする必要がある。エンジンの基本寸法であるボアピッチを変えずにボアアップすると、ボアとボアとの間が11mmとなり、今までのウェットライナー方式ではガスケットの問題が解決出来ないと思った。

このため特殊鋳鉄製ライナをアルミ合金ケースに鋳込んだドライライナ方式に挑戦した。はじめはアルミと鉄の間にガタが出来たり、鋳物に巣が出来たり、又ライナーが傾いて鋳込まれたりした。色々トライして貰ったが、最終的にはガタ問題はライナーを300℃前後に温めて鋳込んで解決した。倒れに対しては幅木の押え方の改善や、湯流れの速度をコントロールして解決した。これには生産技術部の大きな協力があり感謝している。この様にしてドライライナーの問題点を解決して、採用する事が出来、これで、ガスケットの問題からは一応開放され、ホットした。

尚、排気対策は色々屈曲があったが、最終的にはSEEC−Tシステムを採用した。

中村 スバル小型系エンジンの開発に当たり、出力性能の外に何か商品性の改善に注力された事は。

山岸 特に異音の改善に努力して貰った。当初はタイミングギヤのバックラッシュによるアイドルラッシュ音やクランク軸隙間によるメタルスラップ音等があったが、これらは割合早い時期に解決できた。

ゴロゴロ音と言うトーボード辺りから湧いて出てくる様な音や特定の車速で変速機部から出るジャー音等の対策には相当力を入れたが、これは中村さんが担当したんだったね。

中村 はい。ゴロゴロ音の原因はクランクジャーナル部のクリアランスが一種のガタ作用をし、エンジン起振力が単純理論での偶数次数成分だけでなく、ハーフ次数成分を含む事になり、これがエンジンマウント系を通って車体のトーボードやフロアを加振し、ゴロゴロ音が発生しました。水平対向エンジンの場合はクランク軸に左右から両ビンタを食わせるようなもので直列エンジンよりこのハーフ次数成分が非常に大きい。これが問題で、対策としてはクランクジャーナル部の軸受けメタルの選択組み付けや、パワーユニットをマウントしているクロスメンバーの取り付け位置の変更等を行いました。フライホイールマスの影響も大きかったが、マニュアルトランスミッションでは簡単には減量出来ませんでした。オートマチックトランスミッションはフライホイールマスが小さいのでゴロゴロ音では楽でした。

ジャー音は、エンジンから車体までの駆動系の振動で、この2節モードではミッションの主軸部が腹になり、この主軸と噛み合っているアイドラーギヤとの間に衝突現象が生じるために出る音です。これも色々な対策を試みました。それでも二つとも残念ながら完全には解決する事は出来ませんでした。

山岸 今はどうなっているの。

中村 ここ数年スバル研究所のCAEグループがこれらの理論解析を行っており、かなり精度良く解析できるようになりました。対策案も色々出ています。

 

[排出ガス対策]

中村 処で、第一期の高性能化時代はこれ位にして、第二期の排出ガス対策時代に移りたいと思います。排出ガス規制を簡単に振り返りますと、 

排出ガス規制は1966年に米国加州で始まり、68年には米国連邦で実施され、更に70年には排ガスを現状の十分の一に減らすと言う、技術を度外視した環境中心主義の、所謂マスキー法が成立しました。(Clean Air Act 70:75年規制、76年規制)

これはその後徐々に延期されて現在の規制値体系になりましたが、日本ではマスキーの初期値を略そのままmileからkmへ単位換算して日本版マスキー51年、53年規制が作られました。

処で、当社は69年に米国に小型車の輸出を始めましたが、すでに排出ガス規制があり、これに対処しなければならなかったと思います。先ず、米国への輸出の動機や排出ガス対策システムの調査・開発の方法等についてお話を伺いたいと思います。

山岸 昭和41年に、自工会の調査団の一員として米国に行った時、米国日産の社長から米国への輸出が如何に前途洋々たるものであるかを聞かされ、その気になったものです。当時、当社のトップも同じ思いであったろうと思う。

昭和43年にSOA(Subaru of America)が設立され、スバル360の米国向け輸出を開始したが、残念ながらスバル360はアメリカの国情に合わず輸出を中止した。このため、SOAは小型車、具体的にはスバルFF−1の販売に執心したんだね。  

排気対策については、昭和41年の秋、研究課長だった鈴木信宏さん(自工会排出ガス試験法分科会長を長らく務めた)が排気ガス担当主査になり、排出ガスに関する規制動向や対策技術の情報を収集してくれた。これを基に輸出への準備を進めたんです。

中村 69年から74年の所謂マスキー以前の対策はどうだったんですか。

山岸 69年から71年の間は排出ガス規制はそれ程厳しくなかったが(Federal規制値はHC=3.4grams/mile,CO=39g/m,NOx=3.0g/m)、初めての排気対策であったから、確実を期して、エンジンモディフィケーション+エアインジェクションで対応した。 

72年から74年の頃になると排気対策についてもある程度勉強できて、エアインジェクションポンプを廃止して気化器改良を中心とする対策とした。

具体的にはオートチョークの採用、減速時のHC対策、点火時期改良等だったね。

California規制値は74年からNOxが2g/mになったのでEGR(Exhaust Gas Recirculation)を追加した。

中村 75年規制にはどう対処されましたか。 

山岸 75年になると、本来ならマスキー法が適用される年だったが、これが延期され、Federalの規制値はNOxはそのままの3.1g/mだが、HC,COが74年の約半分(HC=1.5g/m,CO=15g/m)になったので、再度エアインジェクションポンプを使用し、排気系はサイアミーズ排気ポートを採用した。CaliforniaはHC=0.9g/m、CO=9g/m、NOx=2g/mとなったので、エンジンモディフィケーションを更にチューニングして対策した。

中村 次はいよいよマスキー対策ですが、70年に決まったマスキー法の規制値は75年はHC=0.41g/m、CO=3.4g/m、NOx=3.1g/m、76年はNOx=0.4g/mで、これには各社共青天の霹靂だったと思います。しかし各社とも同じ点からの出発であり、ある意味では遣り甲斐のある仕事だったとも思っています。このマスキー法に対する当社の対処について話をして頂けないでしょうか。

山岸 組織的には、長島さん(技術担当常務)を長とし、関係部門の本部長・副本部長・部長をメンバーとする排気対策委員会が設けられ、各自が問題を抱え込まないように迅速な会社の意思決定を行う様にした。

又、実行部隊としては今までは排気対策システムの開発は設計課、開発課、実験課、ガスの分析は研究課とばらばらに行っていたのを、昭和46年に排気ガス課を新設して設計から実験・計測まですべての開発を集中して行うようにした。そして中村さんを課長にした。

中村 個人的な話になりますが、エンジンの燃焼を知らない変速機実験課長だった私を排気ガス課長にされたのはどうしてだったんでしょう。言い渡された時は天井を仰ぎながら山岸さんの部屋を出ました。

山岸 余人を持って代え難かったから。アッハッハ。排気対策と言えども最終的には車に載っけて走るのだから車の事を良く知らない人では困ると言うことで中村さんにした。中村さんはエンジン性能や振動や変速機をやってきており、それで排気ガスもやって貰おうと思った。

中村 処で、具体的な技術としては。

山岸 サーマルリアクタ、酸化触媒、還元触媒、EGR、二次空気噴射・導入等のハードウエア、それからエンジンから出るベースエミッションを低減する為のエンジンモディフィケーションについて研究した。サーマルリアクタは熱の問題で早期に採用を諦めた。

中村 これは私が担当する前ですね。

山岸 そうかも知れん。触媒は昭和46年冬に福島さんが世界中を廻り、各触媒メーカーから試作品を入手出来るように手を打ってくれた。  

酸化触媒はエンゲルハルト、UOP、ジョンソンマッセイ、デグッサ、日本触媒等の試作品についてスクリーニングを行い、その中から数十種類について実機テストをして、最終的には二社に絞り込んで貰った。だがそれでも、触媒は定常流、一定温度の化学プラントならOKでも、温度や流速が大幅に変動し、さらに振動が加わる自動車に使って大丈夫かと心配だった。

中村さんはこの途中から担当したんだったね。

中村 はい、触媒メーカーに関しては、エンゲルハルトのムーニーさん、UOPのオニールさん、ヒエラさん、コーニングのウラニックさん等懐かしいですね。福島さんと共に親しく付き合いました。還元触媒はデグッサ、カリケミ、東洋CCIそれからグールド等の物についてテストしましたが、まだ完全には絞り切れませんでしたね。

山岸 還元触媒は問題が大きかったんだろうと思う。参議院の議題にもなり、当社からは長島さんが参考人として出席され、我々二人もお供をしたね。グールド社は実用になると主張していたが。

中村 そうだったですね。それから更に、三元触媒(3WC)についてもテストをし、ウィンドウ特性やパータベーション特性位までは調べましたが、この当時、三元触媒システムはまだ先のシステムで、数年後に生産化するとは思っていなかったですね。

山岸 そうだったね。それから、点火装置は失火防止の為フルトランジスターを採用することにした。

中村 それでも失火は大問題と思い、1気筒失火や2気筒同時失火等が触媒や他の装置にどんな影響を与えるかについて、色々実験をしましたね。

山岸 処で、当社の水平対向エンジンはボア/ストローク(比)が大きくアルミであるため冷え型であり、又、バルブのオーバラップが大きく取れ、内部EGRを割合大きくとる事が出来た。

中村 ボア/ストローク(比)が大きい上に、バスタブ型燃焼室のため燃焼室の表面積/容積(比)が非常に大きく、これが冷え性の原因だったですね。又、バルブのオーバラップもセダン40度、スポーツ80度であり、直列エンジンの10〜20度に比べて非常に大きかったですね。

山岸 これらのために直列エンジンに比べてNOxの発生が少なかったと思う。それでもエンジンモディフィケーションは基本的にNOx,HCと燃費とのトレイドオフであった。NOx,HCの規制値が厳しくない時には燃費は殆ど悪化しないが、厳しくなって行くにつれて燃費はかなり急激に悪化したね。

中村 そうだったですね。処で、73年(昭和48年)時点では、初期のマスキー値に対してはどんなシステムを考えておられたのですか。 

山岸 73年時点では、皆さんの提案通り、75年規制に対しては、エンジンモディフィケーション+空気噴射又は導入+酸化触媒、Californiaは+EGR 所謂SEEC−B、76年規制に対してはエンジンモディフィケーション+還元触媒+空気噴射又は導入+酸化触媒+EGR、SEEC−Cを第一候補システムとしていた。

触媒にはモノリスタイプとペレットタイプがあり、両方試験をしていたが、EPAが車の寿命中一回の触媒の交換を示唆だったか要求だったかしたのと、国内でも途中での触媒交換を義務づけられた為、ペレットタイプを本命として開発を進めた。ペレットのアトリッション対策には皆さん苦労したね。

中村 色々苦労しました。処で、マスキー法は各社の開発状況(Status)を毎年EPAへ報告する事を義務づけており、当社も毎年Status Reportを提出していました。これら各社のStatus ReportやNAS(National Academy of Science)の報告、EPAのヒアリング、又ガバメントーインダストリー会議等の影響もあって、マスキー値の実施は延期され、中間値が設定されました。

特にFederalのNOxは76年まで3.1g/m、80年まで2g/mとなり、当社のエンジンは、元々NOxの発生が少なかったので、エンジンモディフィケーションによる燃費悪化が少なくなる事になりましたが。

山岸 触媒の耐久性や貴金属の確保に対して不安があり、スバル独自のシステムとしてエンジンモディフィケーションを中心とした触媒を使用しないシステムをバックアップとして開発していた。

規制値の緩和により、このシステムで米国75、76年規制をクリアできる様になり、更にチューニングして国内51年規制もクリアできる様になった。ここで、このシステムをSEEC−Tと名付けて、これを第一候補にし、SEEC−B、Cをバックアップシステムに変更した。 

( 米国75〜76年規制: Federal;HC=1.5g/m、CO=15g/m、NOx=3.1g/m 。California;HC=0.9g/m、CO=9.0g/m、NOx=2.0g/m。 国内51年規制:HC=0.25grams/km、CO=2.1g/km、NOx=0.6g/km )

中村 SEEC−Tシステムの開発の切っ掛けは。

山岸 対米輸出車の初期モデルの排気対策システムはエンジンモディフィケーション+エアインジェクションであり、エアポンプで加圧された空気をチェックバルブを通して排気孔に噴射していた。

実験の途中で、偶々、エアインジェクションポンプとチェックバルブ間のホースが外れていたのに二次空気を吸い込んでいるのを実験担当者が発見したそうだ。これが切っ掛けで二次空気導入システムの開発・改良に努力して貰った。当社のエンジンは先程述べたように他社の直列4ストロークエンジンに比べてNOxの排出レベルが低かったので、これら二つの事柄を上手く組み合わせて触媒の要らないシステムは出来ないかと実験を積み重ねて貰った。

中村 SEEC−Tの原理についてお話頂けませんか。

山岸 私が話すの。

中村 山岸さん御自身が雑誌「内燃機関」に発表されていますから。

山岸 SEEC−Tの原理は基本的にはNOxの低減は最高燃焼温度を低下する事、HC,COの低減はリーン燃焼と膨張・排出行程の燃焼ガス温度を高める事です。

NOxに関しては、元々このエンジンは冷え型で且つ内部EGRを多く出来るエンジンであり、NOxの排出が少ないので、米国3g/mレベルでは燃焼を遅らせる必要は無く、2g/mレベルでは外部EGRを用いて対策でき、1g/mレベルになると点火時期のリタードが必要になった、のではなかったかと思う。

COは空燃比でほぼ一義的に決まるが、SEEC−Tの場合には二次空気を導入しており、これが直列エンジンに比べて非常に大きい吸排気バルブオーバラップ期間にシリンダー内へ大量逆流し、層状となり燃焼を悪化する事無く、全空燃比が大幅なリーンになるため排出COが低減した。

HCは膨張・排出行程の燃焼ガス温度を高める事で低減しているが、これだけではシリンダーからの排出レベルは充分ではなく、SEEC−Tでは排気ポートを集合型にし、ここにポートライナーを入れて、排気ガス温度を700〜750℃以上にし、HC・COの更なる低減を図った。

中村 次に、SEEC−Tの具体的な仕様ですが、これらは点火時期・圧縮比・バルブオーバラップ等の適正化によるエンジンモディフィケーション、二次空気導入用のASV(Air Suction Valve)、集合排気ポート・ポートライナ・二重構造排気管等の排気保温構造、吸気予熱,気化器改良、Full Transistor Igniter、それからEGR 等ですが、特に注力された点は。

山岸 特に二次空気導入のASVシステムの開発と、断熱用のポートライナーの仕様決めには、開発を担当した諸君が本当に生き生きと寝食を忘れて頑張ってくれたね。

中村 処で、日本版マスキーである国内51年、53年規制対策は。

山岸 はじめは対米マスキー対策仕様と同様に触媒方式のSEEC−B、Cを第一候補としていたが、触媒に対して不安があったし、自力で生産できるSEEC−T方式で規制をクリアできる様になったのでSEEC−T方式を採用した。 

国内51年規制(HC=0.25g/km、CO=2.1g/km、NOx=0.6g/km)に対しては初期のSEEC−Tで対応した。

中村 国内53年排出ガス規制ではNOxが0.25g/kmと大幅に厳しくなり、更に昭和51年度審査から10モード燃費値が公表される様になりましたが。

山岸 53年排対仕様車(New Leone)は51年仕様に対し,EGR,ATC(吸入空気温度自動調整装置)等を追加した。更に排気系の断熱特性を向上し、エンジンモディフィケーションをチューニングして対応した。10モード燃費は1.6Lエンジンで12.5km/L(Liter)だったね.

中村 国内では「明智君判るかね」と大分宣伝しましたね。

山岸 あれで、技術部門だけでなく営業・ディーラーを含めてみんなが纏まり、販売が促進されたのではなかったかと思う。

中村 SEEC−Tを採用した米国輸出車についてお話頂けませんか。

山岸 76MY(Model Year)からSEEC−Tシステムを採用したが、76MY車では触媒なしで燃費33mpg (miles/gallon)を記録し、触媒使用のGMのシベット、日産のダットサンB−210と共にEPA燃費NO.1になった。これはSEEC−Tが作った一つの大きなエポックだったと思う。

中村 SEEC−Tの開発途中でアイシングが発生し、問題になりましたが。

山岸 アイシング対策について振り返ってみると、1300ccまではサブラジエータから一部予熱空気を取り入れる方式を採用していた。1400ccではサブラジエータを廃止したので、排気管加熱による吸気予熱方式を採用した。SEEC−Tの時、排気系を二重管にしたので吸気予熱が不充分になり問題が発生したね。米国の寒冷地走行試験で、気化器のメインアイシングが起きた。

SCV(Sealed Crankcase Ventilation )ホースを保温したりしたらしいが不十分で、最終的にはSCVをPCV(Positive Crankcase Ventilation)方式に変更して対策してくれた。このシステムでは、エアクリーナのクリーンサイドから新気をクランクケースに吸い込み、ブローバイガスはPCVバルブを通して吸入管へ戻した。これで、アイシングは一応解決したね。

中村 今までの話の如く、国内も米国もSEEC−Tで一応排出ガス対策は出来ましたが、規制が厳しくなるにつれ、燃費や静粛性などの商品性の劣化は否めず、これらの改善・向上が必要になってきました。

具体的には、米国のFederal規制値はこの図(図1)の如く、80MYでHCが0.41g/mに、81MYではCOが3.4g/m、NOxが1g/mと急激に厳しくなり、更にCalifornia規制値は81MYからHC=0.41g/m、CO=7.0g/m、NOx=0.7g/mとなり、燃費値の維持が難しくなっていました。

又、78MYからCAFE(Corporate Average of Fuel Economy)規制が始まり、規制値はこの図(図1)の如く年々厳しくなり、SEEC−T方式では82MYの規制値24m/gをクリアする事が難しくなってきました。

山岸 このため、次代のシステムとして開発していた三元触媒方式への転換を考え、常務会へ提案した。常務会では中村さんに補足説明をしてもらったね。

中村 排出ガス規制、燃費規制、それから当社の燃費の動向(第1図の様なもの)を示しながら、「新しいシステムにすると、原価はA万円高くなるが82MY時点で燃費はBmiles/gallon 良くなります。」と説明すると、大原社長は「A万円でBmileだな」と呟きながら納得してくれましたね。

山岸 そうだったね。

中村 その後、エレベータなどで、社長にお会いすると「A万円でBmileだったね」と声を掛けてくれました。福島さんが「社長は一旦納得した数字は中々頭から抜けないんですよ」と言っておられました。

処で、国内では、昭和54年6月に省エネ法(エネルギーの使用の合理化に関する法律)が制定され、燃費基準値(例えば昭和60年時点750〜1250kgで13km/L)が告示され、触媒の交換が不要になりましたが。

山岸 これらの環境変化に加え、次代システムとして開発を続けていたモノリス三元触媒システムの信頼性が向上していたため、業界のトップを切って昭和54年から、将来本命と目されたモノリス三元触媒システムに切り替えた。

中村 SEEC−T方式を採用し、ペレットタイプの触媒コンバータを使用しなかったのが、国内販売車のトップを切ってモノリス触媒システムを採用できた一因だと思います。ホンダさんも当社に続いて、CVCCからモノリス触媒方式に切り替えましたね。

山岸 排気対策システムはエンジンモディフィケーション+空燃比フィードバック無し三元触媒+EGR だった。10モード燃費はSEEC−Tの12.5km/Lから14.5km/Lに向上し、省エネ法の燃費基準値をクリアする目処も立った。

結果的には昭和60年の当社の小型系企業平均燃費は13.1km/Lで、何とか省エネ法の基準値(13.0km/L)をクリア出来て一安心したものです。

中村 採用された三元触媒は。

山岸 サブストレートははじめはコーニングの300セル、後でエヌコア経由でコーニング、日本碍子両社から購入した。触媒は貴金属が白金とロジュウムで日本エンゲル製、ロジュウムの値段の高いのには悩まされた。又、キャニングではガス抜け対策に担当者は大分苦労したらしいね。

中村 担当者は大変苦労していました。処で、対米車はどうされましたか。

山岸 81MY以降は厳しい排出ガス規制に対応すると同時に燃費及び商品性の向上を狙って、エンジンモディフィケーション+空燃比フィードバック+三元触媒+EGR を採用した。

試験モードの違いにより、実質的には米国の方の規制が厳しいので、空燃比フィードバック方式を採用した。このために、予め、中村さんに空燃比フィードバック方式の燃料供給装置の調査を頼んでいたね。

中村 昭和49年から電子制御式燃料噴射システム(EFI)の開発を本格的に始めていましたが、まだコストが高かったので、もう少し廉価なシステムをと思い、調査しました。当時の米国ではThrottle Body Injectionの開発が全盛でしたが、気化器方式の物を調査しました。Holley(社)はエアブリード制御、Carter(社)はメインジェット制御方式でした。日立さんはHolleyとの関係で、エアブリード方式のECC(電子制御気化器)を開発された。私は熱と応答性の点でCarterの方がやや良いのではないかと思いました。

山岸 空燃比フィードバック方式には中村さんが言う様に、EFI(電子制御燃料噴射)とECCがあったが、ECCを先ず採用した。

中村 ECCを採用された理由は。

山岸 EFIはこの時点ではまだコストが高かった事もあるが、ECCなら例へECU(Electronic Control Unit)が故障しても車は動くが、EFIの場合は動かなくなる。これが決め手だったね。車が動かないと言う事は極寒地のある米国では致命傷であると言う事でECCを採用した。始めは日立製のECCを採用した。

中村 日立に続いてCarter製ECCも採用されましたが。

山岸 当時、日米の輸出入のインバランスの点から、米国部品の輸入の要求が強かった。気化器は最重要機能部品ではあるが、技術的な事は中村さん達の調査で大体判っていたので、其の点は余り心配しなかった。金額の割に容積が非常に小さいので、輸入に踏み切った。

中村 当時1ドル220円位ではなかったかと思いますが、円高になれば気化器が安くなり儲かるし、円安になれば、車が高く売れるので気化器が少々高くなっても全体として儲かるから輸入しても良いだろうと企画本部長が言われたのを覚えています。

処で、ECC導入当初、春先に冬ガソリンが使用されると、車両サージが発生すると言う不具合、所謂 Hot Fuel Problemが発生しましたが。

山岸 これは、気化器のフロート室の温度が高い場合、蒸気圧の高い冬ガソリンを使用するとフロート室内のガソリンが沸騰して気泡が発生し、ジェットを通る燃料が気泡を巻き込む為である事が判った。担当者に頭の柔らかいのがいて、鍋で水を沸かす時の事を思い出したらしい。蓋をしてお湯を沸かすと沸騰し吹き零れる。この時蓋を取ると吹き零れが止まる。更に、湯面に息を吹きかけると沸騰が止まる。この現象を利用して、フロート室の温度が高い場合には、外気をフロート室に導入しフロート室内のガソリン蒸気をインナーベントから吸入管内へ流し、フロート室の液体ガソリンの沸騰を防ぐと言うスバル独自のFCV(Float Chamber Ventilation)システムを開発してくれたので、これで対策出来た。

この対策試験にCarterの評価試験法が非常に役立ったと聞いている。

中村 この他にCarter採用で何かメリットがありましたか。

山岸 純技術的ではないが、技術部門の海外メーカとの交渉能力が飛躍的に向上したと思う。

中村 82MYで、ECCのECUをアナログからディジタルに変更しましたが。

山岸 基本的には技術動向の先取りです。当然ながら技術動向はディジタル化、IC化であると思った。アナログECUは基本的にディスクリートの回路で部品点数が非常に多く(150点以上),それだけ故障の可能性も大きい。ディジタル化、IC化により部品点数を減らし故障の可能性を低減するだけではなく、電子部品の故障診断が可能になった。これはディジタル化の大きなメリットだったと思う。

中村 ターボ車に国内57年、対米83MYからMPI(Multi Point Injection)式の燃料噴射(EFI)を採用しましたが、その理由は。

山岸 ターボの場合、コンプレッサーの後に燃料供給装置を置くのが一般であり、気化器の場合には加圧気化器が必要です。このため、加圧場でも燃料供給できるMPIを採用した。この時点では、MPI+空燃比フィードバック+三元触媒 のシステムは一応開発出来ていた。

尚、ECCの生産経験でECUの信頼性の確保が出来ていたのも大きく役立ったね。対米85MYから燃費向上の為、NA(Natural Aspiration)の一部車種にもMPIを採用したと思う。

中村 燃料噴射システムの場合、空燃比を制御する方法としてL−JetroとD−Jetroがありましたが、

L方式を採用した理由は。

山岸 LかDかについては色々討議したが、結果的には、D−Jetroはデバイス的には廉価だがEGRをかけた時の空燃比の制御精度の確保が当時の当社の制御技術力では難しいと思い、L−Jetroを採用した。

 

[第二次商品性向上]

中村 三元触媒方式の採用により、燃費は一応回復・向上しました。これと並行して更なる燃費低減、高出力及び静粛性の向上等を図って来て、ここから所謂第三期の第二次商品性向上の時代に入るわけです。具体的エンジンに関してお話を伺いたいと思います。

先ず、昭和54年に発売したThe New Leone用EA81、1.8Lエンジンについて。

山岸 EA81エンジンの開発の主眼は今までの排出ガス対策第一主義から本来の商品開発への移行で、出力性能,燃費,運転性,静粛性の向上を図った。

先ずボア95mmの確保の為、ボアピッチを103mmから106mmに広げた。それからストロークを60から67mmに伸ばして1800へCCアップし,出力向上を行った。出力は100PS,15kgf・m。排出ガス対策システムをSEEC−Tから三元触媒方式に変更し,更にCFC ( Coasting Fuel Cut ) を採用したりアイドル回転数を下げたりして、燃費及び静粛性の大幅な改善を行った。10モード燃費は14.5km/Lで、EA71・SEEC−Tに対し約16%向上したと思う。

中村 EA81の対米仕様は。

山岸 対米仕様は81MYとしてECC+3WC+EGRの方式を採用した。NOxが2g/mから1g/mと非常に厳しくなったにも拘わらず、CAFEは80MY(SEEC−T)の約28m/gに対して,約31m/gになり10%以上改善できたね.

中村 更に国内昭和57年、対米83MYにはターボ車を追加されましたが。

山岸 ターボを採用し、過給圧350mmHgで最高出力118PSが得られた。出力を最大限に引き出す為、点火時期のノックフィードバック制御を行なった。このため、タペットノイズを無くす必要が生じ、ハイドロラッシュアジャスター(HLA)を採用した。

中村 HLAの採用には色々ご苦労があったのではないでしょうか。

山岸 HLAの採用により、目的のタペットノイズは無くなったが、時たま起動時に大きな音が出た。このエンジンはOHVでタペットは水平に置かれているので、エンジン停止時にHLAのリザーバのオイルが抜けて問題が出る事が判った。これは水平対向エンジン特有のものではないかと言う事で、他社の水平対向エンジンを調べたらやはり出ると言う。「音が消えるまで回せ、異常ではない」とサービスマニュアルに書いてあったそうな。

対策としてはタペットの外側に厚さ1mmのブッシュを設け、オイルの自重によるリザーバ内負圧とブッシュとのクリアランスでのオイルの毛細管現象による力とをバランスさせる事で解決した。この担当者も柔らかい頭の持ち主だなと感心したものです。

中村 開発の途中でターボがらみの問題も発生しましたね。

山岸 急加速からアクセルを戻すとボーツという溜め息音(サージ音)が発生したね。この周波数成分は7〜800Hz位だったと思うが、エアクリーナケースにこの周波数帯を減衰するような特性を持たせて解決してくれた。

又、初めは空冷ターボで試作したが、ベアリング部の油温が高くなり黒化問題が起きたので、結果として水冷化した。

中村 次に昭和59年に発売したAll New Leone用EA82エンジンの開発の基本概念はどんなものだったのですか。

山岸 基本概念はフラットな高トルク化、燃費改善、静粛性の向上、メインテナンスフリー化等だったね。

中村 具体的には。

山岸 先ず、出力特性をよくする為に、OHC化した。OHC化は基本的には高出力を狙うものだが、ここではバルブ開角を小さくして高出力より低速トルクの向上を行い、使いやすいフラットな高トルク化を図った。出力はNA車(燃料供給装置はECC)で100PS,ターボは400mmHgで過給圧制御を行っており、135PSを出した。

中村 今までのOHVエンジンでは、高速で長時間走行した後、一時停車するとアイドリングが不安定になる問題がありましたが、これは油温が高くなり、プッシュロッドがシリンダーケースより伸びてバルブが突き上げ気味になる為で、これを解消するのもOHC化の目的の一つだったのではないでしょうか。 

山岸 それもOHC化の原因の一つだったね。

次に、燃費はノックセンサーによる点火時期フィードバック制御、CFC、フリクション低減等により低減を図り、10モード燃費はFE(FuelEconomy)車で16km/L,ECC車で14km/L, ターボ車で13km/Lを得た。FE車の16km/Lはクラストップだったと思う。    

尚、対米輸出車の84MYのCAFEは 33.3m/gで、これは私の在任中の最高値だったのではないかな。

中村 対米輸出車の燃費の経緯はこの図(図1)に示してあります。

山岸 又、HLAの採用により、静粛性向上,メインテナンスフリー化を行った。

中村 HLAではEA81ターボとは異なった問題が出たと聞いていますが。

山岸 EA82ではエンドピボット式のOHCにしたので、タペットクリアランス調整が難しく、このためHLAを全面採用した。このエンジンでは、HLAのせり上がり(ポンプアップ)と言う現象が出た。これは供給油圧が高過ぎると生じる事が判り、HLAへの供給油圧を低く抑える事で解決した。

中村 昭和62年にアルシオーネにH−6のエンジンを搭載されましたが。

山岸 EA82型4気筒エンジンをベースに6気筒化したもので、エンジンCCは2700CC、出力は150PSでした。技術的な特徴は動弁駆動系の改良だった。6気筒化の為、タイミングベルトが厳しくなり、対策として、芯線のチューニング、歯形の改良、噛み合い率の向上、拡幅等を行った。又、耐温度性を上げる為に材質をネオプレンからHNBRに変更した。

尚、張力を適正化する為にはじめてオートテンショナーを設けた。

中村 又、ハイオクだけでなく、レギュラーガソリンも使用出来るように、 点火時期学習制御を採用しましたね。

これは二枚の点火時期特性マップを持っており、ノックセンサーによる学習で最適点火時期特性を内挿する方法でしたね。

山岸 そうだったかね。具体的な事は中村さんの方が詳しいわ。

中村 処で、小型系エンジンの開発を振り返って見ますと、

今までは、スバル1000をベースにして、数回のボアアップと1回のストロークアップを中心に改良を加えてき、諸性能も商品性も一応排気対策以前のレベルを超えたと思います。

処が、基本構造不変のままの改良の為、改善したい個所が方々に生じて来ており、ここで心機一転、新エンジンの開発を指示されました。このエンジンの主な狙いは。

山岸 このエンジンの主な狙いは

OHC4バルブ化とセンタープラグによる高性能・低燃費化、

クランクジャーナルの5ベアリング化による剛性と静粛性の向上、

HLA及びオートテンショナーの採用によるメインテナンスフリー化、

オープンデッキでハイプレッシャーダイキャストによる生産性向上、

それから燃料供給系をすべて気化器を止めて燃料噴射方式にすることだったと思う。

このエンジンは長岡さん(元富士重工業専務)の時(平成元年)にレガシーに搭載されて発売されたが、性能も商品性も素晴らしい物になったと思っている。

中村 私は今も初期のレガシーに乗っています。13万km位走っていますが、まだ好調です。

 

[軽系エンジン]

中村 小型系はこれ位にしまして、軽系エンジンに話を移したいと思います。

昭和33年にスバル360を発売しましたが、この時の出力は16PSでした。

先ず、48年排気対策以前の開発状況はどうだったんでしょうか。

山岸 私は昭和38年、丁度第一回鈴鹿グランプリで負けた直後に開発課長になり、2ストロークエンジンは吸掃排気ポートと排気系のチューニングで出力は大幅に向上する事に感心しながら開発を見守っていたが、次の昭和39年に鈴鹿グランプリで優勝出来た。この時のノウハウを用いて、43年に36PS(100PS/L)の出力を持つヤングSSを発売した。このエンジンの特徴は硬質クロームメッキを施したアルミシリンダーです。

一般車としては44年に30PSエンジンを搭載したR―2を発売しました。

中村 更に、46年に水冷エンジンを開発・搭載されましたが。

山岸 低中速トルク、実用燃費、低速時の暖房性能等の向上、それから振動・騒音の改善を狙って水冷エンジンを開発した。出力は32PSでした。このエンジンの特徴の一つはISV(Idle Silence Valve)で、スロットルの低開度では排気弁(ISV)を閉じ、アイドル騒音を10dB位低減出来た事です。尚、スポーツ仕様の高出力エンジンは37PSを出すことが出来た。

中村 水冷化で何か苦労された事は。

山岸 ラジエータは前にあり、エンジンは後ろにあるからパイプの引き回しが複雑でエア抜きに苦労した。特にサンバーで。今はどうしているの。

中村 ラインエンドでは真空引きをしています。ディーラーでは昔通りの方法でやっているそうです。

処で、48年以降の排出ガス規制に対して2ストロークエンジンはNOxはOKだが、HCが非常に厳しい状態だったと思います。このため、最終的には4ストローク化されましたが、それまでの経緯はどうだったのですか。

山岸 先ず、2ストロークで何とか対策出来ないかと思い、2ストローク筒内燃料噴射エンジンの研究を行った。燃料噴射系は日本電装さんの協力を得た。排出ガス的にはまあまあの所まで行ったが、燃料噴射時期制御が機械式で制御幅が不充分であり、又低負荷時のトルク制御を点火時期で行っており、このため排気ガス温度が高くなる事等があり、開発を中止した。今の電子技術があったら纏まったかもしれないね。

中村 実を言うと、スバル研究所で平成のはじめ頃にV4、1.5Lの2ストローク筒内燃料噴射エンジンを試作・研究しました。燃料噴射は電子制御です。出力は4ストローク、2.2Lエンジンと同等で、エンジン出口のベースエミッションはこの2.2L4ストロークエンジンに対してNOxが約十分の一、HCは約2倍、COは約3倍で、モード燃費は10%位良かった。と記憶しています。排気対策は基本的に酸化触媒だけでOKではないでしょうか。

山岸 噴霧の状態はどうだったの。

中村 スワールインジェクターで燃圧70気圧で実験をしています。噴霧角を70度にしたのでザウター粒径は20〜25ミクロン位ではなかったかと思います。現在の4ストローク直噴の場合も20ミクロン前後です。噴霧の計測には最近はPDAと言うレーザードプラーを利用した計器を用いています。処で、話を元に戻しましょう。

山岸 その後、アフタバーナ方式の研究も行ったが、これもアフタバーナ内の温度制御が困難で中止した。結局、排気対策を小型系と基本的に共通化出来る様に4ストローク化した。

中村 4ストローク化される時に悩まれた事もあったと伺っていますが。

山岸 先ず、第一に気になったのは振動だった。昭和34〜5年頃に試作した450cc空冷直列2気筒エンジンを搭載した試作車の振動が思い起こされ、直列2気筒では駄目ではないかと思った。では4気筒はと言えばマツダのキャロルが頭に浮かび、期待した出力が出せるかと言う事だった。  

中村 4ストロークの開発にも幾つかの段階があったのではと思いますが。

山岸 最初は振動を考慮して水平対向2気筒OHVで試作した。2ストロークと同じCCだから出力は回転で稼がなきゃならんが、OHVでは回転が上がらん。回転を高める為にOHCにすれば、水平対向2気筒だからコストが非常に高くなる。それで直列2気筒OHC水冷にした。

直列2気筒はご存知のように往復質量による振動が問題になるが、バランサーシャフトを設けて対策する事にした。

中村 結果的には。

山岸 OHCで出力も31PS/8000rpm,3kgf・m/6500rpmを出し,48年以降の排ガス規制対応もできた。エンジンルームの関係で、1軸バランサーしか入れられなかったが,振動騒音もまあ一応のレベルに出来たと思う。  

何はともあれ、排気対策が出来ないものは仕様が無いと思っていたので、4ストローク化は設備投資は大きかったが、結果的には良策だったと思っている。

中村 当社ではこのエンジンが始めてのOHCであり、動弁駆動系の開発にはご苦労があったと伺っていますが。

山岸 動弁の駆動にはグラスファイバーで補強されたネオプレン製歯付ベルトを用いたが、開発の途中で初期品は水に弱い事が判った。グラスファイバーの芯線の捩じり方や加工処理法の改善を行って対策した。又、ベルトカバーの防水対策も充分に行った。

それでも、サンバーは使用条件が厳しく、芯にケブラーを採用したね。

中村 昭和51年から法的に軽枠が拡大され、エンジン容積は360ccから550ccに拡大されました。550ccではなく500ccから生産に入ったのはどうしてでしたか。

山岸 360の設備で拡大できる限界が490ccだった。早く出せとの要望が強かったから500にした。排気対策はSEEC−T方式を採用した。500では出力31PS、3.8kgf・m、10モード燃費は16km/Lでした。1年後にヘッドのボルト間隔を83mmから86mmに変更して軽枠一杯の550cc化を行った。550では出力31PS,4.2kgf・m、10モード燃費は18km/Lでした。

中村 昭和56年にFF化されましたが。

山岸 FF化した事により、念願の2バランサーを採用でき、静粛性の大幅な向上が図れた。

排気システムは触媒方式へ変更し,CFCの採用やハイギヤード化等で、出力は31PS、4.4kgf・m,10モード燃費は21km/Lの性能を得る事が出来、商品性の大幅な向上が出来たと思っている。

中村 又、昭和61年には新レックスを発売されましたが。

山岸 ここでは高出力エンジンとFE(Fuel Economy)エンジンの2本を追加した。高出力エンジン は3バルブ化で36PS(ノーマルエンジン比+16%), 4.4kgf・m、FEエンジンは電子制御気化器,高圧縮比化で10モード燃費26km/Lを得た。26km/Lは今でも最良値ではないの。

            

中村 昨秋発売の新規格軽自動車にこれを超えるものが出ました。処で、更に昭和63年にはスーパーチャージャー付エンジンが発売されましたが。

山岸 軽自動車に対しても高出力の要求が強くなり、これに答えるために過給エンジンを開発した。ベースエンジンは3バルブエンジンで、メカニカルスーパーチャージャー+燃料噴射(D−Jetro)を用い、出力は55PS(100PS/L),7.4kgf・mを得た。

中村 メカニカルスーパーチャージャーを採用された理由は。

山岸 ターボは低速域で過給圧を上げる事が難しく,且つ急加速時にターボラグが避けられない.一方メカニカルスーパーチャージャーは低速域から時間遅れの無い過給が可能です.特に低中速トルクの欲しい軽自動車には後者が適していると思った。

中村 御退任後の平成元年に4気筒エンジンが出ましたが、2気筒から軽一般に使用されている3気筒ではなく,一気に4気筒化を計画されたのは。

山岸 中村さんの開発部で燃焼研究のため試作していた4気筒エンジンがクランク軸方向の長さが非常に短く出来、軽の車幅内に収まる事が判り、割合良く纏まっていたのでこれを活用して生産開発をする事にした。三鷹の部長会ではメリット・デミリットについて色々議論したのではないの。

中村 私は当事者ですから、黙って議論を聞いていました。

山岸 当然の事ながら、4気筒化は静粛性・ドライバビリティの大幅な向上が図れ、これで静粛性・ドライバビリティの点では他車を大きく凌駕できると思った。

 

[変速機]

中村 以上でエンジン関係の話を終わりとし、変速機関係へ移りたいと思います。

先ず、手動変速機(MT)の開発を振り返ってみたいと思います。

山岸 手動変速機の開発・改良はシンクロ機能の改善と4WD(四輪駆動)の展開が主であった。シンクロ機能改善に関しては、シンクロ時にナイフでバターを切るような感触を作り出したいと思ったが、中々難しかったね。も一つはギヤ鳴き対策でシンクロ時にコーン面のオイルを如何に早く切るかが問題で、ボークリングの溝仕様等を中心に改善していたね。それからもう一つ、ギヤ抜けがあった。これには泣かされた。これはスリーブシンクロの内歯の逆テーパで何とか対策出来たが。

中村 4WDに関しては、昭和47年にセレクティブ方式をレオーネバンに搭載し発売して以来、小型系は昭和54年にデュアルレンジ、昭和61年にフルタイム−デフロック式、平成元年にフルタイム−ビスカス式、軽・中間系は昭和55年にセレクティブ、昭和61年にフルタイム−ワンウエイクラッチ式等を開発・発売してきましたね。

山岸 4WDの開発過程を大きく眺めてみると、昭和50年代はセレクティブ方式の改良、60年代はフルタイムの開発と言えるのではないかと思う。   

手動変速機の技術的発展は4WDラインアップの玉成に向けたものであったと言っても過言ではなく、乗用4WDに関しては世界最初であり、業界の先駆役を果たしてきたと自負している。

中村 昭和55年に発売したサンバーの4WDは4駆市場の拡大の牽引車になったと思っていますが。

山岸 当時は軽トラックは車が小さいと言う事から、特に東北地方や雪の多い所では冬は実用にならない、冬の間は車庫に仕舞っておくのが常識だった。これをオールシーズン使えるように4WD化した。サンバーの場合、パワーユニットが車体の後方にあるので、ここから前の方にプロペラシャフトを引っ張り出して、4WD化した。これが受けて爆発的に売れた。これを見て、他社も競って参入してきて、その結果、軽の1ボックスカーマーケットが倍増したと思う。

中村 次は自動変速機(AT)に行きたいと思います。

山田寛さん(元富士重工業技術部長)や私は東大石原先生の御指導を受け、スクーター用トルコンを開発、昭和31年から生産しており、その点でトルコン単体に関しては一応の技術を有していたと思っていますが、小型系自動変速機の開発経緯についてお話頂けませんか。

山岸 スバル1000の開発の時、エンジン開発と同時に児玉さん(元富士重工業専務)がトランスアクスル型ラビニョタイプの2速ATを設計した。この実験は中村さんのグループが担当したのではなかったかな。

中村 はい。変速ショック対策やギヤ音低減などに苦労しながら纏めました。そして10台だったと思いますが、フィールドモニター車としてディーラ等に配りました。ディーラの評判は上々だった様です。 

山岸 それで生産しようと、無塵室の組み立てラインまで作ったが、Borg-WarnerのWaymanの「速度と共に油圧を変化させる」と言う有名なパテントへの抵触問題で昭和43年に生産化を中止した。当時、Borg-WarnerはATの生産はすべてBorg-Warner自身で行い、パテントだけでは売らないとの方針であったのでやむを得ず生産化の中止を決めた。その後、米国のビッグ3の内製化によりBorg-Warnerはこの方針を変え、日本ではアイシンワーナーとJATCOにライセンスを与えた。しかし、スバルの様な少量生産の会社にはライセンスは与えずBorg-Warnerで作ってやるよと言っていた。だが、Borg-Warnerの案は芳しくなく、昭和46年に再度、日産さんの一部の部品を流用させて貰い、ラビニョタイプの2速ATを3速ATに設計変更して試作した。

そうしたら、昭和47年にBorg-Warnerから長島さんの所へ手紙が来て、2回ほどBorg-Warnerへ行き、パテントの使用許諾を得た。但し、日本のライセンシーの了解を得る事が条件だった。それでアイシンワーナーと交渉し、この事を常務会で報告したら、大原社長からそんな交渉は技術本部の仕事ではない企画本部の仕事だと叱られた。

中村 当時、輸出本部長からATは何時出るんだと大分催促されました。

山岸 そう言う事もあって、長島さんや本田さん(元富士重工業特許部長)達の努力もあり、昭和47年にBorg-Warner、Ford、日産と契約を結び、日産・ジャトコの部品を流用させて貰い、本格的に富士独自のレイアウトの3速ATを開発して、昭和50年に念願の商品化を果たす事が出来た。

その後、昭和56年に4WD・3AT、昭和57年にターボ+4WD・3AT、昭和62年に電子制御4速AT+電子制御4WDを世に出し、ここで4WDを含む基本的なATシステムが確立したと思っている。

中村 次は世界最初に商品化したCVT(Continuously Variable Transmission)に移りたいと思います。昭和59年にジャスティ、昭和62年にレックスに搭載してECVT(ElectroCVT)を発表しましたが、VDT(Van Doorne's Transmissie)のCVTを採用されるまでの経緯は。

山岸 ジャスティ1000の計画の中で、これに何か特徴をもたせる様にと川端さん(元富士重工業専務)の強い要求があった。昭和55年にVDTが無段変速機Conferenceや雑誌AUTOCARでCVTを発表したが、児玉さんがこれに強い関心を持ち、CVTを採用出来れば、ジャスティ1000に特徴を与えられるのではと思ったらしい。日本の各社もこのCVTに関心を示し、調査団を組織してVDTに行く話が持ち上がったが、大手メーカの来欧をVDTが断ったので、日本からは児玉さん一人がVDTを訪問した。VDTも相手がスバル位の会社なら安心できると思ったらしい。だが、VDTはオランダ政府も株主であるためか、はじめはライセンシングに関しては非常に強硬だったが、長島さんとVan Der Veen社長との意気投合により、交渉出来る様になったらしい。具体的な交渉に関してはBorg-Warnerの事もあり、企画本部に任せた。山本さん(元富士重工業副社長)と片島さん(元富士重工業特許部長)が交渉に当り、上手くやってくれた。

中村 昭和38年から5年間オートクラッチとして生産し、昭和55年に再開生産した電子制御式電磁クラッチがあった事が、ECVTを世界に先駆けて生産できた一つの大きな技術的要因ではなかったかと思いますが。

山岸 VDTの発進クラッチは小さい方が遠心クラッチ、大きい方が湿式多板クラッチだった。遠心クラッチの場合、日本での使用条件を考えると色々と問題があり、これのチューニングには苦労すると思った。我々は電子制御式電磁クラッチを生産していたので、これを使用する事で開発が早期に成功したと思っている。

中村 開発の途中で苦労された点は?

山岸 開発の途中と言う事ではないが、昭和59年に、ECVTを300台生産し、ジャスティに搭載して発売することになったが、VDTは元々研究会社で量産の経験がないため、その後量産出来ずに困った。それでVDTに対し、富士重とVDTの親会社であるVolvoで設計から生産技術までの量産技術の支援をして、やっと生産再開に漕ぎ着けた。このため、発売が実質的に約3年遅れた。初期生産の300台は富士重工業圏内でフィールドモニター車として使用し、結果的には多くの技術的フィードバックを得る事が出来た。

尚、CVTの開発を始める時には本当に商品化できるだろうかと言う一抹の不安があった。現在は良くもここまで纏めたものだと感心しています。 

 

[新型車]

中村 変速機関係はこれ位にしまして、次は山岸さんが技術本部長になられてから発売された新型車についてお話を伺いたいと思います。が、これは今回の主題から少し離れますので簡単に伺います。

先ずは、昭和56年に発売されたFFレックスですが、この車の狙いは。

山岸 FF化による高速横風安定性の大幅な改善が第一で、4輪独立懸架,ロングホイールベース等により、乗り心地,ハンドル操舵力の改善を行った。又、FF化でエンジンの2軸バランサー化が可能になり静粛性の向上ができた。

尚、百瀬さんから日頃、ラジエータが前でエンジンが後ろにあるのは不自然ではないかと言われていたが、ここでやっと真面なレイアウトに出来たと喜んでいる。

中村 昭和58年にドミンゴ、59年にジャスティ1000、60年にジャスティ1200と矢継ぎ早に中間系を発売されましたが、これらの狙いは何だったのでしょうか。

山岸 中間系車種は軽系と小型系の間を埋めるリッターカーであり、スバルのフルライン化を図ったものです。扱い易さ・経済性と言う軽自動車のもつメリットを継承しながら,走行性・静粛性の点で,小型大衆車としての品質を持たせる事を狙ったものです。

又、世界で最初にCVTを搭載したのがこのジャスティ1000です。

中村 昭和59年に All New Leone が出ましたが、開発の狙いは。 

山岸 今言った様に中間車種が出来たから、この車は1.6〜1.8Lに的を絞る事が出来、最適な商品力を付与して、世界に通用する小型車を狙った。

具体的にはOHCの採用,CDの低減,車重軽量化等による高性能化、エンジン改良,変速機の多段化(MT4→5,AT3→4)、低燃費ラジアルタイヤの採用等による低燃費化、音・乗り心地,インテリアデザインの改善等による快適性向上、エレクトロニューマチックサスペンションの採用による操安性・乗り心地・騒音の大幅な向上等を行った。

中村 昭和60年にアルシオーネH−4が、62年にアルシオーネH−6が発売されました。これの狙いは。

山岸 スバルシリーズの最上級車、即ちスバルのフラッグシップとして、世界の乗用4WD車をリード出来るスペシャリティーカーとして開発した。

中村 技術的に注力された特徴点は。

山岸 先ず第一は空力性能の大幅な改善です。具体的には車体のDrag CoefficientはFFで0.29、4WDで0.31を得ている。第二はドライバーの意志と走行環境条件に応じて駆動力特性を最適化するための電子制御4AT、電子制御4WD(ACT−4)の開発、それから4WDとABSの結合です。

その他としては、電子制御エアサスペンション、電子制御モータドライブ式パワーステアリング、電動移動式ショルダベルトの自動拘束装置等があります。

 

「おわりに」

中村 有り難う御座いました。技術的な話はこれでお仕舞にしたいと思います。

山岸 今まで話してきたことは技術本部の皆さんが努力してくれた事であり、ここで改めてお礼を述べたいと思います。処で中村さん、最近の排ガスや燃費はどうなっているの。

中村 私も現役を離れて数年経っていますから、詳しい事は判りませんが、国内に関しては、排出ガス規制は今でも基本的には53年規制です。試験法等は少し変わっていますが。2000年から新しい規制値が適用されます。大体53年規制値の3分の1になります。(CO=0.67g/km、HC=0.08g/km、NOx=0.08g/km)。

燃費規制に関しては2010年度燃費基準案が出ています。例えばInertia Weightが1000kgの場合17.9km/L、1250kgの場合16km/L、1500kgの場合13km/Lです。昭和60年の基準値Inertia Weight750〜1250kgの13km/L、又は1000〜1250kgの12.5km/Lに比べれば非常に厳しくなっています。尚、2010年度燃費基準案値をクリアしている車には自動車取得税や自動車税の減税が検討されています。

米国の場合、排出ガス規制値は92MYまでは山岸さんの時代(87MY)と同じ値です。93MYからCaliforniaではHC、COの規制強化、TLEV,LEV(Low Emission Vehicle),ULEV等の規制が始まりした。TLEVは94MYから、LEV,ULEVは97MYからが標準的な適用です。(LEV:NMOG=0.075g/m、CO=3.4g/m、NOx=0.2g/m。 ULEV:NMOG=0.040g/m、CO=1.7g/m、NOx=0.2g/m 。)

各規制カテゴリーのプロダクトミックスは年毎のNMOG(Non Methane Organic Gas)企業平均規制値で拘束されています。2000MYのNMOG企業平均規制値は0.073g/mです。

それで、2000MY以降においてはLEVだけでは不充分で、ULEVが必要になります。

更に2003年からは10%のZEV(Zero Emission Vehicle)の販売が全メーカーに義務づけられています。

Federalでも排出ガス規制は93MYからマスキーの初期値より厳しい値(HC=0.25g/m、CO=3.4g/m、NOx=0.4g/m。)になっており、2001MYからはLEV規制になります。燃費規制値は27.5m/gで山岸さんの時代と同じです。

この外に、山岸さんの時代に比べて、エバポや故障診断機能の強化や追加があります。

更に、2005年辺りでは国内も米国も共に排出ガス規制値が更に約半分になりそうです。

この様に、現在再び、昭和50年代のマスキー対策や燃費対策に匹敵する厳しさの対策が要求されています。 

山岸 そんなに厳しくなっているの。知らなかった。

中村 そうなんです。非常に厳しくなっています。

処で、最後に後輩の皆さんに何か一言お願い致します。

山岸 改まってお話する事でもないのですが、私は以前から技術者に一番必要なものは強い好奇心だと思っています。と言うのは、特に最近は技術の進歩が急激で、巷間で言われている専門家になれということも尤もですが、その専門ですらあっと言う間に陳腐化している例も多いからです。私自身は戦前戦後で航空発動機がレシプロエンジンからジェットエンジンへ変わった実例を見ていますが、今やレシプロエンジン付の飛行機はごく僅かな小型機しかありません。

自動車エンジンの場合は一定走行が少ない為か、最近までレシプロエンジンしか無かったようですが、公害の問題から、もう10年以上前から米国ではゼロエミッションビークルが要求される様になり、そのためか最近は燃料電池を搭載した車の研究が盛んになってきた様です。私の乏しい知識では10年前には燃料電池はエネルギー密度はある程度とれるが、パワー密度が小さくて自動車用としては余り有望ではない様に言われていました。この様に思いがけなく登場する新しい技術に対応するには強烈な好奇心が基本に無ければならないと思うのですが。 

吉沢 これでインタービューを終えたいと思います。山岸様中村様、お忙しい処、長い時間有り難う御座いました。


 注1) 本文中の( )内はインタビュアー中村氏の注です。 


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