| 中大兄皇子・天智天皇の時代(645〜671の27年間)中国では唐の拡大(東突厥、高晶国の征服)、朝鮮では百済、高句麗の滅亡と統一新羅の誕生という出来事が起きた。当然、日本にも多くの影響を及ぼした。その中で、もっとも影響が大きかったのは、百済支援と泊村江での敗戦であった。その後、日本は直接的に唐の脅威にさらされることになる。井沢元彦氏・小林惠子氏などの収集したデータと分析を元に、独自の意見を交え、天智天皇の実像にせまろうと思う。 |
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645年乙巳の変(大化改新)がおきる。中大兄皇子、中臣鎌足や蘇我石麻呂などを味方に付けて、蘇我入鹿とその父蝦夷を殺害し、政権を奪取した事件である。当時、蘇我氏は日本で最大最強の豪族であり、日本を朝鮮系皇族支配から脱却させ、仏教を国教とする国造りをしていた。 これに対して、2つの大きな反動勢力があった。一つは、朝鮮系皇族、とくに百済系・高句麗皇族の反発、2つ目は、八百万の神を信奉する勢力である。前者の代表が中大兄皇子であり、後者の代表が中臣鎌足であった。また、高向玄理のように遣唐使帰りで、親唐的な「知識階級」の勢力も反動勢力としてあった。 (注意)高向玄理、南淵請安は、540年、10年間の唐留学生活から帰国している。その後、高向玄理は日本の外交官として活躍した。 日本の歴史教育では、乙巳の変以降日本は、中国式の政治改革(律令制度の導入)をしたことになっているが、最近の研究では、この変が怪しくなっている。つまり、律令制度の根幹である「改新の詔」は、乙巳の変の翌年、646年に作られたものではなく後世作られたものであるという見方である。 ただ、体系的でないにしろ、新政権の目玉として、要路・津港の改修、戸籍の作成などは、行ったものと思われる。また、この時期、百済を経由して多くの実用品が日本に紹介されたことも事実である。 中でも天智天皇が35才の時、導入された水時計は、官僚の管理上、重要な道具であった。だからといって、政治形態まで、中国式になったとわ思われない。その証拠に、乙巳の変から6年後の651年に、日本への新羅使が中国風の服を着用していたので、中大兄皇子は、不快感を表している。 (注意)649年、新羅は唐服装を採用している。この時期、唐と新羅は、軍事的同盟関係にあった。
要するに、乙巳の変は、蘇我氏の仏教国家作り路線から、八百万神派・百済派・高句麗派による朝鮮問題介入路線(当初意図したものではないが、結果としてそうなった)に方向転換したのである。 特に唐と新羅の軍事同盟を成立させた金春秋(後の新羅の太宗武烈王)が647年に、金多遂とともに日本を訪れ、9ヶ月滞在して帰国している。当代の一級の政治家が日本を訪れたということは、日本書紀には「人質として金春秋が日本に来た」と書いてあるが、金春秋が何らかの意図を持って、日本に来たことは明らかである。 前年、高向玄理が新羅に訪問しているので、唐・新羅・日本の三国軍事同盟の成立を目指して、日本政府と9ヶ月に亘って交渉したものと思われる。舒明天皇は新羅から派遣された天皇であるが、百済系の皇極天皇後の後任は、再度、新羅から出すべきだと金春秋は、主張したものと思われる。しかし、この主張は、すぐには受け入れられなかった。 (注意)金春秋は、日本滞在9ヶ月で、帰国しているが、金多遂が帰国したという記録はない。筆者は、後の天武天皇は、金多遂でないかと思っている。この説は、佐々木克明氏によって最初に提唱された。 蘇我氏は、蘇我蝦夷の代から、日本の王を百済、新羅の王族から、選出したものと思われる。こうすることで、百済、新羅との関係を良好に保つためである。蘇我氏自身は、王族でないので、日本の王とはなれなかた。 いってみれば、推古天皇が崩御して以来、本当の意味での倭国王は、いなかったものと思われる。欽明王朝の血筋は、聖徳太子の息子である山背大兄皇子が最後と思われる。 だからこそ、蘇我入鹿が山背大兄皇子を殺害したとき、日本書紀によれば、蘇我蝦夷は、蘇我入鹿の行為を嘆くとともに山背大兄皇子の死を悼んだのである。これは、日本に王族の血が耐えたため、今後の国家経営が難しくなることを嘆いたものと思われる。 そこで、思いついたのが、舒明天皇(新羅王族:在位628-641年)、皇極天皇(百済王族:在位641-645年)と新羅と百済の王族を迎える方法であった。欽明王朝(欽明、敏達、用明、崇峻、推古)が朝鮮の金官国の王族であることを考えると新羅王族や百済王族の人が蘇我氏の傀儡ではあるが、倭国王になることは当時の豪族達にとしては、受け入れられない話ではなかった。 乙巳の変は、金春秋が643年に新羅で起こしたクーデターの方法と酷似している。当時、新羅内の勢力は、中国との連合派と非連合派とで対決していたが、皇太子であった金春秋率いる連合派が、王の座前で、反対派の頭目を殺害したというものである。 つまり、2年後に全く同じ方法で、中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害したのである。また、中大兄皇子と鎌足は、「蹴鞠」の席で出会ったとされているが、金春秋も味方の頭目との出会いが、「蹴鞠」の席と言うことで共通している。これをみるとどちらかが、真似をしたとしか思えない。おそらく、金春秋のやり方を中臣鎌足が知り、同じ方法で、蘇我氏討伐を計画したものと思われる。 (注意)ここでは、日本が新羅の真似をしたという説を採っている。ただ、最近の研究では、蘇我入鹿を殺害したと言われる飛鳥板蓋宮の大極殿は、当時はなかったと言われている。これから、乙巳の変は、フィクッションではないかという推測もされている。 蘇我氏討伐後の孝徳天皇や中大兄皇子は、日本をどのような国家にしようとしていたのであろうか。中国式の律令制度でないことは、すでに述べた。当時の政府の実権は、孝徳天皇と中大兄皇子が握っていた。 孝徳天皇の目的は、出身国である高句麗を唐から救済すること、中大兄皇子の課題は、百済を新羅から救済することであった。当時、高句麗や百済は、唐・新羅の連合軍にいつ攻められてもおかしくはなかった。 現に、高句麗は、644年以降3回も唐と交戦している。そのため、日本国内の軍国化と高句麗への救援が急務であった。蘇我氏のように仏教国家などという悠長なことは言っていられなかったのである。そのため、公地公民制や道路港湾の整備、駅伝制の設置、兵や軍需物資の調達のための、戸籍や里・五保制の設置などを実施している。645年から壬申の乱が終了する672年までは、日本が急速に軍事国家に変身した時期であった。 つまり、乙巳の変の目的は、蘇我氏の進めていた全方位外交、すなわち、日本の中立と独立と言った理想主義路線を打破し、積極的に高句麗・百済を救援することで、唐や新羅から高句麗・百済を守ろうとするものであった。裏返せば、それほど唐の脅威は、高句麗・百済・日本に迫っていたのである。 孝徳天皇や中大兄皇子を中心とする日本の多くの豪族は、百済・高句麗と共に唐・新羅との交戦路線を進めようとしていた。 日本の豪族が、そこまで、百済や高句麗を支援したには理由があった。高句麗は、先の隋帝国のときにも隋の遠征軍を3回追い返したが、唐の時代になっても、乙巳の変の前年である644年に、唐の太宗自ら、遠征軍を率いて高句麗に押し寄せてきた。 これに対して高句麗は、唐の軍隊を追い返している。日本から見ると高句麗は軍事的強国に見えたのである。すなわち、高句麗・百済の連合は、唐・新羅連合に匹敵するほどの勢力と見ていた。 (注意)当時の高句麗の領土は、今の北朝鮮と中国の吉林省東部の延辺自治州を合わせた領域であった。9世紀に起きる「渤海国」は、高句麗を作った民族と同じであるが、王朝が違う。なお、高句麗人は高句麗国といわず高麗国(「句」の字は、辺境民族差別語であった)と呼んだ。 ところで、日本書紀では、乙巳の変の推進者として、中大兄皇子、中臣鎌足、蘇我倉山田石川麻呂などを挙げているが、乙巳の変後、倭国王になった孝徳天皇や中大兄皇子の弟と言われている大海人皇子については、この時期は、なにも記述していない。 ただ、敏達天皇から皇極天皇までの時代は、蘇我氏の時代で(馬子、蝦夷、入鹿)あり、特に推古女帝以降の舒明天皇、皇極女帝は、蘇我氏の都合で倭国王になった人である。 一説には、舒明天皇は、新羅の皇子(新羅の王、自身との説もある)、皇極女帝は、百済の王の妃との説もあり、蘇我氏の意向により、対新羅対策、対百済対策上、新羅や百済から皇族を呼んで、形だけ天皇にしたとも考えられる。蘇我氏は、百済の出身ではあったが、皇族でなかったため、当時の朝鮮、日本の慣行として蘇我氏が天皇になることはなかったのである。 ついでに述べると、孝徳天皇は、皇極天皇の弟となっているが、乙巳の変後、突然、倭国王に祭り上げられているところをみると、乙巳の変になにがしの功績があったものと思われる。乙巳の変が、蘇我氏の中立・朝鮮不干渉政策を排除し、日本を百済・高句麗側に付けようとして行われたクーデターであることを考えると孝徳天皇は、高句麗出身の皇族とも考えられる。(新羅出身との見る人もいる) これに対し、百済出身の皇族は、当時、皇極女帝、中大兄皇子、余豊璋(当時の百済王の子、中大兄皇子と同一人物と見られる)などがいた。また、新羅出身の人(皇族でなく軍人か)としては、乙巳の変後、大海人皇子が新羅から来たものと思われる。 このことは、当時の遣唐使の航路から推察される。この時期、630年〜669年まで6回に亘り遣唐使を送っているが、倭国王としては、舒明天皇(遣唐使1回)、孝徳天皇(同、1回)、斉明天皇(同、1回)、天智天皇(同、3回)の時代であり、1回目から5回目までは、百済、高句麗の領海を通って、唐に至っている。 ところが、669年に天智天皇が送った6回目の遣唐使は、奄美大島経由で、今の上海付近に上陸している。これは、669年には、すでに百済・高句麗は、新羅によって滅ぼされていたためで、従来の航路は、敵国新羅の支配下に入っていたのである。 ![]() 乙巳の変により、唐・新羅連合軍に対して、高句麗・百済・日本の連合軍ができたことになる。日本は、孝徳天皇(高句麗出身)、中大兄皇子(百済出身)の二頭政治となったが、月日が経つにつれて、孝徳天皇と中大兄皇子が不仲になった。 不仲の原因が何であるかは判らないが、先の新羅の金春秋の提案に対する取り扱いの違いが、原因とも思われる。また、俗説ではあるが、孝徳天皇の妃は、中大兄皇子の同母の妹の間人皇女であったが、この妹と中大兄皇子は、不倫関係にあったとも言われている。当時、この関係は、公然の秘密であったが、同母兄・妹の恋愛関係であったため、周囲から非難の的になった。 こうした中、654年、とうとう中大兄皇子一派は、孝徳天皇に見切りを着け、難波宮を出て、飛鳥に戻ってしまう。中大兄皇子の2度目のクーデターである。このときは、乙巳の変とは違い無血クーデターであった。 中大兄皇子としては、乙巳の変とは違い、高句麗を代表する孝徳天皇を殺すことはできなかったのである。難波宮に取り残さた孝徳天皇は、翌年、655年、病死する。(暗殺か)中大兄皇子は、百済の皇族である母を再度、天皇にすることで、高句麗との関係や百済との関係を維持した。 ここで、中大兄皇子が天皇になれなかったのは、高句麗からの指示により中大兄皇子が天皇になることが拒否されたためと思われる。(孝徳天皇が新羅出身とみる人は、新羅の指示により、天皇になれなかったと見ている) ところが、それから3年後、658年、さらに悲劇が起きた。当時、孝徳天皇の子に有馬皇子がいた。中大兄皇子は、有馬皇子に帝位を奪われるのを畏れるあまり、有馬皇子を無実の罪(反逆罪)で捕らえ処刑したのである。 日本書紀によれば、中大兄皇子の忠臣、蘇我赤兄が有馬皇子に中大兄皇子の悪行を述べ、共に中大兄皇子を打つよう薦めた。18才であった有馬皇子は、最初は、気違いの真似をして、蘇我赤兄を警戒したが、ついに蘇我赤兄に同意した。 ところが、その夜、中大兄皇子の追っ手が掛かり、有馬皇子はあっけなく捕らえられてしまう。この時、斉明天皇は南紀の牟呂温泉にいたので、有馬皇子は牟呂まで連れて行かれ、裁きを受けたが、結果は死刑であった。これは、中大兄皇子の陰謀であることは明白である。 なぜなら、後年、蘇我赤兄は左大臣にまで昇進している。この話は、乙巳の変を起こした中大兄皇子でも658年の時点で、必ずしも天皇になれる保証はなかったということである。要するに、高句麗や百済の意向によっては、有馬皇子が天皇になる状態であったことを物語っている。 その翌年、659年、ついに唐・新羅の連合軍は、百済を攻撃することになるが、百済は翌年の660年には、唐の大軍の前に破れる。これにより百済王は死ぬことになるが、残った百済の将軍達は、九州に住んでいた百済王の子・余豊璋を百済の王に迎え、再度新羅との決戦に臨んだ。日本は、662年、阿倍野比羅夫を将軍として、百済に援軍を出している。 日本書紀によれば、このとき、斉明天皇は、奇妙なことをしている。余豊璋を百済王に斉明天皇自身が任命しているのである。見ようによっては、百済が日本の属国になるような光景である。 しかし、余豊璋と中大兄皇子が同一人物としたならば、この不可思議な任命式も問題にならない。百済出身の斉明天皇が、空位となった百済王に我が子を据えただけなのである。日本書紀では、この時期、余豊璋が百済王になり、中大兄皇子が天皇になったと記している。 このとき、斉明天皇は九州にあって、病気となり、明日も知れない命であった。百済の将軍達や日本側も、このような百済王の任命方法を、何の違和感もなく認めたということは、斉明天皇と余豊璋の関係が、斉明天皇と中大兄皇子の関係と同じであると考えられる。すなわち、余豊璋と中大兄皇子は同一人物であったとみることができるのである。 考えてみれば、「中大兄皇子」という呼び名は不思議である。当時王子の名は、母方の出身地の名か、母方の姓をもらってつけるのが普通である。中大兄皇子も葛城皇子という大和葛城地方の出身らしき名は持っているが、どういうわけか、彼だけが中大兄皇子という「次男坊皇子」の名で呼ばれている。 これは中大兄皇子をある特定の名で呼ぶことができない理由があったのではなかろうか。つまり葛城皇子と呼んだら嘘になってしまうのではないかと思えるのである。 余豊璋が百済に入り、新羅と戦いをするが、戦局はうまくゆかず、日本の豪族に援軍を頼むことになる。これに対し、日本側は、2万5,000人の軍隊を送ることになるが、この軍隊が朝鮮に着いたときは、すでに余豊璋の百済軍は破れていた。 援軍は、663年、白村江で唐・新羅連合軍と戦うことになるが、軍略的なまずさもあって敗戦となり、多くの日本軍が新羅の捕虜となった。このとき余豊璋は高句麗に逃げたと日本書紀や朝鮮の三国史記には書いてあるが、これは疑わしい。九州で育った余豊璋は、九州に帰えると思われるからである。 つまり、余豊璋こと中大兄皇子は、大和に帰ったものの、その後、立場が非常に弱いものになってゆく。ここで(663年)、百済の国は完全に滅んだ。667年、天智天皇は、妃の実家である大友氏を頼って、琵琶湖畔の大津に都(近江京)を移し、唐・新羅の日本進出に備える日々となった。 日本書紀ではこのころから大海人皇子が登場して活躍する。だが、なぜかこの大海人皇子は出生、年齢が不明である。しかも乙巳の変や朝鮮出兵の時に名前すら出ていなかった皇子である。
それ以外の天皇は、嘘か本当かは別にして年齢が書かれているのである。つまり、日本書紀の作者は、何らかの理由で故意に天武天皇の年齢を隠したのである。 多くの歴史家の見方は、天武天皇は、天智天皇の弟どころか、全く血縁関係のない人と見ている。ところが、日本書紀では、無理に天武天皇を天智天皇の弟と設定したため、もともと年上であった天武天皇の年齢が書けなかったと見られている。 それもそのはずで、大海人皇子は、戦勝国の新羅から戦後処理のため、日本に派遣された新羅の人なのである。ここで、大海人皇子が、新羅の皇子かどうかという問題がある。新羅の皇子であれば、当時のしきたりから見て、日本で天皇になることができるが、皇子でなければ天皇になれない。 大海人皇子が新羅の皇族か否かということは、今でも判っていない。ただ、天武天皇は、日本書紀30巻の内、2巻を使って、天武天皇が正当な天皇の継承者であることを累々と述べている。ということは、逆に、天武天皇は、天皇になれる血筋ではなかったとも推測できるのである。ここでは、天武天皇は新羅の皇族ではなく軍人との説を採る。 百済滅亡後、朝鮮半島は唐と新羅の覇権争いがおこるが、日本においては新羅系と中国系が勢力をもつようになり、百済系の天智天皇は風前の灯火であった。唐・新羅連合軍は百済を滅ぼしてから5年後の668年、次に高句麗を攻め滅ぼした。 しかし、朝鮮における唐と新羅の連合軍は連合状態にある一方で、朝鮮半島の支配権をめぐって争がおきてきた。高句麗が滅んでから、今度は、朝鮮半島で唐と新羅の指導権争が起きた。新羅は、旧百済、旧高句麗の武将を駆り立て、唐を朝鮮半島から追い出すように画策した。 この時期、天智天皇は、政権を「近江京」で維持していたが、唐から新羅征伐に参加するように再三催促された。中大兄皇子にとって新羅は、祖国百済を滅ぼした敵国ではあったが、当時の日本は、新羅出身の大海人皇子が勢力をもっていた時期であり、天智天皇一人では、どうしょうもない提案であった。 そうこうしているうちに671年、太宰府に唐の使節・郭務宗が、3000人の軍隊とともにやってきた。天智天皇としても、唐に付くか新羅に付くか最終的な決断をしなければならなかった。おそらくその決断は、唐とともに新羅と戦うことであったろうと思われる。ここにいたり新羅派の大海人皇子も新羅擁護のため、天智天皇と戦かわなければならなかった。 大海人皇子側の作戦は天智天皇が唐に返事をする前に天智天皇を暗殺することにあった。そのことは、唐の使節が来てから1ヶ月後(671年11月か12月)、京都山科で天智天皇を誘拐殺害という形で現れたのである。 このことは、「扶桑略記」に三井寺(園城寺)の伝承として今に伝えられている。 当然天智天皇の息子・大友皇子は、直ちに即位して天智天皇の政策を継承したが、ことは朝鮮への出兵だけに国内の安定が第一の条件となり、父天智天皇を殺害した大海人皇子を放置しておくわけにはいかなかった。 大海人皇子としても目的は天智天皇の殺害でなく朝鮮出兵の阻止であるから、大友皇子が天智天皇の政策を遂行する限り、戦いはさけられなかったものである。すなわち、壬申の乱の勃発である。 扶桑略記によれば、天智天皇は、ある日、山科に馬で出かけた。ところが、いつまで経っても帰りがなかったので、山科一帯を探したところ、天智天皇の靴のみが落ちていた。 そこで、靴が落ちていたところに墓を作ったというものである。この墓は、今でも、東海道線「やましな」駅の近くにある。要するに、天智天皇は、拉致されて殺害されたと見られるのである。 一方、伝承ではあるが、京都近くの宇治市小倉町天王に今はないが、江戸時代まで、「天智天皇」と書かれた石碑が建っていた。近くの寺の言い伝えでは、天智天皇が、運ばれてここで、埋葬されたというのである。 地名である「天王」と言う名も、「天智天皇」の石碑から来たとされている。この宇治市小倉町天王の地は、天智天皇が殺害されたころは、山科とは、「やましな川」で結ばれていたのである。当時は、小舟一つで、拉致した天智天皇を宇治市小倉町天王まで運ぶことができたのである。 日本書紀による天智天皇の最後は、枕元に大海人皇子を呼び、事後を託したと記されている。しかし、大海人皇子は、身の危険を感じて、次期天皇に天智天皇の息子である大友皇子を推薦して、自身は吉野に僧として隠遁生活をしたことになっている。 そして、大友皇子が、大海人皇子討伐軍を編成しているとことを知った大海人皇子は、吉野で兵を募り、吉野から三重県側に出て、関ヶ原に進み、そこで、地方豪族の兵達と合流して、近江京を攻めたとされている。要するに、大海人皇子は、天智天皇の禅譲を辞退し、隠遁生活をしたにもか拘わらず、大友皇子が戦を仕掛けてきたので、やむをえず挙兵したという作り話を日本書記に書かせたのである。 そのうえ、天智天皇亡き後、大友皇子は、すぐに天皇になったと思われるが、日本書紀では、大友皇子は、天皇になっていないことにした。大海人皇子が天皇と戦禍を交えるのを避けるために、大友皇子を皇子のまま、壬申の乱に登場させたのである。最も、明治になってから、大友皇子は、「弘文天皇」とされ、39代天皇として認められている。 壬申の乱は、1カ月ほどで終わるが、結末は東国、美濃、大和地方の豪族から多くの支持を得た大海人皇子の勝利となり、大友皇子派は大友皇子の自害とともの解体した。ここにいたり日本の実力者となった大海人皇子は、天武天皇となり、親新羅政策を柱として政権を発足させた。 しかし、問題はすぐに内外から起こった。国内からは、大海人皇子を天皇として認めないという勢力である。日本の天皇制は、モンゴル族のような北方民族の影響が強く、血筋がなければ、王位につけないという習慣である。大海人皇子の前身が、どのようなものであったかは、現在でもよくわかっていないが、新羅の軍人と見られ、当時の人からみれば天皇位につけるような身分ではなかったのである。 674年には、唐と新羅の全面戦争になった。唐と新羅との全面戦争は2年間続いたが、676年、ついに、新羅は朝鮮半島から唐を追い出し、「統一新羅国」を作りあげた。このことは、唐にとって、日本の重要性が一段とましたことを意味していた。どうしても新羅を攻めたい唐は、再度日本への圧力を加えた。 唐の政策は、朝鮮侵攻を第1と考え、大和政権とは手を握るというのが当面の政策であった。したがって、日本とは敵対することは、さける方向であった。これも新羅が滅びるまでのことで、新羅滅亡後、今度は日本が侵略される番である。 これらのことは、この時期日本が、大きく唐風の制度に傾いたことからもわかる。すなわち、律令制度を本格的に導入することにより、天武天皇政権が親唐政権であることを示したのである。 反唐、親新羅勢力として誕生した天武天皇政権であるが、唐の軍事力のもとに心ならずも唐に協力する形で生きなければならなかった。しかし、この事態に新羅は大いに驚きこれまで反唐一辺倒であった新羅が、問題を外交的手段で解決しようと動き始めたのである。 すなわち、唐に対しては臣下の礼をとり、日本に対しては、任那からの使者を復活させたのである。この事態にいたり唐、新羅、天武王朝の関係は安定を見ることになるが、日本はその後長く防人制度が存続し、多くの農民が過大の負担を負うことになった。 天武天皇と天智天皇が血縁関係にない。また、天武天皇が天皇になれる血筋ではないということは、以下の3つの話からも判る。 その第一は、天武天皇は、天智天皇の娘4人、藤原鎌足の娘2人を妃としている。 持統女帝はその内の一人であるが、本当の兄弟ならば、これほど兄である天智天皇が弟である天武天皇に気を遣うはずがない。また、天智天皇と命運を共にした藤原鎌足も2人の娘を妃に出している。これは、戦勝国である新羅の代表である大海人皇子に対するご機嫌取りに人質を出したと見られる。 (注意)天武天皇の妃を日本書紀より列挙すると以下の通りである。大田皇女(おおたひめみこ)、鵜野讃良皇女(うののさららひめみこ)、大江皇女(おおえひめみこ)、新田部皇女(にいたべひめみこ)以上天智天皇の娘、氷上娘(ひがみのいらつめ)、五百重娘(いほえいらつめ)以上藤原鎌足の娘、大ぬ娘(おおぬのいらつめ)蘇我赤兄の娘、額田女王(ぬかたのひめおう)、その他3人である。 第二は、日本書紀に記されていることとして、天皇家の象徴である「草薙の剣」の御霊が、天武天皇に祟っているのである。これは、天武天皇が正当な天皇の後継者ではないことを示す話とも取れる。 そのため、「草薙の剣」は、熱田神宮に奉納される事になる。天武天皇の正統性を擁護するために書かれた日本書紀ならば、「草薙の剣」のこの話は、削除すべき内容であるが、どういわけか、天武天皇の不当性を伺わせるような内容が日本書紀に出ている。 第三は、京都・泉涌寺(せんにゅうじ)にある位牌である。泉涌寺は、桓武天皇が作った天皇家の菩提寺であるが、桓武天皇は、天智天皇から6代下がった血筋の天皇である。 天武王朝(天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、(称徳))8人の位牌はない。泉涌寺には、天智、光仁、桓武・・・と天皇の位牌は奉られているのである。 このことは、天武王朝は、天智天皇の後胤を主張する桓武王朝とは、関係ないということを示している。最も、持統天皇は、天智天皇の娘であるから、その子孫である文武天皇、聖武天皇、称徳天皇などが、桓武天皇と全く血のつながりがないというわけではない。ただ、父系としては、血のつながりがないという意味である。 朝鮮の新羅・高句麗・百済の三国時代は、4世紀から7世紀までの300年間も続いた。しかもこの300年の大半は、戦乱状態であった。この時期は、日本では、邪馬台国などの部族国家が成立したころから、律令制度が定着した時期にあたる。 日本の領土は、この間、大半が朝鮮三国の領土と化したものと思われる。そうした中、物部氏、蘇我氏、中臣氏などのようにルーツは、朝鮮かも知れないが、日本の豪族として確実に倭人国家を形成していったものが現れた。 しかし、日本の王や後の天皇は、朝鮮の皇族によって占められ、674年、朝鮮が新羅によって統一されたころ、日本では天武天皇以降、やっと倭人出身の天皇が誕生したと考えられる。 以上 |
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