1930年代の上海の栄華を今も強烈に伝える外灘(ワイタン)の西洋建築群。それは当時、黄浦江を進入する船舶に乗ってやってくる各国の旅行者に強い印象を与えた。ヨーロッパの主要都市の風景と見紛うほどの立派さだったからである。その景観は上海の繁栄の象徴であったが、一方で「偽りの正面(フォールス・フロント)」と呼ばれた。外灘の建築群の奥に一歩足を踏み入れれば、猥雑で混沌とした中華世界が果てしなく広がっていたのだ。
 2000年の上海。20年にわたる改革開放は、先進各国によるばく大な資本の投入をうながし、上海に経済的な豊かさをもたらした。

 その象徴といえるのが外灘の河向こうに広がる浦東開発区の高層ビル群だ。ひときわ目につくのは、アジア第一の高さを誇るテレビ塔「東方明珠タワー」と、高さ420メートルの88階建て高層ビル「金茂大廈」。

 数年後には森ビルによって、460メートルという世界一の高さのビル「上海環球金融中心」も建てられる予定だ。

 21世紀の国際金融センターを目指すこの地区は、対岸から眺めるとさながら香港のようにきらびやかで、外灘の西洋建築群と合わせて眺めれば、21世紀は上海の時代だとささやかれるのも納得できる。

 しかし、浦東開発区もまた「偽りの正面」であった。外灘の船着き場で8角(約10円)を払って渡し船に乗り込み、河を渡れば、そこはもう開発区域だ。

 広くて清潔な道路を公務員ふうの制服の人たちが一生懸命掃除をしている。両脇には造られたばかりの背の高い壁が視界の向こうまで続いている。

 一見近未来の空間を思わせるが、じつはこの壁の向こう側には、昔ながらの住宅街が崩壊寸前のまま残されているのだ。以前からここに住み着いている住民達はまぎれもなく最底辺層だが、長年共に支え合って暮らしているせいか、その表情は明るい。

 しかし、高層ビル群と対比してみると、上海という街のゆがみを感じさせずにはいられない。

 
 旧フランス租界のとあるバー。中国政府が主導する改革開放政策は、上海へのばく大な外国資本投入をうながした。20年にわたる順調な経済発展により、多くの外国人が上海に住み着き定着した。

 現在、欧米人たちは租界時代の邸宅を、当時の雰囲気を壊すことなく現代的にアレンジしてバーやレストランを作り、自分達の生活習慣をそのままそこに持ち込んでいる。それは同時に、上海の若きエグゼクティブたちにとっても目指すべきライフスタイルになった。

 その結果、現在上海における欧米や日本の影響は、経済にとどまらず、文化的にもますます大きくなってきている。

 特に、アングラ、カウンターカルチャー、サブカルチャー、オルタナティブカルチャーと、日本では長年にわたって受け入れられてきた欧米の対抗文化が、上海ではこの数年で一気に受容されているようだ。

 話題のベストセラー『上海ベイビー』は、そんな今の上海を舞台に、裕福な上海の若者達の赤裸々な性と刹那的な生活を描いた小説だ。

 著者である衛慧(えいけい)さん(27歳)自身もまた、このライフスタイルにどっぷり浸かっている中国人の一人である。

 30年代の絢爛たる上海文化をこよなく愛する衛慧さんは、外国人と外国文化が大量に流入している現在の上海を「後植民(ポスト・コロニアル)」と名付けた。そして自分の愛する、華やかで退廃的な文化が、30年代のようにたくさん享受できると、この情況を歓迎しているのだ。

 もちろんこの「後植民」を快く思わない「愛国者」も上海には多い。昨年の中国大使館「誤爆」事件の時には、大勢の上海人が、上海に住む外国人達を敵視した。しかし衛慧さんはその時、事件でおろおろしている外国人達にむしろ興味を持ち、どう立ち回っているかをつぶさに観察していたという。

 今年の4月、中国では破格の10万部を超えるベストセラーとなった『上海ベイビー』が、事実上の発禁処分になった。猥褻な内容が青少年に悪影響を与えるというのが発禁の理由だとされているが、あるいは、自分の欲望に忠実に生きる若者達を自由な感覚で描写したこの小説のなかに、非愛国主義的な主張を当局が嗅ぎとったからなのかも知れない。

 いずれにせよ小説発禁のニュースは中国国内に衝撃を与え、衛慧さんは一躍有名人となった。そのおかげで今や『上海ベイビー』は、日本を含む世界各国で翻訳されることが決まっている。

 だが小説の登場人物のような自由を享受できる若者達は、上海ではもちろんごく一部分にすぎない。その意味ではこの小説もまた上海の「偽りの正面」といえよう。

(榎本雄二)