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サンプル むんつん閑話
むんつん閑話 島内義行 コピーライト1991
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心の一齣 心の一齣
 天江富彌(あまえ とみや=本名・富蔵)氏は、明治32年3月22日、天賞酒造(仙台市八幡町29)の天江勘兵衛の三男として生れた。昭和59年6月22日、仙台市立病院で永眠、85歳。
 天江氏を考えるとき、切り離すことができない郷土酒亭「炉ばた」。昭和25年7月2日、仙台市本櫓丁(もとやぐらちょう)1(現在、青葉区国分町2ー4)に開店した。店名の「炉ばた」は、林香院住職の命名になるものである。店内の造作や、対応の趣向、天江氏の人柄などから、ついには夜の仙台の観光コースに入るほど有名になった。
 おんちゃん。天江氏は、店ではこう呼ばれていた。親しみをこめて「富おん」と言う客もいた。おんちゃんは教養豊かで、竹久夢二や東北の「こけし」に造詣が深く、また酒脱な人柄であり、同時に、マナーの悪い客の入店を拒否するといった、鼻っぱしの強さももっていた。それを臭みと感ずる人間にとっては、おんちゃんは文化人面をした偏屈者だった。私も、昭和30年代はそう感じていたが、50年代になると、おんちゃんと炉ばたが好きでたまらなくなった。20年間の変化。おんちゃんは大人(たいじん)の風格を備え、私も大人(おとな)になっていたということかもしれない。
みちのく仙台の代表的酒亭
 私と妻子の3人が乗った特急「はつかり」は、常磐線経由で4時間45分かかって、午後6時15分に仙台に着いた。昭和37年3月11日のこと。
 当時の私は、販売部数150万部、農村を対象とした月刊雑誌の編集部員だった。この雑誌は、農業の地域性に対応するため、北海道版、東北版というように地区版が5つ(現在は7つ)設けられていた。地区版編集に携わる者を、編集駐在員といった。私は『東北版』編集駐在員として、仙台に赴任したのである。
 仙台赴任が決まると、内科医の義兄(長尾透)が『仙台新風土記』という、46ページの小冊子をくれた。昭和33年4月に、仙台商工会議所から発行されたもの。その年、仙台で開かれた全国内科学会ほか四医学会総会で配付された資料の中に、入っていたのである。
 内容は「食べある記」「飲みある記」「遊びある記」の3部構成。「飲みある記」の冒頭に、「みちのく仙台の代表的酒亭」という表記で、炉ばたが紹介されていた。つぎに、そのさわりを引用しよう。(原文のまま)
-----料理は全て膳料理で、モンペをはいた主人が仙台弁で、自らサービスしてくれる。(略)客種は知名人、文化人が多く、7月14日15日の河童まつりのほか(略)季節に応じて種々の催しを行っている。酒は勿論天賞一級(110円)で、料理は1人前(12品位)220円と、そこら辺のバーで飲むよりずっとお安い。初めて仙台を訪れる方には是非お奨めしたい店。------
 赴任した年の6月13日、私は大学4年生になる従兄弟(白石通弘)を伴って、初めて炉ばたへ行った。この従兄弟は新聞記者志望で、新聞社の選択についての私の意見を聞くため、その日の朝、東京から来たのである。
 海無し県に育った私は、生ウニ、生ガキ、締めサバのたぐいが苦手だった。ホヤにいたっては、人間の食うものとは思えなかった。そのホヤを、愛媛県人の従兄弟は、初めて口にしたにもかかわらず、ペロリと平らげて、おんちゃんから賞状をもらった。初めてホヤを食べて、その魔味を解した者に贈られる賞状である。私も仙台にいる間に、しめサバや生ウニは好きになった。しかし、ホヤだけはいまも苦手である。
 この従兄弟は、翌年、希望どおり読売新聞社の記者になった。そして、10年後にマニラ支局の初代支局長を務めた。
 『東北版』編集駐在員の任期は、昭和40年4月までだった。この3年1ケ月の間に、炉ばたへは5回しか行っていない。回数に少ない理由は2つある。若かった私は、どうしてもキャバレー、寿司屋、中華料理屋といった実質的な場所に足が向いたことが一つ。もう一つの理由は、飲み友達の東北大学農学部助手(現在は教授)から、偏見を吹きこまれたことにある。その偏見とは、炉ばたにおける客とおんちゃんの関係は小作人と地主のそれである、というものであった。
炉ばたを訪れた英国の詩人
1923(大正12)年生れで、詩人、作家、英文学者の英国人、ジェームス・フォーコナー・カーカップが、本櫓丁一の炉ばたを訪れたのは、昭和34年3月4日である。この年の1月7日に仙台に到着し、1月20日から東北大学文学部で英文学を講じていた。J・カーカップは、2年後の36年1月14日に英国に帰るのであるが、その間の体験を、繊細かつ生き生きと綴った『にっぽんの印象』が、南雲堂から出版されている。そのため、炉ばたがこの詩人の目に、どのように映ったかを知ることができる。
-----夕方、古風な農家造りの「ろばた」という酒場へ行く。薄暗い入り口を、小さなちょうちんが照らしている。それから狭い、紙のついたて(筆者注、障子のことか?)の通路、その紙には穴がたくさん開いており、その最後に引き戸がある。(略)床の中央部分は全体約2フィート(約60センチ)ほどの高さになっている。(略)混んでいたが、笑って席を譲ってくれ、席につくことができた。------
 それから、室内の様子が詳細に描写されたのち、いよいよ、おんちゃんの登場。
------あるじが入ってきて、東北弁で「オバンデ、ゴザイマス」とあいさつをする。これは「Good Evening」の意である。彼と給仕の少女だけが壇に坐ったり、その上を歩いたりできる。彼は昔風のきものを着た、顔立のよいいなかの紳士で、高貴で、際立った存在でいかにもわが家の主人顔である。------
 昭和30年代の炉ばたが、脳裡に鮮やかに甦るではないか。このとき、おんちゃんは59歳だった。詩人の観察は続く。
------なんでも、主と客の間で木の鋤(すき)に載せて渡される。手から手へ渡すことはしない。主はただおつき合いするだけで、骨折ってまで、接待しようとしない。彼は接待されている風は見せないが、むしろ接待しているのは客のほうだ。ほとんど中世の殿様のような印象を受けた。-----
 じつに鋭い目。店におけるおんちゃんを、的確にとらえている。
------彼(おんちゃん)はいろりのうしろに坐り、せっせと大きな酒のガラスびんを火に掛かった桶にあける。-----
 との記述があるが、酒(この場合「鳳凰天賞」)の味について、まったく触れていないのは不思議というほかない。そのかわり、お膳に載った料理についての感想は、まことにユーモラスである。
------8種の別々の料理が出た。料理は見捨てられた人魚の食事の一部のようで、妖精のように軽く、微かに美味、時には驚くほど香りがよく、腹にまったくこたえない。-----
 季節の海の幸、山の幸が、手ぎわよく盛りつけられた皿小鉢を前にして、半ば当惑し、半ば感心したのであろう。
 J・カーカップは、南雲堂から『にっぽんの印象』のほかに、もう一冊『扇をすてた日本』を出している。私は、この二冊を昭和44年4月に、職場の同僚、横山謙二氏から贈られた。横山氏は、東北大学でJ・カーカップの講議を聴き、たいへん興味をもっていたのだ。横山氏から贈られなかったら、私はついに、J・カーカップの著書を手にすることはなかったであろう。
『扇をすてた日本』でJ・カーカップは、仙台を含む東北地方についての熱い思いを、つぎのように記している。
------私は仙台と松島、盛岡と横手、弘前と秋田に帰りたいと切に思うが、しかし、決して帰ることはあるまい、と知っている。あの、愛する場所をもう一度見て、もう一度去らねばならない。それは耐え難いことであるだろうから。------
 昭和44年ごろの私は、重度の仙台ノスタルジア症候群に悩まされていた。だから、この気持ちはよく理解できた。
本店、支店合わせて56回
 二度と住むことはあるまいと考えていた仙台であるが、編集駐在員として赴任してから、満20年後の昭和57年3月、東北支所長として、ふたたび赴任することになった。マンションの候補は三か所あったが、ためらわずに天賞ハイツ(八幡三丁目1)を選んだ。20年前に住んだ公宅の近くにあることが最大の理由である。マンションは、奇しくも、おんちゃんの本家たる天賞酒造が管理していた。つまり、おんちゃんは私の大家筋となったのである。
 私が第二の故郷と考えるほど、仙台に惚れこんだ原因の半分は、20年前に住んだ公宅が、閑静な屋敷町の中島丁22(現在は八幡三丁目13-8)にあったからだ。子供を連れてトンボやバッタを捕りに行った原っぱが、天賞ハイツになっていたのである。
 入居した天賞ハイツC棟306号室からの眺めはじつにすばらしかった。青葉山と天賞苑の木々の四季の変化は、単身赴任で味気ない生活を、どれだけ慰めてくれたかわからない。
 単身赴任は、どうしても夜の無聊をかこつことになる。さりとて、脂粉の香の強い所へ行く気は起らぬ。けっきょく、炉ばた本店と支店へ足繁く通うことになった。
 二年間の任期中、本店へは22回、支店へは34回行いる。支店の数が多いのは、本店のほうが閉店時間が早いのと、満席のことが多かったせいだ。おんちゃんも、本店を閉めてから支店へ現われるので、しばしば顔を合わせた。そして、種々の話を聞くことができた。
 20年前、私が中島丁の公宅から、市電八幡二丁目の停留所へ出るとき通る坂道の右側に、古ぼけたコンクリートのアパートがあった。グリーンハウスという名前だった。
 おんちゃんの説明によると、このアパートは、昭和初年に、東北大学医学部の教授に頼まれて、医学部学生の寮としておんちゃんの父君が建てた。依頼したのは、布施という名字の解剖学の教授で、奥さんは相場黒光の姉だった。
 緑荘という名の、このアパートが建って以来、中島丁に医学部関係者の家が増えたそうだ。そういえば、昭和51年2月から5年間、郷里の秋田大学で学長を務めた九嶋勝司氏も、東北大学医学部産婦人科教授時代は、中島丁に住んでいた。なお、緑荘が荒れたのは、戦後、進駐軍の慰安婦が入居したため、とのことだった。
 私はこの話を、昭和57年7月5日と11月15日の二度、炉ばた支店で聞いている。11月15日は、もう一つ興味を覚えた話題があった。
「三大閨秀歌人といわれた九條武子、柳原百連、原阿佐緒(はら あさお)。私は三人とも知っています。九條武子は大正6年に一度会ったきりだが、百連には何度か会いました。晩年は業突張りの婆さんでしたな。最も美人で、晩年までその美しさを保ったのは原阿佐緒ですよ」
 鳳凰天賞の命名の由来を聞いたのは、昭和58年10月12日である。大崎八幡宮の御神酒を造っていたので、神社のハトにちなみ鳩正宗と称していた。明治27、8年の日清戦争で買ったのを機に天勝と改名。明治41年、皇太子だった大正天皇の仙台行幸のさいに、天勝が買い上げられたのを記念して、天賞と改めた。ところが、松江市に同名の酒がすでにあったため、話し合いのすえ、現在の鳳凰天賞に落ち着いたそうだ。
別れの言葉は「私もインピン」
 おんちゃんの前では、酔態をさらさぬよう心掛けていたのだが、昭和58年11月21日は酔ってしまった。覚えているのは、おんちゃんのタクシーに八幡一丁目まで便乗して帰宅したことだけ。心配になり、24日に炉ばた支店へ行った。
 支店の加藤和子さんの説明によると、タクシーには炉ばた別亭の祝(しゅく)ちゃんも同乗したそうだ。それも記憶にないのだから、よほどひどい酔い方だったとみえる。そこへ、おんちゃんが現れた。
「21日は、たいへん失礼しました」
「いや、なにも失礼なことはありませんでした。しかし、珍しくいいあんばいでしたな。あなたは詩人だ。青葉山の四季や、天賞苑(天賞ハイツの東隣にある、天賞酒造所有の茶室と庭園)のイチョウの黄葉の美しさについて、えらく熱心に語ってござった」
 こういわれて赤面した。
 この晩も、おんちゃんのタクシーに便乗した。厚生病院裏の通りに入ったところで、タクシーを止めたおんちゃん。
「仙台一安い店を紹介しましょう」
 案内されたのは布沙子(ふさこ)。酢ガキをごちそうになった。
 こうして、仙台在任中にタクシーに乗せていただいたのは七回。光栄な思い出である。
 12月5日の夜、炉ばた支店でおんちゃんから、「映画のひとこま、というときのコマは、駒の字でいいんですかな」と聞かれた。このときの酔っていた私は、すこぶる頼りない返事をした。
 翌日、駒ではく齣であるむね、葉書でお知らせしたところ、さっそく7日付けの次のような礼状をいただいた。

   心のひと齣  そのひとこまを
   忘れてナマ酔い  なさけなや
    御教示、 ありがたし
      コマッタときには
      教えて下さい
          炉盞呆
 師走七日 ひる

 昭和59年2月2日、人事異動の内示があり、私は3月1日付で東京に戻ることが決まった。2月25日、炉ばた支店で、おんちゃんがしみじみ言われた。
「あなたのように、天賞苑のイチョウをほめてくださった方はいません。3月には天賞苑で、私の誕生祝いをやるからいらっしゃい。あなたのような方とは、もっとおつきあいしておきたかった」
 2月29日、東京から来た従兄弟を連れて、炉ばた本店へ行った。この従兄弟は、昭和37年6月13日に、ホヤを賞味して賞状をもらった男である。ひとしきり、22年前の思い出話がはずんだ。
 このとき、私は初めて両親が高知県人であることを話した。そして、明治、大正期の文人・大町桂月(おおまち けいげつ)から、私の母方の祖父宛に来た、大正8年3月3日消印の絵はがきを披露した。桂月と祖父は従兄弟だったのである。
 おんちゃんも、うしろの戸棚から、高知の連れ尿(つればり)人形を取り出した。三人の女性が、尻をまくって立小便をしている珍品。背後から見ると、あるべきものがちゃんとあった。
 3月7日は仙台最後の夜である。炉ばた本店へは午後6時13分に着き、1時間半待っておんちゃんに会うことができた。
「私もインピン(仙台弁で気難しい人、へそ曲がりのこと)だが、あなたもインピンだとにらんでいました」
 これが、文字どおり今生の別れの言葉となった。

1993(平成5)年8月16日
「おんちゃんと著者」写真
おんちゃんからの葉書
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