サンプル むんつん閑話
むんつん閑話 島内義行 コピーライト1991
無許可複製再生禁止
八月十五日 天の岩戸が開いたような
 50年前、つまり昭和16年の私は、国民学校初等科5年生だった。それまでの町立尋常高等小学校が、昭和16年3月1日付で国民学校となったのである。変化したのは名称だけではない。その年の2月28日、勅令をもって公布された国民学校令第1条「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」に基づき、教育内容が一段と軍国主義化した。私たち「小国民」は、天皇陛下(と言うときには、姿勢を正さなければならなかった)のために喜んで死ぬ教育を受けた。
 学校では、ことあるごとに米国や英国の傲慢無礼な所行を聞かされ、敵愾心を燃やしていた。そんなわけだから、ラジオの臨時ニュースで、帝国海軍の真珠湾攻撃を知ったときは、じつに痛快だった。昭和16年12月8日のことである。
 岩波書店発行の「図書」には、阿川弘之の「志賀直哉」が連載されている。その第49回によると、あの志賀直哉ですら、日米開戦にさいしての感想を「天の岩戸開く」と記しているそうだ。これは「東京日日新聞」(昭和18年「毎日新聞」に統合される)が、各界の著名人を対象に行ったアンケートに答えたもので、12月18日の紙上に掲載された。きわめて抽象的で、ぶっきらぼうな回答えだが、日本を取り巻く暗く重苦しい状況に、燦然たる光がさしこんだ気分、と言いたかったのだろうか。
 国民学校初等科国語(六)の「12月18日」には、つぎのような母子の対話が出ている。
「おかあさん、私は、今日ほんたうに日本の国のえらいことがわかりました。」
「ありがたいおことば(注:宣戦の詔書)を聞いて、まるで天の岩戸があけたやうな気がしますね。」
 これと、志賀直哉の回答との間に、因果関係を探ることは強引すぎるだろう。あるいは、当時の日本では「天の岩戸が開いたような」という表現が使われていたのかもしれない。
 当時の知識人は、日米開戦の報に、どう反応したのであろうか。中公新書「日本の歴史25」で、その断片を知ることができる。
 「あの12月8日の朝、感じたことを一言で言いますと、ざまぁー見ろです」とフランス文学者の辰野隆(ゆたか)。作家の長与善郎は「我等の頭の上に暗雲のごとくおおいかぶさっていた重苦しい憂うつは12月8日の大詔渙発ととみに雲散霧消した」と痛快がっている。評論家の亀井勝一郎は「戦争より恐ろしいのは平和である。(中略)奴隷の平和より戦争を」と勇ましい。
 帝国海軍航空隊による真珠湾攻撃の壮挙を知り、快哉を叫んだ点において、子供の私も知識人も、差はなかったようだ。そして、日本じゅうが緒戦の大勝利に酔ったのであった。
工場と援農に明け暮れる
 開戦から4年後の昭和20年。私は県立中学校の三年生になっていた。元日から日記をつけ始めていたので、敗戦前後の記録はたっぷりある。私が敗戦にこだわるのは、記録が残っているためではない。私の人生に敗戦の与えた影響が、あまりにも大きいからだ。
 3月4日に開設された学校工場で、私たちは戦闘機の部品(胴体の枠)を作っていた。戦闘機の名称はキの八四。これは「疾風(はやて)」と同一の機種らしい。電気ドリルであけた孔に、リベットを打ち込むのだが、しばしば孔がゆがみ、リベットが曲がった。こんな粗雑な部品で飛べるのだろうか、と心配になるほどだった。
 工場で働かない日は、食料増産のために校有林を開墾したり、農家へ麦刈りや田植えの手伝いに行ったりした。その合間に授業があるが、これも空襲警報でひんぱんに中断された。だから、中学三年の一学期は、およそ勉強をしたという実感がない。
 当時の月謝は6円だった。なんのことはない。授業料を納め、弁当を持って、肉体労働をしに登校していたようなもの。つぎの歌詞はそのまま毎日だった。

  君は鍬とれ我は鎚    戦う道に二つなし
  国の使命をとぐるこそ  我ら学徒の本分ぞ
  ああ紅(くれない)の血は燃ゆる
             (ああ紅の血は燃ゆる−学徒動員の歌−
                 日本著作権協会(出)許諾第9371590・301号)

 4月18日には、中学校所在地に居住する生徒によって、防護団が編成された。夜間、空襲警報が発令されると、学校へ駆けつけるのである。燈火管制のため真っ暗な校舎で、警報解除になるまで待機する夜が続いた。
 7月10日は、空襲警報で目が覚めた。5時20分。すぐに登校。学校は丘の上にあり、わが家から約700メートル、走れば3分ぐらいの距離だ。途中、東西に一直線に延びる道がある。両側が水田で、遮蔽物はゼロ。そこへさしかかったとき、待避信号が鳴りだした。南の空に艦載機が4機。低空で迫ってくる。あわてて道の北側へとびおり、溝に体をひそめた。恐ろしかった。この日は、何度か待避信号が鳴り、艦載機(日記では小型機とかグラマンF6Fになっている)が飛来した。
 7月12日の午後11時半ごろ警戒警報発令。10分もたたぬうちに空襲警報発令。サイレンが不気味な音で断続的に鳴る。本来なら、すぐ学校に駆けつけるはずなのに、なぜか私は自宅に居た。当番制になっていて、その夜は非番だったのだろうか?
 北の方角から、B29らしい音が響いてくる。ラジオが「東部軍管区情報。敵機は宇都宮を焼夷攻撃中」と言う。このとき、宇都宮市がB29約70機の空襲を受けていたのである。市街地面積の半分、8,588戸が焼け、521人が死に、市の中心が焼野原と化した。私の町から宇都宮市の中心まで、直線距離にして約17キロ。B29なら2分程度で来てしまう距離だ。
 母が「空が明るくなったような気がする」と言うので、南の縁側に出て空を見上げた。その時である。北東から近づいてきた威圧するような爆音が、頭上に達したなと思った瞬間、マグネシウムを燃やしたような光が空に広がった。続いて、焔の尾をひいた物体が落下。一瞬、その美しさに見とれたが、すぐに焼夷弾であることに気づき、はだしで飛び出した。玄関の1メートルほど前に焼夷弾が1本、弾体の大部分を土中に突き刺し、シュウシュウと焔を10センチばかり吹き上げている。水をかけるとすぐ消えた。突き刺さった角度が、垂直よりやや南(玄関と反対側)に傾いていたため、火のついた中身(油脂)は、南側の家に飛んでいってしまったとみられる。隣家にはすまないが、おかげで、わが家は焼けずにすんだ。
 私の家は高台の中腹にある。眼下の商店街が燃えている。そのうち、強い北東風が吹き始めた。午前2時ごろには煙が白くなり、夜が明けるころには、あらかた燃え尽きた。寒さがひしひしと迫ってくる。私は一睡もしなかった。
 7月13日、登校してみると、校庭に焼夷弾が林立していて、大部分が不発弾だった。1発だけ、工作室に命中して発火したが、消しとめたそうだ。このときの焼夷弾は油脂焼夷弾である。油脂の入った六角柱の弾体48発が、金属ベルトで束ねられており、B29から投下されると空中で散開。15メートル間隔で落下し、あたり一面を火の海にするのだ。わが家の玄関前に落ちた焼夷弾が、もう2メートル近くだったら、と考えるとゾッとした。
 8月8日、講堂で大詔奉戴日の式をあげた。開戦が12月8日だったので、毎日8日に宣戦の詔書を読むのである。この日も、蛸というあだ名の校長が、宣戦の詔書を読んだあと訓辞をたれた。二年生以上が学徒義勇戦闘隊に編入されることになった、という内容。私は3年生だから、もちろん入るわけだ。
 翌9日、配属将校の玉野中尉から、学徒義勇戦闘隊の任務を説明された。爆薬を背負って蛸壷と称する小さな壕に潜み、米軍戦車が現れたら、とび出していってキャタピラの下敷きになれ、と言うではないか。私は痛切に「死にたくない」と思った。
 8月9日午前7時のラジオの報道(ニュースという名詞は、敵性外国語のため使わぬこととなっていた)で、ソ連の不法越境を知る。わが家の西隣に住む、中学校の歴史の教師が、ラジオを聞きにきていた。この男は、日ごろ「日ソはぜったい戦わない」と断言していた。
「先生、とうとうやりましたね。ソ連は攻めてくると思っていましたよ」
 と嫌みを言うと(子憎らしい生徒だった)、
「せいせいしたな。重荷がおりたようだ」
 という減らず口が返ってきた。
 8月14日午後9時のラジオの報道が、明日正午、重大放送がある、と二度繰り返した。対ソ宣戦布告だろうか。そういえば、今日はラジオ放送がなかった。大事の前の沈黙かもしれない、などと考えた。午後11時半ごろ空襲警報発令。すぐ学校へ。B29が再三飛来したが、なにも落とさなかった。
ポツダム宣言受諾だと?
 8月15日、水曜日、晴。午前7時のラジオの報道が、陛下御自ら詔書をお読みになるので、かならず聞くように、と繰り返していた。
 この日は、学校から2キロほど離れた所にある校有林で、開墾作業をしたが、11時に作業をやめて学校へ戻った。私は自転車だったので、農具を置きに帰宅し、ついでに手や顔を洗った。体を清めて玉音(天皇の声)放送を聞こう、と考えたからである。
 11時27分ごろ学校に着き、校有林から徒歩で帰ってきた連中とともに講堂へ。講堂の正面には白布を掛けた机があり、その上に拡声機が載っていた。6月中旬から校内に駐屯している兵隊約50人と、学校工場の工員3人も参列。粛然たる雰囲気の中で正午になった。一同起立。
「ただいまより、重大なる放送があります」
 という放送員(アナウンサーのこと)の声に続き、
「これより謹みて玉音をお送り申します」
 という老人の声。「君が代」が流れ、一同、拡声機に向かって最敬礼。そのあと、いわゆる玉音放送が始まる。日記にはこう書いてある。

 −−−−このときほど、有難く君が代を聴いたことはなかった。身の引き締まるような緊張の中、玉の御声が流れだした。意味は自分等にはよくわからぬが、ただ有難く拝聴する。−−−−

 玉音放送が終ると、また君が代。そして、拡声機に向かって最敬礼。一同着席。放送員の経過説明に耳を傾ける。
 歴史的御前会議の席上、陛下の大御心に、大臣等は御前をも憚らず慟哭した、というくだりでは胸が熱くなった。そして、大御心に答えまつるためにも、われわれ学徒は必勝の信念に燃えて、難局にあたらなければ、と決意を固めたのであるが・・・。
 放送員が、ポツダム宣言受諾、と言っていることに気付いた。ポツダム宣言は、日本に無条件降伏を要求している。詔書の中に、耐え難きを耐え忍び難きを忍び、とあったのは、このことをさしていたのか。
 降伏したことを知ったあとの気持ちを、日記によって見てみよう。

 −−−−天皇陛下、国体、言語、宗教等を守るという申し入れは受諾されたのであるから、無条件降伏ではないにせよ、降伏であることには変りはない。南方諸地域は取られ、満州、台湾は取られ、全将兵は武装解除だ。大陸に、南方に、我が将兵の流した貴い血は肥料になってしまうのか。我が国の栄えある歴史は、そして東亜の平和はどうなるのだ。憤激に燃える目で周囲を見回すと、午前中の疲れが出たのか居眠りをしている。馬鹿、馬鹿、日本は負けたのだ。三千年の歴史を瑕つけられたのだ。眠っているとは何ごとだ!つい先ほどまで開墾をしていたのは、なんのためか。学業を投げうってまで戦闘機の増産に励んだのは、なんのためだったのか。口惜しい。降伏の汚名を受けるより、日本国民が全滅したほうがよいではないか。−−−−−
時間が経つにつれて増す不安
 有史以来、負けたことのない神国日本が、鬼畜米英に降伏するという、驚天動地の大事件にさいして、校長はじめ先生方が、いかなる反応を示したのか、私の日記には1行の記載もない。ただ、校長の短い話(内容についての記録なし)と、明日は平常どおり登校せよ、という指示があったことのみ、記している。
 ところが、それから20年後に出た、私の学校の「70年誌」では、玉音放送のあとで、配属将校がアジ演説をぶったことになっているのだ。
「われわれは絶対に負けない。今や臆病風に吹かれた指導階級は頼りにならない。頼れるのは、陸軍の精鋭と、愛国の至情に燃える若い諸君だけである。諸君、軍は必ず蹶起(けっき)する。そのときは、諸君も敢然とたちあがって、悠久の大義に殉じてもらいたい」
 甲高い声で、こう絶叫したのち、
「軍と行動を共にしようと思う者は挙手をしてほしい」
 と言い、全生徒の手が高々と挙がるのを確かめて、満足げに講堂を去ったそうだ。
「70年誌」にこれを書いている卒業生(日渡茂一)は、私より二年下、つまり玉音放送のときは一年生だった。一年生より三年生の記憶のほうが正確だ、などというつもりはない。しかし、こと記録に関しては、私にも自負心がある。こんな事件が起ったなら、日記に書いておかないはずがない。それに、配属将校が使った「諸君」や「してほしい」とうい用語は、日ごろの尊大な彼の態度と結びつかない。
 百歩譲って、アジ演説があったとしたばあい、なぜ記録しなかったか不思議である。一つだけ考えられる理由は、演説そのものを無視した、ということだ。演説の主は、着任して二か月もたたぬ、玉野という陸軍中尉だった。玉野中尉以前に、二人の配属将校から軍事教練を受けているが、三人とも尊敬に値しない人間だった。特に玉野教官の言動にたいしては、軽蔑の念を抱いていた。だから、日記にも「玉教(たまきょう)」と、侮蔑的な略称で記しているくらいだ。こんな男の演説を、日記に書き留めることは潔しとしなかったのではあるまいか。
 いずれにしても、私の日記によれば、玉音放送のあとはさしたる事件もなく教室へ戻り、地理の教科書の配給を受けたのち、下校した。帰宅してから、急に空腹を覚えて弁当を食べた。無条件降伏を知って、あまりにも腹がたったものだから、昼食をとることも忘れていたのだ。
 それほど憤りに燃えていた私であるが、時間の経過とともに不安になってきた。16日の日記には、つぎのように記している。

 −−−−降伏の第一夜は明けた。午前6時のラジオの報道は、繰り返し、苦難に直面する覚悟を説いている。ああ、日本は負けたのだ。三千年の歴史に一大汚点をつけられた。もし、これが反対だったら。日本が勝っていたら、その喜びはどれほど大きいことだろう。いままでの労苦も、一瞬にして消し飛んだであろう。だが、日本は負けたのである。これから何十年、何百年ののちに、再び立ち上がるであろうその日まで、自分等は、あらゆる艱難辛苦に耐えて、生きていかねばならぬ。−−−
大人に対する憤り、苛立ち
 8月17日から四日間の夏休。それまで、夏休返上で働いていたのだ。18日の日記には、飛び始めたデマにつて書いてある。

 −−−−昨日、妹(国民学校四年生)が帰ってきていわく、うちはどこへ逃げるのか、と。妹が遊びにいった家で、明日は敵兵がこの町に来るから、逃げ出さなければならない、と言っていたそうだ。また、昨日か一昨日のことか曖昧だが、何百機かの小型機に乗った敵兵が、どこかに着陸した、という話を母が聞いてきた。大量の兵員の輸送に、小型機を使うはずがない。少し考えれば、デマであることがわかる。−−−−

 8月21日から二学期が始った。だが、勉強をするわけではなく、農作業や炭焼窯の構築、軍から払い下げになった物資の運搬、防空壕の埋め戻しなど、およそ学校教育とは無縁の毎日だった。
 8月22日の朝、中学校に駐屯している兵隊と、校庭ですれ違ったところ、その兵隊は、
「あと二、三日で殺される」
 と、哀れな声を出した。近く米兵が来る、という噂が流れているからだろう。その日の日記には、

 −−−−このごろ、いざとなったら青酸加里を飲むからいいや、などと言う者がふえた。今日も学校の裏門の所に居た工員風の男2、3人が、会社から買った2千円を使いきったら、青酸加里を飲んで死ぬ、と話していた。情無い奴等だ−−−−

 と書いている。昨日まで頼もしく見えた大人が、急にだらしなくなったことにたいする戸惑い、憤り、苛立ちを、こういう形で記したのであろう。
 8月26日は日曜日。この日から、日曜日が休みになる。それまでは、月月火水木金金とばかり、日曜日も登校して、学校工場や農作業に従事していた。
 8月30日、帰宅してゲートルをほどいていると、母が一通の葉書をもってきて、
「やっぱり、思っていたとおりだった」
 と言う。見ると、母の兄(森赳(たけし)近衛師団長)と義弟(白石通教(しらいしみちのり)陸軍中佐)の死の知らせ。8月15日午前2時30分に自刃、とある。差出人については、日記に書いていない。また、母が「やっぱり」と言ったのは、生粋の軍人である兄の性格から考えると、国の運命に殉ずるのではないか、という恐れを、8月15日以降、母が持ち続けていたからであろう。それにしてもなぜ、義弟まで、しかも同時刻に自刃したのか、母は理解に苦しんでいた。
 9月8日に叔母(白石通教の妻・治=はる)からの、9日には母方の祖母(森作枝)と伯母(山岡重厚陸軍中将の妻・和=かず)から手紙が来た。それによって、初めて謎が解けた。
 私にとっては叔父にあたる白石中佐(第二総軍参謀)が、第二総軍司令官・畑俊六元帥に随行して、広島から東京に着いたのは8月14日朝。その日の夜半、近衛師団指令部の師団長室で、義兄の森中将に会っていた。そこへ現れた数人の将校が、戦争継続の師団長命令を出すように迫り、伯父が拒絶すると拳銃を発射。かばおうとした叔父も斬られた。
 この事件は、大宅壮一編「日本でいちばん長い日」や、角田房子著「一死。大罪を謝す」に詳しく出ている。しかし、殺害した下手人の究明という点では、飯尾憲士の緻密な労作「自決」が、最も説得力がある。それによると、伯父は畑中健二少佐に拳銃で撃たれたのち、上原重太郎大尉に肩を斬られた。叔父を斬ったのは窪田兼三少佐である。畑中少佐は8月15日に、上原大尉は19日に自決したが、窪田少佐は生きのびた。「自決」が出版された時点(昭和57年)では、鹿児島市に住んでいた。
 「自決」によると、飯尾氏は西鹿児島駅近くのホテルの喫茶室で、窪田元少佐に会ったそうだ。やせて、眼窩がひどく窪んでおり、60代半ばという歳以上に老けて見えた。飯尾氏の質問にたいして、歯切れの悪い返答に終止する元少佐は、敗戦前夜にとった自分たちの行動を、熱っぽい口調でつぎのように弁解した。
「私たちは、ああしなければならなかった。国体護持が可能かどうかの、死に物狂いの気持ちだったのです。しかも、現在、国体も国是もまだ復活しておりません。大東亜戦争は、本質的には終わっていないのです」
 敗戦後30数年経つのに、本気でこんなことを考えているとしたら、軍国主義教育の犠牲者と言うほかあるまい。私は、叔(伯)父を殺した犯人にたいして、怒りと憎しみを持ち続けたが、この弁解を知って、哀れにすらなった。
 さて、話を46年前に戻そう。
 私の親戚は軍人が多かった。敗戦のとき、父方の伯父は陸軍大佐。母方は近衛師団長(中将)のほかに、陸軍中将と海軍少将の伯父および前記の叔父。5人も軍人がいながら、1人の戦死者もなかった。それが、戦争終結の日に2人も死んだのである。しかも、同じ場所で。
 こういう家庭に育った私は、子供のころから軍人、それも陸軍軍人に憧れていた。叔父や伯父は、5人とも陸軍士官学校、海軍兵学校の出身で、うち3人は陸軍大学校卒(山岡重厚24期、森赳39期、白石通教53期)の秀才だったから、その挙措動作は、まことにさっそうとしたものだった。私が抱いた軍人のイメージは、これらの伯(叔)父たちによって育まれたものだ。野卑な言動を示す中学校の配属将校が、伯(叔)父たちと同じ帝国人とは思えなかった。
 9月22日、玉野中尉の送別式があった。軍事教練は敗戦とともに消滅していたから、配属将校も学校にいる意味がなくなったのだ。8月15日に、われわれの蹶起を即すアジ演説をしたことが事実なら、この日の日記に「どの面さげて生きているのだ」ぐらいのことは、書いてあってもおかしくはない。だが、

 −−−−9時半から再び南校庭で玉教の送別式。−−−−

 と記されているだけだ。なお、「再び」とあるのは、1時間ほど前にやはり校庭で、飯塚という教練の助手(たしか陸軍軍曹)の送別式があったのだ。
価値観のコペルニクス的転回
 小学校以来、一途に陸軍軍人になることを考えていた14歳9ケ月の少年にとって、8月15日は人生の目標喪失日であった。もっとも、あとになって考えれば、私が憧れたのは、観念的な「軍人」であって、生身の軍人ではなく、ましてや軍隊ではなかったが。それでもなお、目標を失ったあとの空白は、ついに埋まることがなかった。二度と、人生の目標を持とうという記は起らなかったし、わが子にも、早い時期から具体的な目標を持て、と勧めたことはない。
 話を昭和20年に戻そう。四囲の情勢は、私の幼い煩悶とは無関係に、日一日と変化していった。
 10月16日。やっと授業再開。教室は荒れていて、満足に椅子がない。すると、敗戦前は「なんだ、お前たはだらしないぞ」といった調子で、威勢のよかった片庭壬子夫(みねお)という歴史の教師が、
「とりあえず、長椅子を運んできてください」
 と言ったものだから、あっけにとられた。
 10月29日。登下校時に巻いていたゲートルを、着用しなくてもよいことになる。
 11月3日。学校で明治節の式を挙行。マッカーサーの命令で、国旗掲揚は禁止。
 12月8日。この日の日記に、こう書いている。

 −−−−4年前、1億国民はいかほど感激せしことぞ。しかし、それも軍閥によってなされた行いと知る。だまされていた、といまさら思う。しかし、抗米思想は抜こうとしても抜けぬ。−−−−

 12月18日。挙手の礼(肘を張り、右手を額の横に挙げる軍隊式の敬礼)の廃止。
 12月19日。教員室出入時の申告廃止。この日まで、教員室に入るときは「三年二組、島内。××先生に用があってみりました。」と大声で叫び、用が済むと「島内、帰ります」といった調子でやっていた。また、朝礼のさいに掛けていた「○○先生(主に校長だったが)に敬礼、頭(かしら)−中」という号令も、この日から「脱帽、礼」に改められた。
 こうして、急速に軍国調が払拭されていった。けれど、それはあくまで形式的なもので、実質的な変化はずっとあとのことになる。
 12月21日の日記には、戦犯裁判と婦人参政権に関する記述があるので、つけ加えておく。

 −−−−11日ごろから横浜で、戦争犯罪人の裁判が始まり、土屋という捕虜収容所付きの軍曹が裁かれている。自国で同国人が米鬼に裁かれているのかと思うと、腹がたってしかたがない。いまにみてろ、と思う。
 いま、婦人参政権について議論されているが、農村婦人の意識調査では、無関心が五割五分、関心をもつ者わずか八分。他は、なんだかわからぬそうだ。−−−−

 敗戦まで持っていた私の価値観は、敗戦後の大人の言動を見ているうち逆転してしまった。いわゆるコペルニクス的転回である。
 あらゆる権威にたいして疑い深くなった。強制的な命令、押しつけに遭うと、猛然と反発してしまう。大義名分を掲げた、××運動と称する大衆行動には、その目的がりっぱであればあるほど、うさんくささを感じる。「根性」や「みそぎ」という言葉を見ると、軍国主義の亡霊に遭ったような嫌悪感を覚える。
 もう、二度と騙されないぞ。46年前を思い出すたびに、そう考える。軍国少年の成れの果ては、執念深いのである。
1991(平成3)年7月20日
↑ページ・トップに戻る 編集出版黒潮社/無断転載を禁ず