| 日本という国名は、どのようにして作られたか。今回は、日本の国名制定の真相を推理してみる。ただし、この内容は、当方の研究成果とも言うべきものであり、通常の古代歴史の学説とは違うものである。(1999年11月13日 53歳) |
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任那日本府(6世紀まで朝鮮にあったと言われている倭人の出先機関)、日本書紀(720年完成)などのように「日本」という言葉が、使われている。しかし、どういう訳か「日本」という言葉をいつ誰が決めたのか。どこにも記述していない。日本書紀ぐらいには書いてあってもよさそうであるが、表題が「日本書紀」であるのに、国名を決めた経緯がどこにもないのである。 中国では、王朝ができると必ず国名を変える習慣がある。たとえば、鮮卑系民族が作った北魏、北周、隋、唐といった一連の国は、民族は同じであるが王朝が違うために国名が違う。最も隋や唐にいたっては、国民の数では鮮卑人よりは漢人の方が多かったと思われるが、、 ところが、日本では古事記(712年)や日本書紀(720年)が作られた700年ごろは、内外に日本を治める「天皇家」は万世一系で古い歴史をもった王朝であるとした思考が強かった。 王朝が一つであるから、国名も一つ、しかも古くからある王朝であるから、国名も古くからある、としたかったのである。こうして、この国を「日本」と命名しておきながら、制定した人と制定した時期を伏せたのである。こうすることにより、自国を美化しつつ、自分の王朝のカリスマ性を内外に高めようとしたのである。 この考えは、日本特有のものではない。当時、中国では唐が王朝の基盤を築きつつあったが、唐の初代皇帝(李世民)は、自分の兄・弟を殺し、父を幽閉して皇帝までにのし上がった人であるが、皇帝になってから、王朝は(自分は)鮮卑人でありながら、漢風の文化や制度を取り入れ、自分の出自やこれまでの行いを美化するのに懸命になった人である。 杉山正明氏は、世界の王の中で、彼ほど自分や自国を美化した人はいないと言っている。このような人だからこそ、属国に対して遣唐使の派遣を要求し、自国の文化を周辺国に押し付けようとしたのである。 (注意)杉山正明著:「遊牧民から見た世界史」を参考 本編第1弾で述べたように、筆者は、日本という国名は、蘇我馬子と聖徳太子によって提案された国名であると考えている。4世紀に今の大阪から奈良あたりにあった純粋に倭人の国である「ひのもと国」からヒントを得て「日本」と命名したのである。 今の大阪あたりは、4世紀ごろは、クサカ(草香)と呼ばれていた。しかも、そこは、ひのもと(日下)の国であるから、他の草香と区別するため、「日下(ひのもと)の草香(くさか)」と呼ばれていたのである。現在でも「日下」と書いて「くさか」と読むのは、このためと言われている。 蘇我馬子と聖徳太子は、日本独立のため、国記や帝記をつくり、隋にまで使節を送った人達である。彼らは、第2回目の使節に持たせた国書の中で「日出るところの天子、日没するところの天子に申す。恙無きや、、、」と書いている。また、第3回目以降の国書では、「東の皇帝、西の皇帝に申す」と書いている。 (注意)「日出るところの天子、、、」の国書は、日本書紀では第1回目の遣隋使となっているが、中国側の資料では第2回目の遣隋使となっている。 つまり、日本の国王を「天子」や「皇帝」と呼んでいるのである。そもそも、中国の最高権力者は、神に対しては、自分のことを「天子」といい、国民に対しては「皇帝」といい、外国に対しても自分のことを「皇帝」と称した。 これに対して、日本では、聖徳太子から100年後に作られた延喜式の中で、日本の最高権力者は神に対しては「天子」、国民に対しては「天皇」といい、外国に対しては「皇帝」と称するとしている。 (注意)遣隋使の国書には、隋に対して「東の皇帝、西の皇帝に申す」という形式をとっている。東の皇帝とは日本の天皇のことである。 そもそも、日本の歴史教育では、隋を今の中国を代表する超大国であるかのように教えているが、当時の隋は、周辺にはまだ多くの国が残っていて、必ずしも超大国ではなかった。実際、高句麗との戦いでも3回戦って、3回とも隋は破れているのである。仮説ではあるが、聖徳太子はこうした隋の脆弱さを知っていたものと思われる。しかし、簡単に滅びるとも思ってもいなかった。 話を戻すと、このように蘇我馬子が、ここまで独立国として取り決めていながら、国名を決めなかったということは考えられない。蘇我馬子や聖徳太子が作った帝記や国記は、現存しないが、その中には、日本の国名をどのように呼び、どのような経緯で決めたかが書かれていたと思われる。 では、なぜ帝記や国記は、現存しないのか。日本書紀では、帝記や国記は、蘇我馬子の後継者、蘇我蝦夷が自害したときに家ともども焼失したことになっている。帝記や国記ならば、当然、天皇家にも保存してあったはずである。 現に、聖徳太子が書いたとされている経典は、3点ばかり残っている。また、法隆寺には、聖徳太子が書いたといわれる書類が残されている。これは、古くからの言い伝えで、文箱に入っていて、決して開けてはいけないといわれている。これをレントゲンで透視したところ、中には手紙のようなものが入っていることが判った。 このように、聖徳太子関連の書類や経典は残っているのに、国家的事業で作成した帝記や国記が現存しないというのは不思議である。現存しないのは、故意に破棄したからと思われる。なぜ、故意に破棄したか、それは、帝記や国記の内容が、後に作られた古事記や日本書紀の内容と大きく違うためではないだろうか。特に日本書紀は天武天皇によって発案されたが、内容は、天武天皇の皇后であった持統天皇の意思が強く働いている。つまり、日本書紀は持統天皇の都合のよいように作られたのである。 古事記は太安万侶、日本書紀は舎人親王によって作られたとされているが、天武天皇や持統天皇の下で、これらの構想を練り、指揮したのは藤原鎌足の子、藤原不比等である。したがって、帝記や国記の破棄を命じたのは持統天皇、実際に破棄した人は藤原不比等と考えられる。 (注意)太安万侶は、古事記の上巻を変更しただけで実際に執筆したのは、柿本人麻呂との説もある。 では、現存する資料で、「日本」という国名は、いつ出てくるかというと、702年に遣唐使が、帰国するときに呼んだ和歌の中に「うるわし日本(ヤマト)の国」という言葉で、万葉集の中に出てくる。698年に遣唐使が、唐に行ったときには「倭国」と呼んでいるから、このときはまだ「日本」という言葉は無かったのである。 すなわち、この間に「日本」という呼び名が正式に決められたものと思われる。ところが、日本の歴史学者は、従来から「日本」と書いて「ヤマト」と読ませたり、「倭国」と書いても「ヤマト」と読ませていた。 これでは、「今日からは違う国です。倭国ではありません。日本です。」といった意思が失われてしまう。つまり、これまでの歴史研究では、「日本」とうい呼び名の重要性については、ほとんど無視してきたのである。 繰り返すが、「日本」という呼び名を決めたのは、この国を独立国としたかったからであり、対中国に対しては、天武王朝が聖徳太子以来続いている王朝であるとしたかったのである。あるいは、昔の「ひのもと」の国が中国に朝貢していたならば、ひのもとの国以来(4世紀)から続いている王朝であるとしたかったのである。 日本という呼び名は、弥生時代に平和に過ごしていた今の大阪あたりの人たちの国名(ひのもと)を参考に蘇我馬子により、蘇我氏が建国した国は、真に倭人の国という意味で「日本(日本語読みでニホン、中国語読みでジベン)」と提案され、ほんのひと時、対中国に対して使ったが、蘇我氏の滅亡とともに使われなくなった。 その後、100年を経て、天武王朝のときに、改めて倭国を「日本(ニホン)」と呼ぶように決めたのである。しかし、天皇家の万世一系を全面的に押し出したい天武王朝としては、これを公表できなかった。日本という国は、昔からあったようにしたかったのである。 この国を日本と制定した西暦700年ごろから逆算すると、蘇我馬子以来であれば、100年前から、「ひのもと」の国以来であれば、400年前から「日本」という国はあったことになる。 以上 |
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